日本に帰国する前日。
プエルトリコからキューバへと渡る為の小型チャーター機が用意されたけれど、あたいはそれに乗ることが出来ず、突然、痙攣を起こした。
「悠理!」
咄嗟に黒髪の男が駆け寄り、包み込むように抱きしめられる。
「あ、あたい…………無理だ………怖い。」
「悠理…………あんたやっぱり、あのセスナ事故に巻き込まれたのね。フラッシュバックを起こしているのかもしれないわ!」
可憐が悲痛な表情でそう断定した。
皆が不安そうに見守る中、婚約者が口を開く。
「おじさん、しばらくの間、この別荘に滞在してもいいですか?」
「どういうことだがや?」
怪訝な顔の父。
まだ昔のように「父ちゃん」とは呼べないあたいを、寂しそうな目で見つめる。
「二人きりにして欲しいんです。あまり多くの人と接して、混乱すると困りますから。それに……………」
清四郎は静かに目を伏せた。
「僕たちには話し合う時間が必要なようです。」
しばらく沈黙した父は、「分かっただ。好きにすればええ。」と反論しようとした母をせき止め、皆とチャーター機に乗り込んだ。
不安が痛いほど伝わってくる彼らの背中。
あたいは婚約者の腕でそれらを見送った。
「清四郎、頼んだぞ?」
魅録と呼ばれる野性的な顔立ちの彼だけは、何の心配もしていないようだったが。
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それから三日。
二人きりの生活を送っている。
二人だけの思い出話や、旅先でのトラブル。
どういう交際をしてきたか、どんな未来を思い描いていたか、など。
彼はゆったりと、穏やかに、話し続けた。
目と目が絡む。
彼の深い色をした瞳に、いつしか口が開いていた。
「あたいのこと…………好きだった?」
「もちろん。誰よりも愛していました。今も、愛してる。」
「…………あんたにとっちゃ、これって悪夢だよね?」
「“あんた”は止してくれ。清四郎、と。」
「せ…………いしろう。」
それはスッと心に落ち着く響きだった。
何度も何度も、舌の上に乗せたと判る、呼び名。
「悠理………僕はおまえを一人で旅立たせたこと、激しく後悔している。もちろん時は巻き戻らないが、それでも……おまえは僕の大切な婚約者だ。彼の元には帰しません!絶対に。」
「清四郎………」
冷えた唇が自然な形で押し当てられ、徐々に熱を帯びてゆく。
それはとても馴染んだキスだった。
きっと何百回、何千回もしてきたんだろう。
涙が零れ落ちるのは………記憶を失った切なさからだろうか?
清四郎はそれ以上、触れては来なかった。
離れた途端、身体がぶるりと震える。
決して寒くはない土地なのに、まるで氷河の上に晒されたような。
食事はケータリングか外食が多く、それでも朝と昼は彼の手作り料理が食べられた。
「今日は昼から買い出しに行きましょう。そろそろ………洋服も必要でしょうし。」
白いワンピース姿に目を細め、清四郎は何かを思い描いているようだった。
記憶のない女への最大限の気遣い。
あたいはその気持ちを汲んで、大きく頷いた。
ショッピングは記憶を失ってから初めてだ。
ラファエルとはあの別荘に閉じこもりきりだったから。
与えられたワンピースもどこから手に入れたかは知らない。
何かを懐かしむような視線だけが、身体中に注がれていた。
まるで夢のような日常。
あたいはそこに疑問を抱くこともなかったんだ。
けれど、夜、どうしても不安がこみ上げる。
シーツの中、涙を堪えていると、彼は辿々しい口調で日本の子守歌を歌ってくれた。
「大昔の記憶さ。俺の祖母が歌ってくれたんだ。」
ラファエルが牧場経営に失敗した両親から捨てられたのは六歳の頃。
ブラジルには多くの日系人が住み着いているが、もちろん皆が豊かな生活を送れるはずもなく、彼の父親はとうとうアル中に陥り、母は日常的に暴力を受けるようになる。
ラファエルが捨てられたのは、父親が若い愛人と共に失踪した頃だ。
母は精神疾患を患い、強制的に病院へと収容された。
放置された彼は、 それから長い時をスラム街で過ごす。
あたいが聞いたのは………そこまで。
ラファエルは掠れるような声で、囁くように歌う。
その子守歌に慰められ、眠りに落ちていく心地よさは初めてのものだった。
おそらく。
雄々しく、逞しい身体に寄りかかっていると安心できた。
‘誰か’の代わりの胸。
その‘誰か’はここに居る清四郎だったのか。
抱き締められた時、その胸板の厚さを懐かしく思ったのだから、きっと間違ってはいない。
ラファエルとは違う香りに心が安らいだことも含めて。