テラスから吹き込む風は生暖かく、湿気を含んでいる。
この二ヶ月間で、肌が気候に慣れたのか、心地よく感じるけど、彼はそうじゃないらしい。
「悠理。食事が出来ましたよ。」
「…………ん。」
何度も夢に出てきた黒い影。
それが彼、菊正宗清四郎だと判明したけれど、まさか現在進行形の婚約者だとは夢にも思わなかった。
『過去の男』
そう思い込んでいたのは、あたいの大きな過ちだ。
───この男は四歳の頃に出会って、それからずっと毎日のように顔を合わせ、過ごしてきた人物。
昔は飼い主とペットのような関係だったらしいけど、高校を卒業した頃、彼から想いを伝えてきたと言う。
そしてあたい自身も───菊正宗清四郎のことが好きだった、らしい。
お互い初恋同士。
周りが驚くほどその関係は変化を遂げたと聞く。
色んな冒険話や武勇伝を、仲間と称する四人から聞かされるけど、未だにピンと来ない。
それでも、自分がトラブルメーカーであることは何となく肌身で感じていた。
破天荒で無鉄砲。
じゃじゃ馬娘と評判の財閥令嬢。
それがあたいの一般的な評価だ。
ここはプエルトリコにある父親の別荘。
『剣菱万作』の名は世界中に轟いていて、あたいはその娘だった。
兄も一人いるみたいだけど、今は会長不在でてんてこ舞い。
トラブル慣れしている所為か、見つかったときも言葉少なに、「・・・・・・・よかった。」・・・・・そう呟いただけと聞く。
久々の再会。
父と母は涙脆く、あたいを強く抱きしめ、大いに無事を喜んだ。
暖かい抱擁に心が解れる。
両親が存在したことは素直に嬉しいと思った。
きりっとした美人の母と、ころころ太った父。
特に父は明るくて、懐の深い人間に見えた。
この二ヶ月間。
ラファエルの優しい心遣いに助けられたけど、心の底では不安だった。
自分には身寄りがなく、彼しか頼る人間がいないのではと思い込んだ。
肌を重ねたことも、
縋りたいと願ったことも、
全て、自分の立ち位置が不安定だったからに違いない。
もちろん───決して、それだけではない、と思う。
ラファエルは優しくて、いつも明るく接してくれた。
とことん、甘やかしてくれた。
愛してると告げながら、気持ち良いことをいっぱい与えてくれた。
だけど、それが過ちだなんて、思ってもみなかった。
本来の居場所は彼の側なんかじゃない。
日本の首都で家族や友人、そして将来を誓い合った男に囲まれ、幸せに暮らしていた。
決して孤独じゃあなかったんだ。
皆が記憶を失った娘に優しくしてくれる。
けれど、婚約者である彼の視線だけは居たたまれない。
黒い瞳からは強烈な光が放たれ、まるで見えない糸に絡め取られ、雁字搦めになっている感じがする。
どう思っているんだろう?
他の男に抱かれた婚約者を。
どう思っているんだろう?
記憶が戻るかどうかも分からない女を。
彼の見えない心が怖い。
・
・
友人である可憐と野梨子は女性らしい労りで接してくれる。
だけど、三人で枕を並べ聞かされた話は、とてもじゃないが真実とは思えなかった。
「清四郎はねぇ、あんたのこと、心底愛してんのよ!もう見てる方が赤くなるくらい!」
「そうですわ。婚約した時のにやけた顔はほら、こんな感じで………」
パソコンに映る、金屏風の前に座る二人。
確かに仏頂面ではない。
優しい微笑みを湛えていた。
「ね?あんたは真っ赤になってるけど、幸せそうでしょ?」
「悠理は照れ屋ですものね。あ、この時の衣装は私たちが選びましたの。」
金糸銀糸の立派な帯。
豪華な友禅の着物。
脳裏をうっすらとした記憶が掠める。
「清四郎の羽織袴は評判良かったわよね。凛々しくてさ。前回はタキシードだったけど、和装の方が絶対に似合うもの。」
「ええ!世界各国のメディアで美男美女と絶賛されましたわ。」
どれもこれも、自分の話とは思えない。
二人の関係がどれほど密であったと聞かされても、足下が不安に揺れる。
この二ヶ月間、本当に心を占めていたのは────ラファエル?それとも清四郎?
答えの定まらない自分が一番怖いのかもしれない。