彼女が去った後の屋敷は、南国とは思えないほど肌寒く感じた。
‘アレク’はこちらの感情を汲み取り、足下に座っている。
これで終わったわけじゃない。
ユーリはまだ俺の手の内にあるはずなのだから。
目に眩しい程の浜辺に打ち上げられた彼女を見たとき、それはもう運命としか考えられなかった。
人形のように整った顔立ちも、細くしなやかな、しかしどこか野性味のある身体つきも。
全てが“ラウラ”を彷彿とさせる。
俺とラウラは幼い頃からスラム街で育ち、将来を誓い合った間柄だった。
幼い頃、両親に捨てられ、完全なる孤児となった俺に対し、水商売をしながらも女手一つで育て上げ、その責務を立派に果たそうとした母を持つラウラ。
どことなく気品漂う顔立ちに、自分とは違う出自であると感じてはいた。
父親について、頑なほど話そうとしなかった母。
ラウラも彼女の悲しげな顔を見るのが辛く、次第に諦めていった。
しかし──
共に17を迎えたその年。
どこからともなく現れたスーツ姿の男達は、ラウラを強引に連れ去ろうとした。
たまたま彼女の部屋でくつろいでいた俺はもちろん、奴らから必死に守ろうとする。
しかし、男達は見た目通りのプロフェッショナルで、懐から取り出した拳銃は見事俺のふくらはぎはぶち抜いた。
「ラファエル!!」
悲痛な叫び声がボロ屋に響きわたる。
ラウラはまるで荷物のように抱えられ、夜の闇に消えていった。
彼女の遺体は、数日後、海の中から見つかる。
あまりにも無惨な姿だった。
母親は泣き崩れ、激しく問い詰める俺の声にようやく耳を傾けた。
ラウラの父親はアメリカ経済界の大物。
若かりし母がロスへ遊びに行った時、たまたま彼と一夜の恋に落ち、ラウラを身ごもったという。
妻も子もいる相手。
当然、腹の中の存在を伏せなくてはならなかった。
この十七年、必死で守り、隠してきた娘。彼との縁を望んだ事は一度も無いだろう。
どこから洩れたかなんて、そんなことはどうでもいい。
仇は必ず討ってやる。
そう誓いを立て、俺はこのドブ臭い町から抜け出そうと考えた。
それから半年ほど経った頃。
雇われ先で偶然知り合った不動産王は、色んなことを教えてくれた。
道楽かもしれない。
大学に通わせ、経済の仕組みを叩き込み、事業を一から作れと命じた。
才能があったのか、はたまた運が良かっただけなのか。
たった五年で、周りに認められるほどの実業家へと成長した俺に、87歳だった彼は自分の財産を全て譲った。
「おまえの思うように使えばいい。私はもう、先が見えているのでな。」
莫大な資産が更に利益を産み出し、気が付けば南米一の位へと上り詰めていた。
社交界に飛び込んだのは丁度その頃。
ラウラの父親は数年前の脳溢血がもとで、足が不自由となり車椅子生活。
同情の余地は、もちろん無い。
俺は、新参者として子犬のように懐へ飛び込み、彼の気を惹く。
早速スラム街の匂いを嗅ぎ付けたのか、案の定興味を持ち、屋敷に招き入れてくれた。
妻は40代半ば。
上院議員の娘だけあって、高飛車な白人だった。
娘は二人。
どちらもそれなりに美人だ。
ラウラが生きていれば、同じ年頃の姉妹として仲良く出来たはず。
否───そんな幻想はあり得ない、か。
外堀からジワジワと崩壊させることも考えたが、それだけでは気が済まない。
まずは娘二人を誑かし、特殊なルートを使って、闇の世界に足を突っ込ませた。
年頃の女は呆気なさすぎる。
酒に溺れ、男に惑わされ、そして最後は薬漬けとなり、見るも無惨な娼婦へと辿り着いた。
母親は半狂乱。
しかしスキャンダルを回避しようと、口止め料は惜しまない。
俺は慰める振りをして、その金をラウラの母親へ送金した。
結局、二人の娘は精神病院行き。
そんな事態に父親は、ようやく俺に不信感を抱き始めた。
しかし、全てがもう遅いのだ。
おまえたちの行き先は地獄と相場が決まっている。
ラウラを犯し、殺し、ゴミのように捨てた報いは受けてもらう。
二人の愚者はある日、西海岸の浜辺に流れ着く。
マスコミはスキャンダラスにはやし立てたが、結局死因は自殺と断定された。
復讐は終わり、俺は社交界から身を引いた。
事業は預かり知らぬところで巨大化していったが、優秀な右腕が何人も存在する為、汗だくで働く必要もない。
それでも一箇所に留まることは出来ず、世界各国をぶらつき、ラウラとの思い出に浸っていた。
カリブ海で出会ったユーリ。
これは正しく運命と言えよう。
どのようなトラブルに巻き込まれたか分からないが、美しい海からやってきた人魚姫。
彼女が握りしめていた携帯電話を調べると、世界的企業『ケンビシ』の娘だと判明した。
しかし俺はその電話を即座に処分し、彼女に伝えようとはしなかった。
ただの“ユーリ”でいい。
ラウラの面影を感じさせる美貌と幼さ。
たとえ記憶が戻ろうとも、手放すつもりはない。
婚約者の登場は確かに想定外。
けれどユーリは記憶がないまま、俺を愛し始めていた。
日に何度も抱き、夢のような毎日を与え続け、恋人としての優しさを示した。
時に寂しい表情をすれば、暗示をかけるかのように愛を告げ、俺に縋らせ、気の済むまで泣かせた。
この先、どれほどユーリの心が揺れようとも、最後は必ずこちらを選ぶ。
あの黒髪の男が出る幕はないんだ。
クゥゥーン
「アレク?寂しいのか?」
見上げてくる愛犬を彼女の代わりに優しく撫でる。
「大丈夫。必ず取り戻してやるから。そうしたら皆でブラジルへ行こう。おまえの生まれ故郷だもんな。」
彼女が日本へ帰ったとて、この地球上に居る限り、逃しはしない。
邪魔する者は全て消し去るのみ、だ。