Lost memory ~本編~

悠理が行方不明となって二ヶ月と八日。
時宗おじさんとタッグを組んだ剣菱の力をもってしても、明確な手掛かりは見つからない。

二ヶ月前。
悠理はロサンゼルスに滞在していた。
憧れのシュワルツェネッガーに会うため、三週間もの予定を空けて。
それは婚約してから初めての単独行動で、いつもなら同行するはずの僕は学会の為ドイツに渡っていて、あのトラブルメーカーを一人きりにしてしまった。

恐らくは、ロスで何らかの事件に巻き込まれたのだろう。
滞在先のホテルにはほとんどの荷物が置いてあった。
唯一、彼女の携帯電話だけは見当たらなくて、一縷の望みを賭けGPS探知をしてもらったけれど、その信号はキューバで途切れていた。

当然、捜索の手をキューバに広げる。
しかし、誰に聞いても彼女の影すら見かけた人はいない。
万作おじさんは現地の人を買収し、小さな島々を洗い始めた。

結果、知り得た情報は一つだけ。
二ヶ月ほど前、近くの海で小型セスナ機が不時着し、沈没したというニュース。
現地パイロットが一人死亡。
乗客だったアメリカ人2人は未だ行方不明らしい。

果たして悠理との関連性はあるのか?
僕は仲間達四人を引き連れ、中米へと渡った。
娘をこよなく愛す万作夫妻は誰よりも早く現地入りし、 カリブ海に面したプエルトリコの別荘に腰を据えた。
現地の警察と連携を組み、しらみつぶしに聞き込みを始めている。

あの気丈夫な百合子夫人もさすがに憔悴し、蓄積された疲労が顔に表れている。
美童と野梨子が寄り添い、賢明に慰めた。

しかし僕はその時─────まだ楽観視していたんだ。

悠理の悪運を信じて。
どんなトラブルに巻き込まれていようが、 きっと無事なはずだと。

勿論、不安に押しつぶされそうになる夜もあった。
彼女の悪態が遠くから聞こえてくる。

──────清四郎!早く助けに来い!

夢から覚め、隣に居ないことを確認すると、言い知れぬ不安が襲う。
彼女の滑らかな肌に触れて眠る夜が日常と化していた僕は、当然寝不足の日々を送った。

悠理、いったいおまえはどこにいるんだ?

かつて、僕達はこんなにも長く離れたことがなかった。
悠理とは高校卒業後、すぐに交際を始め、婚約は去年の秋に決めた。
来年の卒業後直ぐに式を挙げることも決まっていた。

愛し、愛される喜びを教えてくれたのは彼女だ。
幸せな未来が、二人の行く道には広がっていると確信していたのに。
もし、この手に返ってこなかったら……それは当然、絶望を意味する。

必ず見つけなくては。
どんな状態であろうと、僕の元に。


ようやく一つの光明が与えられたのはそれから五日後のこと。
悠理が行方不明となって二ヶ月と二週間が経った時だ。

とある島の漁師が魚を売りにプエルトリコの漁港に来ていた。
現地の警察官と聞き込みの真っ最中だった魅録が、彼から悠理らしき少女を見たという情報を得たのだ。

すぐに皆の元へ届けられる吉報。

猟師が住むその島はカリブ海に浮かぶ、ごくごく小さな島らしい。
地図上でも見つける事が困難なほどの小ささ。
もちろんリゾート地などではないがエメラルドグリーンの海と真っ白な砂浜が美しく、とある大金持ちが気に入り別荘を建てていた。
まさしくプライベートアイランドとも言える場所だ。
原住民は僅か50人。
悠理はそこに流れ着き、島の住人に助けられたという。

──────生きている!

そう判っただけで、胸が熱く高揚した。
今すぐにでも迎えに行かなくては!
気が逸る。

知らせを聞いた万作おじさんは、たった10分で中型クルーザーを用意した。
百合子夫人と僕たち六人、そしておじさんの運転のもと、一路島を目指す。

──────悠理!やっと、会える!

夕方、日も暮れかける頃、ようやくその島へと辿り着く。

可憐は「あの子ったら、どうして連絡しないのよ!!」と激怒していたが、島の漁師によると、どうやら悠理は記憶障害を起こしているらしい。
今は“とある”人物の元で静養しているが、もちろん相手の素性はおじさんの手で迅速に調べ上げられていた。

警察にも届けず、悠理が何者かも調べず、
ただ自分の屋敷に住まわせている変わり者。
嫌な予感がしたのは無論、僕だけではない。
黙ってはいるが、島に辿り着いた全員が朧気にそれを感じ取っていた。

海辺に建つ、不釣り合いなほど立派な建物は、真っ白な外観を多くの椰子で囲っていた。
プライバシーへの配慮か?
変わり者と評判の若手実業家、『ラファエル・ド・ルイ・ブランコ』は、社交界にも滅多に顔を出さない謎めいた男だった。
万作おじさんも「一度しか見かけた事が無い」と首を捻るほど。
そんな男が記憶を失った悠理を手元に置き、この何もない小さな島に二ヶ月も滞在しているという。

その意味は・・・・・?

最悪の事態は想定済みだ。
たとえ、どんな状況であろうとも、僕は悠理を必ず日本に連れて帰ると決めていた。
そう。
たとえ今、記憶が戻らなくても、僕の側にさえ居れば、必ず思い出すはずだ。
2人の絆はそんなにも浅くはない。

’ラファエル・ド・ルイ・ブランコ’は思っていたよりも若々しい出で立ちで、穏やかな笑みを浮かべながら僕たちを出迎えた。
好みだったのだろう。
可憐が色めき立つ中、「悠理を助けてくれて感謝するだ。」と、万作おじさんは百合子夫人と共に丁寧に頭を下げ、礼を述べる。
もちろん心中は複雑だろう。
二ヶ月半もの間、警察にも届けず、ただただひっそりと愛娘は匿まわれていたのだから。

「ユーリは日本に戻らない。俺の妻になってもらうつもりだ。」

広々とした真っ白なリビングで彼はそう述べた。
僕たちは出されたジュースに口も付けず、ラファエルを唖然と見つめる。

「ど、どういうことですの?」

百合子おばさんは驚愕し、目を見開くが、もちろんその意味は理解しているのだろう。
二人がこの二ヶ月間でどのような関係になったかを。

「ユーリは俺だけのマーメイドだ。浜辺で見つけた時、ヒトメボレした。彼女も俺を愛してくれている。」

「ふ、ふざけないでよ!!!悠理はここにいる清四郎の婚約者よ!?来年には結婚だってするんだから!」

「そ、そうだよ!記憶が無いからって・・・そんな簡単に・・・・」

美童と可憐が激高する中、野梨子はカタカタと震えながら僕の手を掴んだ。
しかし僕はラファエルの言い分などどうでも良かった。
一刻でも早く悠理に会いたいと願っていた。

「厄介な事になっちまったな。」

魅録がくしゃくしゃと頭を掻く。

厄介?

一体、何がだ。

悠理は僕だけのもの。
彼が何と言おうとも、彼女の身も心も絶対に譲れるはずがない。

「悠理に会わせて下さい。今すぐ・・・・」

僕の言葉にラファエルはピクリと反応する。

「良いだろう。彼女に選ばせるとしようか。」

ひんやりと漂う空気を裂くように、犬の鳴き声が近付いてくる。

「こら、アレク!!待てってば!」

たった二ヶ月。
けれど十年も聞いていなかったように思う、その懐かしい声。

「悠理よ!」

「「悠理!!」」

両親が、仲間達が席を立つ前に、僕はソファを飛び出していた。
テラスへと続くガラス戸の向こうから、日に焼け、少し髪の伸びた悠理が駆け寄ってくる。

「ラファエル!アレクのシャンプーどこだよ?・・・・・って、わ!!誰っ?」

嗅ぎ慣れぬ香りの彼女を抱き締めた僕は、「会いたかった・・・・」と震える声を絞り出した。

「悠理、悠理・・・・・・」

「ち、ちょっと・・・・!マジで・・・・誰だよ・・・?」

「ユーリ、君の婚約者らしいよ?」

涼しげなラファエルの指摘に、悠理は身を捩る。

「こ、婚約者ぁ!?」

顔を上げた彼女の大きな瞳に僕の不安げな表情が映り、そしてそれはあまりにも悲しい色を宿していた。

「そうです・・・・悠理。僕は清四郎。おまえの・・・・・・・・・・・婚約者だ。」

「あ、あたいの・・・・・・・・こん・・・やく・・・・・・しゃ・・・・・・・」

薄茶色の瞳が徐々に曇り始める。
絶望の闇へと。
ゆっくり転げ落ちていくように。

「や、や、やだ・・・・嘘だ、そんなの・・・・・・・・・・・・」

「本当です。おまえは・・・・・・・・僕を、愛していた。」

「嘘だ、嘘だ、嘘だっ!!!!」

木っ端微塵。

壊れたのは彼女の心。

悠理は一途な女だ。
浮気心など一度も抱いた事が無い女だ。
僕だけを信じ、僕だけを愛していた、可愛い女だ。

そんな彼女が今崩壊しつつある。

僕と、彼の狭間で。

記憶が無いままに、きっと・・・・・彼のことも愛し始めていたのだろう。

「ラファエル・・・・・・・」

涙が溢れ始める。

「ユーリ、こっちへおいで?ああ・・・・君が苦しむ姿は見たくないな。」

「あんた・・・・酷いわよ!記憶のない悠理を・・・・・・」

「俺は彼女とこうして暮らしていられればそれで幸せなんだ。むしろ君たちが邪魔だよ。」

冷ややかな目線に可憐がたじろぐ。
開いたままの口が塞がらない百合子夫人は、あまりの怒りからか、身体が小刻みに震え始めた。

「不届き者!!悠理が貴方を本気で愛しているはずがありませんわ!」

「ふ・・・どうしてそんな事が言える?」

「清四郎と悠理は、誰よりも強い絆で結ばれていますのよ?もちろんわたくし達とも・・・」

「なら何故、彼の顔を見て思い出さない?その絆とやらが薄っぺらいせいじゃないのか?」

あまりにも酷い台詞に閉口する野梨子。
怒りを堪えきれずに手を翳した彼女を、魅録がすかさず引き留める。

「取り敢えず・・・・悠理は日本に連れて帰って、然るべき医者に診せるさ。」

「彼女が帰りたがらない場合はどうする?」

「帰りたがるに決まってんだろ?こいつは、何よりも日本食が好きなんだから。」

結局、僕たちはプエルトリコの別荘まで、悠理を連れ帰ることに成功した。
泣き喚く彼女は痛々しかったけれど、ラファエルの側に置いておけるはずもない。

僕は諦めるわけにいかなかった。
どれほど痛みが伴おうとも、必ず記憶を取り戻してみせる。
二人の明るい未来の為に・・・・。

胸の内に渦巻く焦燥は、彼に対する激しい怒りから。

殺してやりたい、と生まれて初めて望んだ相手だった。

しかし理性の鍵を寸での所、かけ直す。

今は悠理の記憶を取り戻すことが先決だ。
他の誰を忘れてもいい。
僕のことだけは必ず思い出させてやる。

ひたすら泣き叫んだ悠理は気絶するように眠る。
可憐と野梨子に囲まれながら、安らかに。

「清四郎・・・・あんたが一番辛いわよね。」

「大丈夫です。皆が側に居てくれるだけで、僕は・・・・・きっと・・・・自分を保つことが出来ますから。」

「清四郎・・・・」

そう。
ラファエルを切り刻むのは後で良い。
彼女の身体を弄んだ罪をきっちり思い知らせてやる。

「悠理・・・・愛してますよ。」

紫外線で少し細くなった髪にそっと触れながら、僕は取り繕うように微笑んだ。