そこから先の記憶は曖昧だ。
轟音と爆風。
打ち付けられたのは果たして海の上だったのかすら、定かではない。
激しい痛みが全身を襲い、悠理はそのまま意識を失った。
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「流石に妬けるな。………そんなにも彼が好きなのか?」
ラファエルの美しい顔が苦み走る。
「あんたには………感謝してる。でもあたいはあいつのもんなんだ。最初っから──」
悠理の辿々しい断言に失笑を浮かべ、彼は熱く濡れた場所から指を引き抜いた。
「認められない、と言ったら?このまま何処かへ連れ去って監禁することくらい、俺には朝飯前なんだが。」
彼の言葉は確かなのだろう。
自分に対し、それだけの執着があることくらい悠理にも解っていた。
けれど………………
「………あんたがほんとに欲しいのは………あたいじゃないだろ?ラファエル。」
「………どういうことだ?」
「いつだって………誰かの代わりにあたいを抱いてた。そうじゃないのか?」
途端、顔色を失った男に悠理は畳みかける。
「あんたにどんな過去があろうと、どうでもいいさ。でも、あたいは“剣菱悠理”だ。他のどんな奴の代わりにもならない。ましてや身代わりなんて真っ平御免だ!」
渾身の力で突き飛ばし、立ち上がる。
その燃え盛るような瞳は初めて見るものだ。
ラファエルが見惚れる中、悠理は覚悟する。
もう、一片の情も彼に与えてはならない。
「感謝はしてる。だから……これ以上嫌いになりたくない。もう、二度と………会わない。」
血を流しながら仁王立ちする悠理を、ラファエルは呆然と見上げていた。
腕の中で不安げに身を縮めていた彼女は、どこにもいない。
まるで獅子のような凛々しさで対峙する姿は、彼の知る「ユーリ」でなく、正しく「剣菱悠理」そのものだった。
「なるほど。俺の手に負える女ではないと………。参ったね。」
「なぁ…………清四郎は?あいつに何したんだ!?」
そう簡単にやられる男ではないと解っていても、胸の内は不安に揺れる。
「チンピラを四、五人雇った。殺すように、と。」
「四、五人?たったそれだけ?」
彼の武術を以てして、その程度の人数は敵の内にも入らない。
修羅場慣れした悠理ですら切り抜けられるだろう。
「銃も持たせているんだ。きっと………無事では済まない。」
項垂れるラファエルは顔を背けるように、窓の外を眺めた。
そこへ・・・・・・・・・・・・・・・
「おやおや。随分と舐められたものですね。」
それはいつもの彼らしい口調であったが、声色はどす黒く、悠理ですら耳にしたことのないものだった。
「清四郎!」
振り向いた彼女が目にしたもの。
そこには 銃を構える、恋人の見慣れぬ姿。
「悠理、こちらへ来なさい。」
乱れた前髪から覗く目には、炎のような怒りが宿っている。
否、殺意だ。
「せぇしろ…………」
背筋に寒いものが走ったが、ここは素直に言うことを聞かなくてはならないと、 悠理は慌ててシーツを纏い、ラファエルから恐る恐る距離を開き始めた。
「なるほど。一筋縄ではいかないようだな。・・・・にしても、役に立たない連中だ。」
開き直った彼は大人しく両腕を挙げる。
しかし次の瞬間、背を向けた悠理を長い腕で引き戻し、まるで盾にするかのような体勢で抱きしめた。
「ユーリ、君は身代わりなんかじゃない。俺はちゃんと、君に惚れてる。」
耳元に囁かれた言葉はとても甘く、しかし直後に放たれた銃声は悠理の聴覚を瞬く間に奪った。
「ぐっ………!!」
ラファエルが背中を滑るよう崩れ落ちる。
途端に鼻をつく、血と火薬の匂い。
悠理は信じられない現実に言葉を失った。
────まさか清四郎が撃つだなんて!
「次は…………頭を吹き飛ばしますよ。」
よく見れば、弾はラファエルのふくらはぎを撃ち抜いていた。
致命傷にはならない場所を。
「清四郎!止めろ!おまえは魅録じゃないんだから!」
「!!悠理………まさか、記憶が…………?」
呆然と佇む清四郎に駆け寄った悠理は、その首にガシッとしがみついた。
「戻ってる!………もう、戻ったから!」
温もりも、香りも、感触も、全てが懐かしい。
悠理が求めていたたった一人の男。
世界中の誰よりも愛している、唯一無二の恋人。
「悠理………!!!」
「せぇしろ………ごめん、ごめん、ごめんなさいーーーー!」
泉が湧き出るように戻った記憶には二人の甘い歴史が詰まっている。
悠理はラファエルとの時間を心から悔やみ、止め処なく涙を流した。
「良いんだ……良いんだ。悠理が僕を思い出したなら、それで…………」
「愛してる。おまえが来てくれるの、ずっと待ってた───」
「遅れて………ごめん。もう絶対に離さない。誰にも奪わせない。」
抱き締め合う手に力がこもり、それでも足りないと言葉を紡ぐ。
ラファエルが痛みに悶え、見守る中、二人の時はそこだけが隔絶されたかのように色付いていた。
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地元の警察がやって来た後、ラファエルは病院へ、そして清四郎と悠理は署へと誘導された。
キューバ市内のホテルに留まっていた剣菱夫妻も急ぎヘリで駆けつけ、愛娘を取り戻した喜びに感涙する。
全治三ヶ月、と診断されたラファエルはその後、逮捕され、司法の場で裁かれることとなるだろう。
悠理は傷ついた彼を見舞うことはなかった。
ただ、白いワンピースに花を添え、送り届けただけだ。
恐らくは思い出の品。
愛した女性の陽炎が見える。
「「悠理!!!」」
「やっと帰ってきたね。」
「・・・ったく、心配させやがってよ。」
仲間達が首を長くして待っていた空港で。
降り立った彼女の腕を、清四郎は離さない。
「よぉ、色男!ぶっ放して来たんだって?」
「魅録じゃありませんからね。狙いは外れましたよ。」
「慣れないことをするもんじゃありませんわ。」
「あら、清四郎なら素手で殺せちゃうんじゃないの?」
「お~怖い。嫉妬に狂う男は怖いねぇ。」
何と言われようと悔いはなく───
繋がれた手に力を込め、清四郎は悠理の笑顔に口付けた。
「………清四郎?」
「今回の事で、僕はおまえから片時も目を離してはいけないと分かりました。これからは何処へ出掛けるのも一緒です。」
「うげっ!?」
「んまっ!鬱陶しい。悠理、そんな男捨てちゃいなさいよ!」
「少しやり過ぎではありませんの?」
「いや・・・・まあ、気持ちは解るけどよ。」
「いくら何でもそれは無いよ、清四郎。」
「あなた方は黙っていてください!───悠理、返事は?」
彼女に反論など許されてはいない。
あの時の清四郎の怒りを思い出せば、その気も失せようものだ。
「…………ウン、わあった。」
「いい子です。」
頭を撫でられ思い出す、優しい温もり。
失ってはいけない記憶と感触を胸に、悠理は愛する男の側ではにかんだ。
<完>