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unfading love(Happy father)
キャッキャッ
子供部屋から聞こえてくる華やかな笑い声。
つい最近メイド長に昇格されたばかりの冨美菊とみぎくは、窓を磨く手を止め、声の方へと振り向いた。
━━━━悠眞坊ちゃまがお目覚めになったのね。
扉の向こうでは恐らく、お腹を空かせた赤ちゃんがぐずったのだろう。
寝顔を眺めていた悠理が母乳を与え、満足した顔を見せる我が子の可愛さにとうとう遊び始めたに違いない。
そんな想像をするだけで、冨美菊の顔がほころんでゆく。
彼女だけではない。
剣菱家に住む使用人全員が、見目麗しいプリンスの誕生に心躍らせ、毎日の仕事に癒しを感じていた。
剣菱家に新たな一員が加わって半年。
若くして出産した令嬢は、昔よりも随分と大人になり、今やすっかり母親の貫禄が滲み出ている。
そんな変貌ぶりに複雑な喜びが込み上げる冨美菊。
━━まだまだ遊びたい盛りでしょうに。
夫、清四郎から与えられる深い愛情のおかげか、彼女は花も嫉妬するほどの美貌を輝かせ、当たり前だった我儘も半分にまで減っていた。
学業と子育ての両立は、彼のサポートで成り立っている部分も確かに多い。
しかし悠理自身の変化は、彼女が持つ溢れんばかりの母性から生まれていると、冨美菊は確信していた。
「冨美菊ちゃん!あたい、こいつ沐浴させちゃうから、新しいバスローブ持ってきてくれる?」
悠理が扉の隙間から顔を覗かせる。
我に返ったメイド長は慌てて注文された物を取りに向かった。
━━━━乱暴者のお嬢様が、一人で上手に沐浴までするんだから………ほんと、変われば変わるものだねぇ。
◇
◇
◇
「さて、と。」
‘湯上り卵肌’ってこんなのを言うんだろうな?
あたいも悪くはないほうだけど、こいつには負けちゃう。
悠理は我が子のプルプルとしたお尻をタオルで優しく拭いながら、そんな感想を抱いていた。
「少しはおっきくなったかぁ?」
日々の僅かな成長までは実感出来ないにしても、彼が見せる表情が少しずつ種類を増やしてきているという事は、赤ん坊から脱却しつつある証拠だ。
生後半年。
母親歴も同じ。
悠理は意外にもしっかりと育児をこなしていた。
学業の方は元が元だけにあまり期待できないが、それでも単位を落とさないように頑張っている。
忙しい合間でも清四郎がつきっきりで勉強を見てくれるおかげだ。
「あいつ、遅いな。また兄ちゃんにこきつかわれてんのか?」
肌着を着せ、ベッドに横たわらせた後、悠理は揺りかごを優しく揺らす。
これは自分が赤ちゃんの頃使っていた物で、百合子が更に派手派手しくリメイクさせた。
懐かしさを感じる動きは、悠理の眠りをも誘う。
気付けば彼女は息子と同じ、夢の世界へと潜り込んでいた。
・
・
「母さん。」
「ゆ、悠眞?」
低いながらもよく通る声は清四郎とそっくりである。
容貌は母を模したかのように中性的。
悠理そっくりの髪質と、色素の薄いきりっとした目。
身長から予測するに、高校一年生といったところか?
聖プレジデントの制服を身に纏っている。
「おまえ、でっかくなったなぁ。」
「そう?」
「うん。あたいを越しちゃってるじゃんか。うわっ!……喉仏まである!」
しっかりとした男の骨格を持つ息子が少々気恥ずかしい。
ツンツンと指で胸元をつつきながらも、さすがに抱き寄せることは出来ないでいた。
けれど漂ってくる匂いはどことなく甘く………それは紛れもない息子の香り。
ミルク混じりの優しい香りだ。
「母さんはちっとも変わらないね。」
「え、そう?」
多少おかしな会話でも、夢の中なら無視出来る。
ここがどんな空間であるとか、
息子が大きく成長しているのは何故か、とかそんな疑問は些末なことだ。
今は優しく微笑みかけてくる悠眞と彼から伝えられる言葉だけが彼女にとっての真実。
悠理は素直に心弾ませた。
「清四郎は?」
「父さんは…………………」
言葉を探す息子にゴクリと唾液を飲み下す。
━━━まさか………あたいたち、上手くいってない、なんてわけないよな?
「母さん、もしかして不安なの?」
敏いのは父譲りか?
悠眞は問いかける。
「不安?」
「父さんの愛情を疑ってる?」
そう突っ込まれ、悠理はブンブンと首を振る。
「疑ってないよ、ちっとも。」
「だよね。だって父さんは………」
「え?…………何??」
どこからともなく現れた白い霧に、息子の身体が溶けるように消えていく。
「母さんのこと……かた…………」
「聞こえないってば!」
悠理は頭の片隅でこれが目覚めであることを知っていたが、成長した息子との会話を少しでも引き伸ばしたいがため、必死で手を伸ばした。
「悠眞!!」
霧の中を探り、消え行く彼の手を握ろうとする。
決して小さくはない、見慣れぬその手を………。
闇雲に動かした結果、悠理は確実に人肌を掴んだ。
━━━悠眞??
「…………り、悠理。」
「母親を呼び捨てかよ。」
「は?」
聞きなれた声、嗅ぎなれた香り。
目を開ければ見慣れた夫の姿。
「あり………せぇしろ?」
「寝惚けてるんですか?」
優しい笑みを浮かべる清四郎は、揺り籠にもたれたままの妻を軽く小突く。
「悪い、遅くなった。沐浴はもう済ませたんですね?」
「うん。」
「気持ちよかったんでしょうな。ほらすっかり大人しく寝ていますよ。」
片手に妻を抱き寄せたまま、揺り籠を小さく揺らし始めると、むにゃと目を擦る我が子。
寝付きの良さも悠理譲りである。
「こいつさ、あたいそっくりに成長するぞ。」
「ほう。見てきたような事を言いますね。」
「見てきたよ。声変わりまでしてた。」
彼女と‘不思議’は、切っても切れない関係だ。
たとえ『実は宇宙人と交信出来るんだ!』と聞いても別段驚かないだろう。
納得顔を見せる清四郎は、揺り籠を揺らす手を止め、妻を一気に抱え上げた。
「わっ!」
「是非、その話を聞かせてください。ベッドの中で、ね。」
「別に良いけど……おまえ、どうせ聞くつもりないだろ?」
悠理はわざと拗ねて見せる。
きっと彼は彼女の話を中断してでも、夜の営みへと引きずり込むはずだから。
「そんなことありませんよ。」
人当たりの良い笑顔はむしろ怪しげで…………
その裏で舌舐めずりする夫を悠理はしっかり見抜いていた。
‘父さんの愛情を疑ってるの?’
━━━疑う余地なんかないさ、悠眞。
あの約束から今まで、こいつはあたいを不安にさせないよう、全力で側に居てくれてる。
毎晩、昔の悲しい記憶すら入り込む余地がないほど、強く抱き締め、眠ってくれる。
悠理の幸福な日常を守ろうと必死に努力する清四郎。
そんな愛情にどっぷりと浸る悠理は盤石な胸に頬を擦り寄せた。
「せいしろ…………」
「うん?」
「死ぬまでずっと………愛してくれる?」
「その点に関しては自信がありますね。」
晴れやかに笑う夫を見上げ、幸せを噛み締める。
絶対に失うことの出来ない温もり。
清四郎への変わらぬ信頼と愛情は、この先、悠理をどんどんと成長させていくのである。
・
・
・
十五年後━━━
コンコン
「母さん、父さん。そろそろ時間だよ?」
「わ、わぁってる。」
「もう少し待っていてください。」
両親の寝室前で、新たな制服に身を包む悠眞は、深い溜息を吐く。
さっきから何度この遣り取りを繰り返しただろう。
二人の仲の良さは充分知っているけれど、だからといってこんな日まで━━━。
「清四郎、これもキスマーク見えちゃうってば!」
「なら、こっちはどうです?ああ、胸元が開きすぎてますね。却下。」
「もう、いい!スーツ!パンツスーツ着るから!ブラウス取って!」
「はいはい……おや、このブラウス、薄すぎやしませんか?下着が透けて見えますよ。」
「うっさい!これでいいんだってば!」
「ではせめてスカーフを……ほら、おまえにはやっぱり派手な柄が良く似合う。」
そう言いながらも、悠理のふっくら成長した胸をブラウスの上から柔らかく揉みしだく。
「……こ、こら!さすがに悠眞が怒るぞ?」
「良いですか?僕の側から離れてはいけませんよ?おまえは他の保護者たちよりも美人で若いんです。それなのにこんな色っぽい姿を見せつけたら、不埒な輩が湧いて出てくるやもしれません。昨今、保護者同士の不倫はPTAでも問題になっていることですしね。」
「あのなぁ……あたいがんなことするわけないだろうが。」
「信じていますが……念のため。」
清四郎のキスが悠理の瞼へ落とされる。
そこから頬へ、鼻へ、そしてようやく唇へと辿り着くと、彼はいつものように、深く深く舌を忍ばせた。
「ん……っ……」
言葉も吐息も奪われたまま、悠理は身を任せる。
これは毎日行われる朝の儀式。
夫の情熱的なキスは変わらぬ愛情の証でもあるのだ。
今日のそれは独占欲が多少なりとも入り混じってはいるが……。
腰が砕けるようなキスに頬を染めた妻を見て、清四郎はにっこり笑う。
「これでチークも口紅も必要ありません。おまえは充分綺麗だ。」
唾液で艶めいたそれを指で差し、夜の色気を漂わせる夫。
直ぐにでもベッドへと誘われそうな雰囲気に、悠理は慌てて首を振る。
「ほ、ほら、悠眞も待ってるから!」
「……ふう、仕方ありませんね。入学式に遅れるわけにはいかない。僕たちはOBでもあるわけですし。」
今更常識的な言葉を羅列されても、ちっとも響かないが、とにかく出かける準備は出来たのだ。
部屋の扉を開けようとした悠理は、しかし再び清四郎の手に囚われる。
「もう一度だけ……悠理。」
強引に振り向かされた後のキスは先ほどよりは軽いものの、きっと外に居る悠眞には聞こえているだろう。
その淫らに湿った音が……。
━━━ああ、あん時の悠眞が何を言いたかったのか、やっと分かった。
悠理はあの日の夢を思い出していた。
━━━だって父さんは母さんのこと片時も離したがらないんだよ。
これが正解だ。
「清四郎。」
「はい。」
「今夜こそ、あん時の話をさせろよ?」
「え?」
「十五年前に見た夢の話だよ。」
悠理はくるりと翻り、扉を開ける。
そこには腕時計を見つめながら憮然とする息子が、立派な制服姿で立っている。
高校時代の悠理を彷彿とさせながらも、しっかりと男の骨格を持つ悠眞。
悠理は笑う。
━━ようやく会えたな!
彼女は夫の色褪せぬ愛を伝えようとしてくれた彼に飛びつくと、その頬にたっぷりと御礼のキスをする。
背後に立つ男の気配が険しいものに変化しても、母は息子から暫くの間離れることが出来なかった。
「unfading love」(完)