「おい!清四郎!これ、どういうことだよ!」
「朝っぱらから一体、どうしたんです?」
爽やかな目覚めとはほど遠い。
妻の甲高い声に重い瞼を上げた夫は、彼女が手に持っているモノを目にし、思わず言葉を失った。
「なんで、スーツのポケットに口紅なんか入ってるんだ!?」
「そ、それは………ですね………」
馬乗りし詰め寄ってくる悠理の、三角になった目は久々だ。
言い訳出来るならしてみろ!とばかりに鼻を鳴らす。
いつもなら喜びを持って受け入れるその体勢も、今は話が違う。
焦る清四郎の優れた頭脳が猛スピードで回転速度を上げたが、どうも適当な言い訳が浮かばない。
その間にも、あらぬ方向へと向かう彼女の思考は、怒りを誘いぐんぐんレベルアップしてゆく。
────これはもう、真実を話すしかありませんね。
清四郎はそっと溜息を落とした。
「実は………非常に、本当に、心底、この上なく不本意だったんですが、頼まれ事をしまして………」
「頼まれ事?どんな?」
「…………来週末、得意先で仮装パーティが行われるんですよ。」
想像しなかった展開に、しかめられていた悠理の眉が少しだけ緩んだ。
不承不承で話し始めた清四郎も、それを見てホッと胸を撫で下ろす。
どうやら首を絞められずに済みそうだ。
「へぇ、仮装パーティ………たのしそうじゃん!」
不機嫌に膨らんでいた頬はすっかり元通り。
悠理は更に身を乗り出すよう夫に詰め寄った。
「…………ちっとも楽しくなんてありませんよ。むしろ屈辱です。何せそのパーティでは、女装をさせられるんですから。」
「女装っっ!?」
二人の反応は対極だった。
呻くよう頭を抱える夫。
それに対し、喜びを隠せない妻。
悠理にとって清四郎の苦悶など余所事でしかない。
「いいじゃん!昔みたく可憐に化粧してもらえよ。」
「悠理───面白がってますね?」
「だって面白いんだもん!母ちゃんにも教えちゃろ。」
「勿論知っていますよ。何せ、お義母さんこそが主催者の一人ですから。」
「え、マジで!?」
脇に手を差し込み、胸板から彼女を下ろした清四郎は、心底不機嫌な表情を見せた。
「どうやら役員の奥方達が結束して決めたらしいんです。性別を交換した上で仮装することを。ちなみにその口紅は舐めても味のしないモノで、僕が趣味で作ったんですよ。男はどうもあの味が我慢できない。」
「てことは、母ちゃん達、男装するってこと?」
「ええ。どうやらナポレオンの格好をするそうです。」
「へぇ!楽しそうじゃんか!」
「…………なら、悠理も参加しますか?」
「え?いいの?」
「別に構いませんよ。たまにはおまえの男装も見てみたいですからね。………まぁ、今更かもしれませんが。」
「やった!」
いとも簡単に参加が決まり、俄然やる気を漲らせた悠理。
そうと決まれば話は早い。
百合子お抱えのデザイナーに話を通し、当日までに作らせた衣装は三着。
その内の一着は、当然ながら清四郎が着るドレスだ。
悠理はお色直しよろしく、二度の衣装替えを試みる。
彼女とパーティは切っても切れない仲。
それがたとえ妖しげなものだとしても。
そしてパーティー当日。
派手に着飾った招待客達が、巷でも有名な“吾木川邸”に集結する。
明治時代に建てられた華族の館は、私有地とは思えないほど広大な敷地だ。
今でこそ持ち主は経済界の重鎮、吾木川 靖五郎であるが、当時は天皇陛下も足繁く訪れた名家であった。
重厚な玄関扉の前には広々とした円形のアプローチ。
そこへ次々と黒塗りの車が横付けし、客人達は華やかな衣装を見せつけるように降り立つ。
その中でも名輪が運転する剣菱の送迎車は一際目立っていて、そこから降りた剣菱夫人もまた人目を引かずにはおれないほど完璧な仮装スタイルだった。
有名な絵画を参考に作っただけあり、細部にまで拘った帽子と軍服は見応え充分である。
年齢の割に腰も高く、スタイルの良い百合子。
普段の生活でも仮装を取り入れている所為か、綻びが見あたらない。
多少年齢を感じさせるものの、完璧なるナポレオンであった。
そして悠理もまたその優美な顔立ちを活かし、シェイクスピアの作品で見かけるような麗人を意識した出で立ちで登場する。
羽の付いた帽子にビロードのジャケット。
タイトな革のパンツに先の尖ったブーツを踏みならし、吾木川邸の敷居を堂々と跨ぐ。
誰もが惚れ惚れする麗しき男装に、熱い溜息の輪が広がり、会場のボルテージも俄に上昇した。
だが、皆の驚きはそれだけに留まらず………
悠理の後を追うように登場した絶世の美女に目を瞠り息を呑む客人達。
身長181センチの女性ともなれば目立つことこの上ない。
艶のある黒髪のウイッグは豊かなボリュームを誇り、黄金のベールに包まれたドレスは光沢あるシルクが使われていて、足首のラインギリギリのところで裾が揺れている。
骨格を隠すよう上手くデザインされた衣装には、プロのデザイナー達が渾身のアイデアを注いだことが見て取れた。
ばっちりメイクされたその顔は、妖艶というほかない色気を醸しだし、会場にいる全員の心を鷲掴みにする。
数時間かけ、可憐とメイド達が清四郎の変身に力を貸したのだ。
この上ない出来映えである。
スワロースキーが散りばめられたドレスの値段は計り知れない。
しかし剣菱家の女達は余興にこそ本気を出すタイプで………今更ながらえらいところに婿入りしたものだと、清四郎はため息とともに肩を落とした。
「やっぱ、おまえが一番目立つな。」
多少面白くない様子ながらも、悠理は正当な評価を下す。
大昔、どこぞのスパにて、付け焼き刃の女装をした時も、彼はすこぶる美しかったのだ。
「はぁ。…………もう二度とスカートなんか履くつもりはなかったんですけどね。」
「くくっ。でも、すげー似合ってる。後で記念写真撮ってもらおうぜ。」
妻は呑気な提案をするが、暑苦しい化粧とドレスから一刻も早く解放されたいと本気で願う清四郎であった。
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パーティには多くの客が招かれていて、どこぞの財界人、芸能人も多数含まれていた。
とはいえ皆がそれぞれ仮装しているわけだから、なかなか正体は暴かれない。
特に男性は巧く化けていて、中には本気でのめり込んでいる輩も少なくはなかった。
金と技術をかければ何とでもなる。
そう言わんばかりに。
生演奏がワルツへと変わり、優雅なダンスタイムに突入する。
男女逆転のステップは難しいものの、その辺は社交界慣れした者達。
何周かする内に違和感なく踊れるようになっていた。
ここでも清四郎はモテモテである。
男装した若き淑女達に言い寄られ、次々と其の手を取る。
断ることは礼儀に反する為、足にまとわりつくドレスに苦戦しつつも、何とかステップを踏み続けた。
「とても素敵ですわ。」
「女の私でさえうっとりするくらい似合ってます。」
嬉しくもない賛辞に苦笑いで応え、彼女たちの要望を満たす。
自分の仕上がりは確かに満足するものであるが、かといって美童のようにナチュラルに受け入れられるはずもない。
真っ赤なルージュと付け睫毛。
香り高きチーク。
化粧品の研究はするけれど、自分が実験台になるのはごめんである。
ふと妻を見やれば、案の定、山と積まれたスイーツに夢中の様子。
どこにいても、どんな格好をしていても、あの空気を読まない食欲の権化を見つけるのは容易い。
色気より食い気。
昔も今も変わらない悠理の性質。
しかしそんな妻に声をかける男………否、女装した男が一人。
厚塗りのファンデーションに隠れていても判る、吾木川 靖五郎の内孫、“浩一郎”だった。
母譲りの高い鼻を活かし、クレオパトラの衣装を纏う。
ビジネスの才能は皆無だが人脈は広く、遊ぶことに関して右に出る者は居ないとまで噂されている男。
社交界ではこういう輩がわりと珍重されるのだが、いかんせん女癖が悪く、過去二度ほど離婚経験がある。
そんな男が悠理に目を付けたのはかれこれ二年前のこと。
とある慈善パーティで尻を触り、悠理の鉄拳を食らってからというもの、何故か彼女の熱き信奉者になってしまったのだ。
その時、婚約者だった清四郎とのゴタゴタは言うに及ばず。
以来、不快な男というレッテルが100枚ほど貼られている。
どうやら悠理は食べることに集中したい様子で、案の定彼をシッシッと追い払おうとしていた。
しかし相手もしつこい。
一曲だけ………という懇願と共に頭を何度も下げ、彼女を連れだしたのだ。
遜るクレオパトラなど前代未聞だというのに。
途端に清四郎の機嫌が悪くなる。
目の前の女装した自分に心ときめかせる相手はもはやどうでもよい存在だ。
妻がワルツが踊れるようになったのはつい最近のこと。
夫の意向を聞き入れ、不承不承でレッスンを受け、今では夫婦で踊る機会も増えてきた。
それでも足を踏まれる回数の方が多い。
性に合わないといえばそれまでだが………持ち前の運動神経はどこへ行ったのだろう、と思わずにはおれない。
清四郎の厳しくも辛い視線は二人に注がれたまま。
似非クレオパトラと、凛々しさを極めた麗人はホールの華となり、音楽に合わせ踊り始めた。
本来なら彼女の手を取る者は自分だけのはずだ。
それなのにこの下らぬ茶番の所為で、歯噛みしながら傍観せざるを得ないとは!
清四郎の中に沸々とした怒りがこみ上げる。
そしてその怒りは、指と指を絡める二人を見た瞬間、暴発した。
「失礼。」
清四郎は女装していることも忘れ、大股で会場を歩き始める。
目立ってしまうのは当然だろう。
高い腰から広がるドレスの裾。
ヒールを履いているにも関わらず、風のような動きで人混みを縫うように歩く。
ピンと伸びた背筋は凛々しさを見せつけ、まるでモーゼが手を翳したかのように道が開くのだ。
美しく化けた男は、老若男女問わず魅了してしまう。
客の中には彼が男であることを忘れ、うっとり心奪われている者も多くいた。
しかしそんな彼の目には一人の女しか映っていない。
他の男の手を取り、ぎこちなく踊り続ける妻の姿だけだ。
清四郎が二人のもとへ辿り着いた時、クレオパトラ擬きの男はその存在に口をぱっくり開けた。
絶世の美女が睨みつける姿は迫力満点。
電池が切れたように足を止めてしまう。
「清四郎?」
驚く悠理を颯爽と抱き上げた清四郎は、妻の信奉者へにっこり微笑みかけた。
その威圧感すら感じる美しい笑顔は、相手に言葉を紡がせない。
「どうやら妻が足を挫いたようで。まったく、慣れないことをするものじゃありませんね。」
「え?」
「は?」
見に覚えのない話に悠理は呆気にとられたが、夫の謎の迫力に何も反論出来ず───おとなしくその腕に抱かれたままでいた。
「…………相変わらず、番犬並に鼻が利くねぇ。」
吾木川のイヤミもなんのその。
清四郎は鼻で嗤い、相手を見下す。
何せ人妻に懸想する蠅のような存在なのだ。
遠慮する理由は一つもない。
「ふっ。“クレオパトラ”にしてはゴージャス感に欠けますな。衣装はディテールにまで拘ってこそですよ。だいたいそのデザインは、プトレマイオス調のものではなく………」
「わかったわかった。今夜はここまで。───ったく、嫉妬深い男だ。」
「それはどうも。否定はしませんよ。」
大人しく引き下がった相手に対し、軽く会釈した後、清四郎はその目立つ容姿を気にもせず、妻を抱き抱えたまま会場から退出した。
夢の世界から一旦抜け出せばお互い何と間抜けな姿なのか、と笑えてくる。
「たとえ男装してようが、おまえに触れる男は許せないものですね………。」
「ふん。あたいだって見てたぞ。だいたい何人の女と踊ったんだよ。」
「覚えてませんよ。僕が踊りたかった相手は………おまえだけですから。」
月の光に照らされる円形アプローチは、さながらオペラ座の舞台。
二人は手を取り合うとゆっくり、そして和やかに、優しいステップを踏み始めた。
「あたい、女とキスなんか気色悪くて出来ないと思ってたけど………清四郎なら今の姿でもいけるかも。」
「では早速試してみますか。」
「口紅も苦くないし?」
「そうです。」