後編
日付がちょうど変わる頃、タクシーは剣菱邸の玄関先に到着した。
おそらくは悠理とタッチの差。
いつもならメイド達が頭を垂れ出迎えるホールも、ひっそりと静まりかえっている。
僕の足は迷い無く彼女の寝室を目指した。
相変わらず、珍妙キテレツなオブジェが並ぶ廊下は人一人歩いていない。
お陰で下手な言い訳を考える必要性もなくなったが、普通ならばこんな時間に令嬢の部屋へ押し入ろうとする男は止められて当然のはずだ。
警備員すら眠っているのか?
それとも相手が僕だからだろうか。
どちらにせよ、あとで確かめる必要があるな。
悠理の部屋は屋敷の一番奥にあり、百合のモチーフが彫られた大きな扉が目印だ。
彼女の残り香がそこはかとなく漂っていた為、既に帰宅していることは明らかだった。
トントン
ノック音に返事はなく、僕は小さな声で呼びかけた。
「悠理、入りますよ。」
「だ、ダメだ!」
「いいえ、入ります。」
誰がみすみすチャンスを逃すものか。
扉を開けると、ベッドの上に放り投げられた金色のショールとその持ち主が、靴を履いたまま俯せになっていた。
薄い身体がサーモンピンクのシーツに埋もれている。
「入ってくんな!馬鹿!」
「話があるんです。」
「あたいはない!」
「僕にはありますよ。」
近付く足音を聞き、悠理は慌ててベッドの端へと移動する。
顔を見られたくないのか、シーツに突っ伏したままで。
「…………悠理。真剣な話です。こちらを向いてください。」
「…………やだっ!」
駄々を捏ねる子供のように、激しく首を振る姿は、僅かな苛立ちを誘った。
とはいえ、僕としても多少気まずい為、ここは思案のしどころである。
「悠理。」
腕を掴み、軽い身体をひっくり返せば、混乱の最中に居る悠理の泣き顔が目に飛び込んで来る。
まるでウサギのような目。
相変わらず…………泣き虫だな。
「離せよ!」
「そんなにも…………ショックだったんですか?」
「知るか!!おまえなんて………おまえなんて……………あの女とイチャついてたら良いだろ!!」
噛みつくような目で睨みつける悠理。
その勢いを殺ぐよう、敢えて穏やかな口調で続ける。
「言ったでしょう?彼女は………恋人じゃありませんよ。」
「へぇ?じゃ、何か?美童みたいに遊び相手だってのか?」
それは違う。
彼は全てに対して本気だ。
「…………おまえには男の生理現象など、理解出来ないんでしょうね。」
瞠目した目は痛々しく、何の慰めにもならぬ台詞は怒りを助長させるかもしれない。
だが僕は本音で接すると決めた。
その上で、悠理を手に入れてやる。
そう覚悟したのだ。
「わ、わかるわけないだろ!清四郎のド助平野郎!」
図星ではあるが、カチンと来る。
「……………………僕だって好きであんな女を抱いてるんじゃない。」
「だ、だ、だ…………………抱いてんの?」
吃る悠理は、更に赤くなった顔で目を大きくした。
「本当に欲しい女は…………僕のことを嫌っていると思ってましたからね。」
「………………本当に欲しい女、って………」
「誰?」と尋ねてくるあたり、さすが知能指数が低いだけある。
呆れながらもしかし、心は高揚していた。
「わかりませんか?」
いや、わかっているはずだ。
このシチュエーションで解らないなんて、とぼけているとしか考えられない。
「…………あたい?」
「…………珍しく、正解です。」
「あたい……………なんだ。」
「おまえはどうです?僕をどう思ってる?昔は散々逃げられましたが、あれから何が変化したんですか?」
悠理は複雑な顔のまま、暫く目を泳がせた後、まるで花がほころぶようにゆっくりと微笑んで見せた。
「いつからかは分かんないけど、あたい…………清四郎が好きだ………と思う。」
「“思う”?………曖昧な答えですな。」
「だって…………あの女と付き合ってるって思ってたもん!諦めなきゃって思ったもん!!」
あらぬ噂を広げた彼女に暗い怒りがこみ上げるが、 手段を選ばぬあたり、やはり僕と似た人種なのかもしれない。
「…………付き合っていませんし、付き合うつもりもない。」
「…………ほんとに?」
「本当です。本当だから………悠理…………」
そっと触れたリンゴ色の頬は見た目通り熱く、涙の痕跡が痛々しい。
いつも見ているはずの顔なのに、何故こんなにも愛らしく見えるのだろう。
「…………清四郎…………好き、だよ。」
「僕も、おまえが………好きです。」
時は真夜中。
静かすぎる寝室に邪魔する者はいない。
瞼を落とす悠理の意図は、僕が思い描いたものとは違うだろうけれど、触れる許可を得たと信じて、唇を奪う。
そっと
一瞬
触れるだけのキス
高鳴る胸は初体験よりも激しく、音を打ち鳴らしていた。
「……………悠理、僕の恋人になってください。」
「……………あの女と………もう会わない?」
「同じ学部ですから、どうしても顔を合わせてしまいます。けれど───それ以上の関係は絶対に結びませんよ。」
「もし、ムラムラしちゃっても抱かない?」
なんと直接的な質問だろう。
悠理らしいといえばそれまでだが。
「ムラムラ?そんなもの…………おまえで解消すればいいだけの話でしょう?」
「え?」と、 驚きに開いたままの唇へ、僕は二度目のキスを落とす。
少しだけ深く忍び込んだ粘膜に、彼女は案の定、身を固くしてしまった。
───さすがにこれ以上は無理だな。
「おまえしか………欲しくありません。だから、いつか………抱かせて下さいね。」
うるうると涙を溜めた悠理に、まだそんな覚悟はないはず。
ここは慎重にことを運ばなければ、折角のチャンスも水の泡だ。
「…………うん。」
蚊の鳴くような声。
今は充分な収穫である。
其の夜。
僕は紳士的に悠理の部屋を後にした。
幸か不幸か、百合子夫人の耳へ全てが届いてしまったけれど─────────これまた好都合な話である。
・
・
そして翌日。
晴れ渡る空の下、六人が揃う中庭でのランチタイム。
僕と悠理は交際宣言をした。
「へぇ?上手くいったんだ。良かったね!」
「さすが、だな。心配して損したぜ。」
美童と魅録の祝福は心からのものだったが、可憐と野梨子は険のある視線を容赦なく突き刺してくる。
「あんた、分かってるわよね?あの女との噂、綺麗さっぱり消さなきゃ、あたし許さないわよ!」
「可憐の言うとおりですわ。このままでは悠理が気の毒ですもの!」
「…………分かってますよ。」
やれやれ。
女性陣を敵に回せばろくな事がない。
────さて、どうしたもんですかな。
隣で不安そうな目をする恋人に、確固たる安らぎを与えなくては………健全かつ不健全な男女交際を始められないではないか。
彼女は、ウェディングベルが高らかに鳴り響くその日まで、決して気を抜くことが出来ない相手なのだから。
・
・
・
それから三日ほどが慌ただしく経過した。
幸か不幸か、他学部の教授から押しつけられた膨大な雑用のおかげで、研究室に足を運ぶことなく日常は過ぎていった。
しかしどうやらそれこそが、田万川女史にとっては不愉快だったようで………
束の間のカフェタイム。
喧噪漂う食堂はパンケーキの甘い香りに包まれていた。
そんな中、 読みかけの小説が気になる僕の前に、どかっと座り込む彼女。
オレンジ色のパンプスが怒りのタップを踏んでいる。
「菊正宗君、酷いじゃない。」
「…………何がです?」
「私、ずっと待ってたのに。」
「そうは仰いますが、僕たちは約束をするような関係でしたか?」
冷ややかにそう告げれば、女史は一瞬だけ怯んだ様子を見せた。
美しい顔が強張る。
「………上手くいってると思ってたわ。」
「上手くいくも何も………僕たちは恋人ではありませんよね?お互い納得ずくの刹那的な関係だったはずでしょう?それなのに勝手に噂を広め、貴女の良いように脚色まで。正直、不愉快です。」
刺々しい言葉だと解ってはいたものの、ここは白黒はっきりさせておかなくてはならない。
「そ、それは…………」
たじろぐ彼女の目がテーブルの上に泳ぐ。
どうやら罪悪感はあったらしい。
綺麗に磨かれた爪を弄りながら、何かを告白しようと口を開いては閉じ、を繰り返した。
僕としても、ここまで言うつもりはなかった。
だがこれ以上、あらぬ噂で悠理を傷つけてはならない。
友達思いの彼らに、散々釘を刺されていたという理由もあったが、僕自身、もはや田万川女史との接触を断ちたかったからだ。
この手の女性に利用されるのは本意ではない。
後々厄介であるからして。
「………貴方を利用したこと、謝るわ。」
「………。」
「解りきってたんだけどね………あの人が気にも留めてくれないことなんて………」
想定外の展開に、僕は手にしていた本を静かに綴じた。
「どういうことです?」
彼女は小さなクラッチバッグの中からスマートフォンを取りだし、その待ち受け画面をこちらに見せてきた。
「彼が私の特別な人なの。」
「………なるほど。僕は当て馬役を押し付けられるところだったんですね。」
「ごめんなさい。」
それは、学生達から厳しいと恐れられている教授の穏やかな笑顔。
懇意にしている僕ですら見たことのない表情だった。
「良いんですか?道ならぬ恋など選ぶ貴女ではないと思いましたが。」
「自分でもそう思ってたわよ。でも………心は留めることが出来ない。そうでしょ?」
息を殺したような苦しげな顔は、これまた初めて見るもの。
恋とは
愛とは
人を変えるに充分な役割を果たす。
時として誤った選択肢を選ぶ事も………
「幸せにはなれないのに………あの人はきっと私を選ばないのに………どうしても試したくて、貴方を誘ったの。噂が広まれば、何かアクションを起こしてくれるかもって………」
「で?どうだったんです?」
迷惑顔を押し殺し尋ねると、彼女はフルフルと首を振り、儚げに笑った。
答えは全てそこにある。
「愛妻家で有名な人ですからね。気の迷いはあれど、決して家庭を壊すような真似はしないでしょうな。」
「ふん、意地悪ね、貴方って。」
「僕を利用しようとしたんだ。このくらい当然ですよ。」
ニヤリと笑ってみせれば、彼女もまた不敵な笑みを見せた。
「乗り換えることも悪くないかなと思ってたんだけど…………私たち、きっと上手くいきっこないわね。」
その答えについては全面的に支持する。
きっと僕たちはあまりにも似過ぎているのだ。
目的を成就させる為には手段を選ばぬところも……。
「良い友人としてなら、これからもアドバイスさせて頂きますよ。」
「……あら、いいの?」
「え?」
「あそこの物陰から、泣きそうな顔でこっちを見ている女の子がいるけど。」
振り返れば、そこに悠理が居た。
不安げな表情(かお)が、今にも涙を落としそうなほど歪んでいる。
「結局、私が正しかったわけね。」
「…………。」
「天邪鬼もほどほどにしないと、お互い損するわよ。」
「肝に銘じますよ。」
僕は立ち上がると、慌てて逃げようとする悠理を追い掛け、腕を掴み、引き寄せた。
「悠理。」
ふて腐れた頬は嫉妬心に膨らんでいる。
可愛いヤツだ。
僕への想いがこうさせるのかと思えば、全てが愛おしくて仕方ない。
「何も逃げなくたっていいでしょう?」
「…………ふん!会わないって言ったくせに。やっぱ嘘つきだ。」
「ああ、確かに。約束しましたね。とはいえ、二人きりでは会っていませんよ。」
「知るか!!もう、おまえなんかしらない!」
もがき、この場から抜け出そうとする彼女を、大衆の面前で抱き締め、閉じ込める。
「有らぬ噂など……こうすれば、すっかり消え去ると思うんですよねえ。」
「は?」
ポカンと開いた口は好都合。
それでは、しっかり頂くとしますか。
前回よりも情熱的な口付けで、彼女の不安も、野次馬達の疑惑も、そして陰でこっそり眺めている仲間達への納得も、全て解決してやりますよ。
猿よりも赤い顔で呼吸困難になる彼女。
飛び交う口笛の嵐。
こうして僕は見事、恋を成就させたのである。
遠くから「破廉恥ですわ!」と言う、幼馴染みの糾弾は無視して。