運動会は悠理にとって最大のイベントである。
勉学では劣るものの、運動だけは誰にも負けない自負があるため、その活躍を見せつける最高の場として毎年楽しみにしているのだ。
今回は中学最後の運動会ということもあり、さらに気合が入っていた。
「はい。これ、剣菱さんのハチマキね。」
「サンキュ。」
黄色く細長いそれを手馴れた様子で頭に巻き付ける。
体操着には大きく’剣菱’の文字。
ワッペンに縫い込まれた小さなタマフクのイラストは、メイドのささやかな心遣いだ。
出来ることなら全ての競技に参加したいが、さすがに体は一つだけ。
迷った末、リレー、障害物競走、玉入れ、借り物競争の四種目に絞った。
リレーと障害物競走はほぼ独断場だった。
何せ相手はひ弱なおぼっちゃま、おじょうちゃま。
足に自信のある悠理が負けるはずもない。
玉入れは他のチームの妨害に遭い、対抗している内にタイムアウト。
籠に入るはずの玉は全て敵対チームのメンバーに投げつけられた。
無論、反則行為でもある。
そして最後の借り物競争では思わぬハプニングに行き当たる。
「毎年パン食い競争があったはずなのに、なんで無くなったんだよ。」
ぶつぶつ言いながらも広げた白い紙には’生徒会長’の文字が‥‥。
「はぁ?モノじゃねーじゃん。」
競争相手達は悠理の側から颯爽と消え、それぞれの対象物を探す為、あちこちに散らばっていく。
ぬいぐるみ、拡声器、誰かの運動靴、三角コーンなどなど。
他の誰も人間を連れて走ったりしない。
「くそっ!」
ともあれ、負けず嫌いな悠理にとって、ここで後れを取るわけにはいかなかった。
「菊正宗!!!どこだ!??」
腹の底から絞り出した大声に皆は驚く。放送席で生徒と歓談していた男は、その怒声ともとれる声に思わず振り向いた。
「いたなっ!こっちに来い!早く!!」
勘の良い清四郎のこと。
「ははん・・・」と思い当たった表情で悠理の元へと駆けつける。
「遅いっ!もっと走れよ!!」
近付いた瞬間手を繋がれ、疾風の如くスピードを上げる悠理。
その追い上げに清四郎とて本気にならざるを得ない。
そう……二人はまさに風だった。
一人抜き、二人抜き、三人抜き………
そして最後の一人を捉えた瞬間、清四郎と悠理の立場が逆転する。
悠理の腕をしっかり掴んだまま先行走者へと迫っていく清四郎の姿に、観客は歓声をあげ、応援する。
生徒会長の隠された才能は生徒たちを驚かせた。
悠理とて全速力で走っているのだ。それでも清四郎の足には適わない。
最後の一人を追い抜いて僅か数メートル。
二人は見事白いテープを切り、勝利を掴んだ。
息を切らす悠理に対し、清四郎はいつもと変わらぬ涼しげな顔。
悔しいかな、彼の追い上げがなかったら、勝てる見込みはなかった。
「おめでとう。」
一等の旗を手渡されたとて、素直には喜べない。
悠理はプイッと顔をそらすと、「サンキュ」と小さく呟き立ち去った。
この時が初めてかもしれない。
清四郎へのライバル心が芽生えたのは。
心の奥底で、こいつには適わないかも、と感じたのは。
「よく覚えてますね………そんな昔の事。」
仕事終わりの清四郎に、妻が息巻いて語ったのはそんな昔話だった。
結婚して半年。二人は24歳を迎えている。
鼻息荒い悠理は、どうやら中学時代のアルバムを見返していたのだろう。誰が撮ったかわからない写真には、ちょっと不貞腐れた彼女が写っていた。
「悔しかったんだ。足の速さでは負けるつもりなかったのに。」
「女子の中では群を抜いていましたよ。」
ジャケットを脱いだ清四郎が妻の頭をよしよしと撫でる。悠理を落ち着かせるのはこれが一番効果的だ。
「ふん、おまえはいっつも手ぇ抜いてただろ?」
「そりゃあ………僕が本気を出せば、他のみんなが面白くないでしょう?」
恐らくは夫の言う通り。清四郎が全力でのぞめば、敵などいないに等しかったはずだ。
「じゃあ、こん時は………なんで本気出したんだ?」
素朴な疑問を抱く妻へ、分からないのか?と言った視線が貫いた。
「だって、勝ちたかったんでしょう?」
「そ、そうだけど………」
「喜ぶおまえの笑顔が見たかった……そんなシンプルな理由ですよ。まあ、残念ながら気分を損ねてしまったみたいですが。」
記憶の中でよみがえる悠理の手。
そう、二人はあの時、初めて手を繋いだのだ。
汗ばむその手をしっかりと握り、まっすぐにゴールを目指す。
頬に感じる風と確かな手の温もり。あの日の想いは今思い出しても甘酸っぱいものだった。
「……びっくりしただけだもん。まさか負けるなんて思わなかったし。」
敢えて子供っぽい口調で不満を告げるのは、彼女もまたあの日の思い出に浸っているから。
「おまえは負けず嫌いですからねぇ。」
清四郎も目を瞠るほどの身体能力を持つ悠理だ。
俊敏性、柔軟性、直感的に動く体、反応の良さ。
どれをとってもアスリートレベルに達しているが、残念なことにオツムが足りない。
「その気になれば、僕だって負けますよ。」
「嘘つけ。」
「………今はおまえに完全敗北してるんだから、それでおあいこです。」
絡まる髪を愛しそうに撫でつけ妻を押し倒す夫。
悠理は(どこがだよ……)と胸の中で呟いた。