青い夏の日(中)

 

前編


────夕日が水平線に沈んでゆく

全員がそれぞれの過ごし方で楽しんだ一日が終わりを迎えようとしていた。

「ガーリックシュリンプ、おかわり!」

悠理の掛け声に別荘のおかかえ料理人が慌ててフライパンを振り出す。人数以上の料理を提供したはずだが、瞬く間に消えていく大皿料理。

その元凶はもちろん剣菱悠理であったが、魅録も美童も日がな一日ビーチをうろついていたため、よく食べる。

可憐も美味しいハワイ料理に舌鼓をうち、「私もしっかり勉強しなくちゃ」とレシピを書き留めていた。

「悠理、胃薬を飲んでおきなさい。」

清四郎の手にある見慣れた薬を、悠理はグァバジュースで一気に流し込んだ。

彼の薬は確かな効果があるため、躊躇う必要がない。

「清四郎君、真結にも頂戴。」

「悠理ほど食べてないでしょう?こいつはいつも夜中に呻きだすから・・」

つれない返事に頬を膨らませる少女はやはり可愛くて、美童の眉がだらしなく下がる。

大人びて見えるとはいえ、十五歳の女の子だ。あまり冷たく扱われるのは見たくない。

「そうだ、真結ちゃん。天体観測なんてどう?」

「───天体観測?」

「夜中は星がすごいらしいんだ。裏手の山は暗闇だし、よく見えると思うよ。なんなら望遠鏡もっていけばいい。きっと気に入ると・・・・」

「清四郎君!真結、星が見たい!」

美童の気遣いを無下にし、ターゲット(清四郎)へと食いつく真結に、さすがの可憐も呆れ顔を見せる。

無邪気と無神経を併せ持つ彼女の横顔はしかし、清四郎との時間を必死に乞うものだった。

初恋に溺れる姿を過去の自分に重ねる可憐。苦言を呈することもできない。

「付き合ってやんなよ。」

断ろうと清四郎が口を開いた矢先、そんな助け舟を出したのは、出来立てほやほやのガーリックシュリンプを頬張る悠理だった。

「あたいも見たことあるけどさ、この辺の星空はマジで綺麗だし、いい思い出になると思うじょ。」

ニコニコしながらそう勧める悠理に反し、苦虫を噛みつぶしたような清四郎の気持ちは痛いほどわかる。しかし何気ない悠理の言葉に、決して他意などないはずだ。

可憐は冷や汗をかきながらも、そっと二人を見つめ続けた。

「───わかりました。食事が終わったら、向かいましょう。」

「やった!!うれしい。」

素直すぎる反応は子供ならではのもの。ようやく望みが叶った真結の笑顔はこの旅一番の輝きを見せていた。

────────────

「悠理、ちょっと───」

多くの料理を堪能した楽しい夕食会。頃合いを見て清四郎たちが出かけた後、可憐は悠理を寝室へと呼び出した。

ハワイアンキルトが至る所に飾られた20畳ほどの部屋は、野梨子と二人で使う予定である。肝心の野梨子はおそらく魅録と穏やかなカフェタイムを過ごしていることだろう。

「なんだよ?」

勧められるがまま、ラタンのデイベッドに転がる悠理。お腹は満たされているはずだが、片手に袋いっぱいのマラサダを抱えている。厨房を片付け始めていたシェフに強請って、無理やり作らせたものだ。

底なしの胃袋は今更のことなので、可憐は先を続けた。

「お節介かもしれないけど、あんた、何とも思わないの?」

「何が?」

「清四郎と真結ちゃんのことよ。」

「───清四郎?」

「そう、あの二人が気になったりしない?」

あっという間に三個のマラサダを胃袋に放り込んだ悠理は、口の周りの砂糖とクリームをペロリと舐めとった。

「気になんないけど?」

「そ、そう………」

いくら脈がないとわかっていてもこれは胸が痛む。

あの清四郎が。

あの堅物で恋愛とも無縁だった”人非人“が、食欲の権化である野生児に恋らしき感情を抱いたというのに、当の相手がここまで無関心だとは。

報われない恋心を目の当たりにして、自然と肩が落ちていくのは当然といえば当然だった。

(でも…しょうがないわよね、相手は悠理なんだし。どうせ脳みその9割は食べることだもん。恋愛なんてほど遠いでしょうよ。)

そう心を改めた可憐は『聞かなかったことにして』と話を流そうとした。

しかし────

「だって、あいつがどんだけ清四郎を好きでも、清四郎はあたいが好きなんだし、何も気にすることないだろ?」

あっけんからんと言いのけた悠理に、長いまつ毛に縁どられた可憐の目がカッと見開く。

「あ、あんた・・・まさか知ってたの?」

四つ目のマラサダが大きな口に頬張られ、悠理は涼しい顔で頷いた。

咀嚼も嚥下も動物園のカバ並みの速さ。人間の皮を被っているのでは?と勘ぐってしまうほどに。

「あ〜、飲み物欲しいな……。」

そう言って枕もとの電話で「どでかいパイナップルジュースお願い♡」、と内線を飛ばす姿は、何ら変わらぬいつもの悠理だった。

「……いつから知ってたの?」

「ん〜、三か月前くらいかな~。」

「清四郎に告白されたってこと?」

「いや、なんとなくだよ。なんとなく、あいつが優しくなってきて、やたら二人で出掛けたがるからさ。あ〜もしかして、って思ってただけ。」

聞き捨てならない発言に、可憐の心臓は激しく鼓動を鳴らしている。

「信じられないわ!………もし本当だとしても、あんたはそのまま放置してるわけ?」

「放置っていうか……」

最後の一つをゴクンと飲み込んだ後、悠理の目が猫のように細くなった。

「どこまで本気か試してるだけさ。」

(嘘、うそでしょ?悠理からこんなセリフが飛び出すなんて、信じられないわ。いやありえない!これは夢よ!)

激しい動揺が可憐の肩を震わせる。

清四郎を手玉に取ろうとしてる悠理の表情は小悪魔のそれ。

いくら中学生の真結が色仕掛けで迫ろうとも、清四郎の気持ちが揺らぐことはないと信じているのか。はたまた、はじめから期待していないのか。

可憐は軽い眩暈を感じた。

「あ、あんたは・・・あんたは清四郎をどう思ってんのよ?」

核心に迫る質問に、悠理は少しだけ視線を泳がせ、小さく呟いた。

「嫌いなわけないじゃん。だけど・・・好きって言いきれるだけの自信もないんだ。」

昔から二人の関係をお釈迦様と孫悟空に例えてきたけれど、今、その関係性が崩れつつある。

食欲の権化と認識している友人の初めて見る表情は乙女そのもの。それはまさに奇跡の時と言えよう。

「悠理………もしかして恋をするのが怖いの?」

清四郎の手のひらで自由に飛び回る彼女は、さぞかし快適で心地良かったことだろう。

しかしもし二人が恋愛を始めるとなると、その均衡は一体どうなってしまうのか?

それは可憐にもわからない。

「あたいは今のままでもいいんだけど、清四郎は・・・きっと違うんだろうな。」

不安げな表情は、悠理の心が大きく揺らいでいる証拠だった。

「素直になるのが一番よ。でもあんたは……あんたたちは、それが一番難しいのよね。」

清四郎が本気をぶつけない限り、二人は曖昧な関係を続けるのかもしれない。

今まで恋愛とは無縁だった不器用な友人たち。

そんな二人の行く先を、可憐は深いため息で案じた。

今頃、満天の星空を眺めているだろう彼らを想像しながら。

(いったいぜんたい、どうしたらいいのかしらね……)

 

──────────

 

「ねぇ、清四郎君は真結が嫌いなの?」

車で五分もかからず到着した展望スポットからは、流れ星すら裸眼でみることができた。
念のため持ってきた天体望遠鏡を設置している清四郎に、美少女は絶え間なく話しかける。
恋に落ちて随分経つが、清四郎の大きな背中を見つめていると胸がキュンキュンして仕方ないのだ。
余裕なんて一ミリもない。
押して押して押しまくるだけ。

「好きも嫌いもありませんよ。”親戚の娘さん“としか認識していないので。」

それは恋する少女には酷な返答だったのかもしれないが、清四郎はきちんと線引きしておきたかった。
勘違いさせるには関係が近すぎる。

「真結が親戚だから、対象外ってこと?」
「それ以前の問題です。年齢も性格も全く好みじゃないので。」
「年齢は大人になったらちょうどよくなるかもしれないじゃない!性格は清四郎君の好みに合わせるから───」
「そういったところが嫌なんですよ。」

きっぱり断言され、真結の目尻に涙が溜まっていく。
今まで数多くの男に認められてきた美少女は、なぜここまで清四郎にきつく当たられるのかわからないでいた。
何をどうしたら解決策に結びつくのかまったくもって分からない。

「こんなにも・・・好きなのに・・・」

そう呟くのが精一杯。
しかし清四郎は首を軽く振り、「早く諦めてください」と答えた。

かといって、はいそうですか、と諦められるのなら苦労はしない。
真結は清四郎の背中にかじりつくと、細い両腕で包み込んだ。

「こらっ!」
「真結、なんでもするから、絶対に後悔させないから!付き合って!お願いっっ!」

背中に押し付けられた豊かな胸は痛々しいほど脈打っている。
恋する者の切なる願いに清四郎の心はにわかに動揺した。

とはいえ、こればかりは覆ることはない。
人の心ほどままならないものはこの世に存在しないのだから。

 

「───僕には好きな人がいます。片想いですけどね。」

数秒後、胸の内を打ち明けたのは、彼女への精一杯の思いやりだった。
最大限の敬意とも言うべきか。
滅多に本音を洩らさない男がようやくその気持ちを吐露した。

「え・・・・?」

「他の誰も彼女の代わりにはなれない。今までも、これからも。」

巻き付いた腕が力なく落ちる。
ゆっくり振り向く清四郎は煌めきわたる星空を背に、憂いを帯びた笑みを見せた。
暗闇だというのに、その表情は真結の目にもしっかり届く。
そして伝わったのだ。
どれだけ本気で相手を想っているのかも。

波立つ心と打ち寄せる絶望。
震える唇に乗せ発せられた言葉は「そんな・・・」の一言だった。

「だから君の想いには応えられないんです。すみません。」

決壊した涙の粒は大きく、ぽたぽたと真結の胸を濡らしていく。

「──誰?誰なの?それだけは教えてよ!」

憤りとも悲観ともとれる叫びに、清四郎は唇を結んだ。
しかし相手を引き下がらせるために、誤魔化すことなど出来ないと判断する。

「悠理です。」
「え?───まさか、噓でしょ。あんな………」

女性としての悠理の評価は真結の中でも最下位だった。
当然である。
清四郎と一緒にいる姿に少しの色っぽさも感じなかったし、二人は仲の良い友人の枠を超えることはないと信じていた。
可憐や野梨子ならともかく、自分よりも魅力を感じない悠理が相手だとは───さすがに黙ってはいられない。

「清四郎君、おかしいよ!あの人のどこがいいの?ガサツで乱暴で女らしさなんてちっともないじゃない。真結は可憐さんや野梨子さんなら諦めたのに、なんであの人なの?ありえない!絶対似合わない!」

とめどなく出てくる不満と批判を清四郎は黙って受け止めた。そして息を切る真結の目を真っ直ぐに見つめ返すと、「それがどうしたんです?」と冷たく言い放った。

「どうしたって………だから……」

好きな男の冷えた声は、周りの温度を一気に下げる。

今まで感じたことのない静かな怒りを目の当たりにし、真結はひどく混乱した。声が紡げない。

「悠理や僕がどんな人間かなんて、君には関係ないでしょう?」

ポーン

遠くへ突き放され、心がひび割れていく。

怖かった。

目の前にいる男が、一瞬で怖くなった。

「だって───」

「………美童に交代してもらいます。」

これ以上のやり取りは必要ない。

そう判断した清四郎が携帯電話を取り出すと、真結はとうとうその場に屈みこんでしまった。

膝が震え、力が入らないのだ。

ただ、恋がしたかった。

昔から大好きな清四郎と。

出来れば家族の祝福の中で、幸せになりたかった。

「真結は……わたしは、清四郎君だけだったのに。」

幼き頃の淡い恋心を育て上げた彼女にとって、今、この現状は悪夢でしかない。

自分を美しく、賢く、磨き続けてきた理由は、清四郎に選ばれたかったから。

彼の隣に並びたかったから。

 

清四郎はもう答えようとしなかった。ただ大きな星空を見上げ、隣に居てほしいたった一人の人間を思い浮かべる。

(悠理──僕はもう迷わない)

いくつもの星が流れる。

青く、白く、長く尾を引くその星を見つめる。

自らの想いを確認した男の目には、強い決意が示されていた。