嘘つきは地獄のはじまり(前)

 

 

あら────あの顔、どこかで見たと思ったら、先月のパーティで悠理にモーションかけてた男じゃないの。
ちょっと小太りだったから印象に残ってるのよね。

玉の輿探しに余念のない可憐だったが、その時ばかりはふと視線を留め、目を細めた。
ここ半年ほど通っているダンススクール主催の親睦パーティ。
親睦と言えば聞こえはいいが、本当のところは大人の合コンである。

社交ダンスに至ってはプロ級の腕前である可憐。
もちろん習う必要性はないのだが、昨今のブームにあやかってか、男の生徒が急増したため、知り合いの講師に泣きつかれたのだ。

生徒の振りをしてほしい、と。
金持ちの独身男性も多いから──との言葉に釣られ飛びついたものの、明らかに初老以降の紳士がほとんど。
彼女はすっかりやる気を削がれていた。

美童とまで言わずとも、せめて30代のイケメンは転がっていないものか。
面食い女のアンテナが光る男は未だ見つからず、かといって誘われて悪い気もしないため、どうでもいいおじさまたちと他愛ない話をしていたのだが──

あの小太り、割とモテてるわね。

可憐の興味は、一度見ただけの男へとそそられた。

 

先月、悠理に引っ張られ参加した政治家の支援パーティは、約500人の招待客で賑わっていた。
無論、有閑倶楽部の面々は冷やかしで参加し、いつも通り飲み食いするだけ。
案の定大食いに走る悠理を、恋人の清四郎は呆れつつも見守っている。
大学に入ってからそろそろ一年。
二人の関係もいよいよ将来を見据えたものとなっていた。
清四郎の顔は社交界でもすっかり有名で、多くの人脈を広げようとする男にとっては有り難い機会である。
隣に剣菱悠理を置くことで、自分のポジションがどうであるかを公開したいという意味でも。

「腹を壊すほど食べるんじゃありませんよ。」

毎度のお小言に「わぁってるって!」と明るく返す悠理。
あちらこちらのテーブルを覗き込み、目ぼしいものを皿に積んでいく。
あっという間に山盛りとなった皿をほくほく顔で見つめる彼女に、まったく見も知らぬ男が声をかけてきたのだ。

「剣菱………悠理さんだよね?」

40代に差し掛かった頃だろうか。
髪はふさふさだが、ポマードで固め油ぎっている。
どこぞで見た狸の置物のような風貌。
小太りで身長も低いその男が、高身長の部類に入る悠理と並べば、やたらチグハグな感じがした。

「そだけど?」

口に生ハムを突っ込みながら答える。

「僕は大利根 彦三(おおとね ひこぞう)と言います。」
「大利根?」
「剣菱会長にはお世話になってるんだよ。」
「ふ~ん、そりゃどうも。」

特に興味を持てない相手だが、一応簡単に会釈する。
剣菱とお近付きになりたい輩もこのような言い回しをするが、どうやら大利根は本当に万作と関わり合いがあるらしい。
男は嬉しそうに笑い、「君の事は随分昔から見ていたんだよ。」と小声で告げた。

途端に腕が粟立つ。
(なんだこいつ?)と嫌悪感が訪れるも、両手は皿で塞がっているし、走って逃げるわけにもいかない。
それを見越してか、男はニヤッと口角を上げ、悠理の腰に手を回した。

細い腰である。
相変わらず派手でとんちんかんなドレスを身に纏ってはいるが、悠理が持つ素の美しさに気付かぬ者は居ない。
長い手足、細い首、宝塚のスターを張れるほどの美貌。

近くにいる男たちはそんな彼女に気後れしているのだ。
もちろん剣菱の令嬢という看板が一番のハードルではあるが、しかし大利根は気にもしていないようだった。

「僕は、君の夫になりたいと思ってる。どうかな?」
「は?」

それはあまりにも非現実的な提案だと、悠理は思った。
あり得ない。
あり得るはずもない。
自分には清四郎がいるし、もし居なかったとしても、目の間にいるこの男を選ぶことはないだろう。
生理的嫌悪を感じる男と結婚なんて、無理無理無理!

「ああ、もちろん知ってるとも。彼、菊正宗君だっけ?恋人なんだよね。仲良しなのもわかるけど、それは遊びで止めておいた方がいい。恋愛と結婚はまったく別物だからね。君に相応しいのはこの僕だよ。」

ここまで大口を叩く相手には、もはや拍手すら送りたくなってくる。
この男の自信はいったいどこからくるのか。
何を根拠に相応しいと信じているのか。

悠理は一旦深呼吸すると、たまたま視線が合った可憐に目くばせをした。

「どうしたのよ、悠理。」
「いや、ちょっと………」

ここまで困り顔を見せる悠理は珍しい。
両手には目を疑うほど料理が乗った皿。
それは相変わらずの食欲だが、ふと隣に立つ男を見れば、悠理の腰に腕を回していると分かり驚いた。

「それ、貸しなさい。」
「サンキュ。」

悠理から大皿二枚を受け取ると、可憐はそっとその場を離れる。
直後、会場に響く怒声は覚悟した通り。

「べたべた触んな!きもちわりぃ!!」

男はたった一度の足払いで無様に尻餅をつき、口説いていた女を唖然と見上げる羽目になった。


そう、確か’大利根’って言ったわね。

ようやく思い出したその名前を脳内に刻み込む。
悠理にこっぴどく振られた後、そそくさとホテルを後にしたのは言うまでもない。
まるで大ネズミが逃げるかのような無様さを露呈して。

騒ぎを聞きつけやってきた清四郎が、何事かと悠理に尋ねるも、「なんもないってば!」と手を振り、追及を躱した。もちろんあれで済むはずがない。
清四郎の本気から逃れられるほどの実力を、彼女は持ち合わせていないだろうから。

大利根はこの合コンで比較的輪の中心に居ると分かり、可憐は注意深く見つめることにした。
周りを囲む女性達………否、ちらほら男性も居る。
少し近くまで移動し、彼らの会話に聞き耳を立てれば、その内容は想像を遥かに超えるものだった。

「ええ、そうなんですよ。そろそろ婚約もいいかな、と考えていて………」
「まあ、おめでとうございます。あの剣菱のご令嬢ですものね。婚約発表はさぞかし派手に行われるんでしょう?」
「ははは。僕ももうこの年ですから、そこまでは。………内輪でひっそりする予定です。」
「素敵ですわ。あんな素敵なお嫁さん、鼻が高いですわね。」
「いやいや。彼女もまだ子供なんでね。これからしっかり教育するつもりですよ。はははは」

耳を塞ぎたくなるような虚言。
可憐は視界が灰色に染まった。

彼女も社交界を行き来するようになり随分となる。
だから腹黒い人間が多くいることも知っていたし、噂話が勝手に広まっていくことも重々承知していた。
利用する側、される側。
剣菱財閥の看板はそれほどまでに大きく、魅力あるものなのだ。
そして剣菱悠理はたった一人の令嬢である。
以前、清四郎との婚約話が持ち上がる前、彼女の夫候補として招集された男たちは、皆それなりに野心家であったと記憶している。
剣菱家との繋がり、それも婿入りとなれば、涎を垂らして駆けつける輩のなんと多いことか。
あの時、可憐は野梨子と二人、気の毒な悠理を憐れんだ。

今は清四郎との恋を育み、近い内、二人は法的に結ばれるだろう。
清四郎ほど彼女の相手役に相応しい男は居ないし、これから先現れることも皆無だと信じている。
彼らが誰よりも強い絆で想い合うこと。
それこそが、有閑倶楽部の存続に繋がっているのだから。

可憐はバッグからそっと携帯電話を取り出す。
掛ける相手はただ一人、清四郎だった。

(危険な芽は今のうちに摘んでおかなくちゃ、ね。)

背後で意気揚々と話す大利根彦三は、これから待ち受ける悲劇にまだ気付いていない。