紫の紫陽花が朝露に光る。
爽やかな青紅葉もまた、小さな葉を陽に透かせば、初夏の香りが風と共に漂ってくる、そんな錯覚をおぼえた。
そろそろ暑くなるだろう。
空の青さがいっそう色を濃くしていく。
あいつが好きな太陽の季節が、もうすぐそこにまでやってきていた。
「清四郎。ここに居ましたのね。」
日本人形を模した幼馴染の姿に、思わず笑みがこぼれる。
揺れる黒髪はそよ吹く風にさらりと流れ、赤い唇は熟れた果実そのものだ。
生まれた時からお隣さん。
気付けば長い付き合いである。
「そろそろ行きませんこと?」
「もうそんな時間ですか。」
野梨子に合わせ着物にしたが、午後から通り雨が降るかもしれない。
まあ、その時はタクシーを拾うか。
「そういえば今度、’山岡峻一郎’の個展が開かれるんですの。そちらにもお付き合いいただけます?」
「ほう、珍しいですね。構いませんよ。」
「場所は東京じゃありませんわ。長野の〇〇です。」
日本画の大家を父に持つ彼女にとって、その世界は当たり前に存在する。
国宝級の絵画や美術品が、簡単に手の届く環境にあるのだ。
恐らくは父の遣いで長野に赴こうとしている。
僕はそのお目付け役ってところか。
「ふむ。長野なら、あいつらも誘って小旅行はどうです?」
「あら、素敵ですわね。清四郎のお宅の別荘にでも?」
「ええ。距離はさほど離れていないでしょう?」
避暑地にある二つの別荘。
忙しい親父殿はなかなか行こうとしないため、定期的に風通しが必要なのだ。
「それで結構ですわ。では次の三連休にしませんこと?」
「いいですね。」
眩しいほど白いレースの日傘を差した野梨子はにっこり微笑んだ。
「トラブルメーカーの悠理がちょっと気になりますけど。」
「───確かに。」
それでも一緒の時を過ごしたい
トラブルに巻き込まれようとも、彼女の弾けんばかりの笑顔に癒されたい
………とはさすがに言えず、二人いつもの道を歩き始めた。
今日はおばさんに頼まれた茶器を見繕いにいくのだが、
果たして目の肥えた家元に納得してもらえるものが見つかるのか、少々不安である。
「もう、すっかり夏ですわね。今年も暑くなりそう………」
野梨子の何気ない感想が、先ほどの僕の気持ちと重なり、胸を打った。
同じ感性を持つ幼馴染の隣は心安らぐ。
「今年こそ、泳ぎをマスターしてみては?」
「よしてくださいな。」
睨みつける目は本気の否定。
運動音痴の彼女にとってこれは禁句だったか。
「悠理ほどでなくても、ほどほどに泳げたほうが安心ですよ。」
「わかってはいますけど、人には向き不向きというものがあるでしょう?それに・・・」
少し言い淀んだ挙句──
「もし溺れても清四郎が助けてくれるじゃありませんの。」
全幅の信頼を寄せられることはある意味心地よいものだ。
大切にしてきた幼馴染が相手なら尚更のこと。
「それはもちろん──」
そう答えてハタ、と気付く。
以前は保護欲も庇護欲も野梨子に対してだけだったのに、
いつから悠理にまでその手を伸ばすようになったのか。
あのじゃじゃ馬を守ろうとする本能的な行動はいつから?
中等部で同じクラスになってから?
それとも初めて訪れたディスコで悪童に絡まれてから?
「どうかしましたの?」
「いえ・・・」
「もしかして……わたくし、貴方に甘えすぎかしら?」
バツが悪いのか、ほんのり頬を染め、眉尻を下げる幼馴染を安心させなくてはならない。
「とんでもない。姫を護る騎士の役目はむしろ光栄ですよ。」
「あら、本心とは思えませんこと。」
野梨子がいたずらっぽく笑う。それだけで僕の心は温かくなる。
いつか彼女が僕以上に信頼出来る男へ嫁ぐその時まで、必ず守り続けることだろう。
「さ、急ぎますわよ。雲行きが怪しくなってきましたわ。」
「はいはい。」
確かに、西からの雲が空を埋め尽くしていた。
──────────
「あら、悠理ではありませんの!」
何軒かの店を巡った後、遅めの昼食がてら入ったカフェで、
見過ごせないほど明るいピンク色のパーカーを着た悠理が居た。
目を見開きメニューに食いつくその姿は、とても金持ちの令嬢には見えない。
「よっ!お二人さん。」
よく見れば知らない男が真向かいに座っている。
彼女がプライベートでつるむ相手は魅録だとばかり思っていたが──
「お揃いの格好でデートかよ。」
「違いますよ。」
からかうだけの台詞だとわかってはいても心は正直で、やはりもやっとする。
「そっちこそ、デートですか?」
「んなわけねーだろ。魅録を待ってるんだってば。」
魅録が来ると分かりホッとするなんて、何ともバカバカしい話だ。
自然の成り行きで同じテーブルに座ったものの、悠理の隣にいる男は野梨子を見つめ、ドギマギしている。
よくよく見ればまだ中学生くらいの少年だった。
ストライプのシャツに野球帽。
日焼けした肌が部活の練習量を物語っている。
「よしっ!あたいオムライス特大で!クリームソーダもつけて。おまえはどうする?」
「俺はカフェオレでいいっす………」
「OK、じゃそれで!」
料理を待つ間に話を聞けば、暴走族に入った兄が最近行方不明になったらしい。
手掛かりを探すため魅録たちの力を借りたいとのことだった。
顔が広い彼のこと。すぐにでも探し出してくれるだろう。
その後、バイクに乗った魅録が到着し、話を聞いた彼は少し考えた挙句、一本の電話をかけた。
そして待つこと15分。
「見つかったぞ。敵対してるチームの女にちょっかい出したらしく、アジトの喫茶店に監禁されてるらしい。」
「えっ?」
青ざめる少年の肩を叩き、魅録はつづけた。
「大丈夫。ちょっと袋叩きにあっただけで命に別状はない。今、うちの奴らが助けに行ってるから安心しろ。」
頼もしい男だ、と思わざるを得ないだろう。
兄を心配し、泣きそうだった彼は、ようやくホッと安堵の息を吐いた。
悠理もまたオムライスを平らげた後、心置きなくパフェを注文している。
「よかったですわね。」
野梨子がそう声をかけると少年の頬は赤らみ、「ありがとうございます」とつぶやいた。
多感な年頃の男にとって、野梨子はまさしく『憧れの君』となり得るわけで……。
「悠理、俺はこいつを送っていく。あとは任せとけ。」
「OK、気をつけろよ。」
窓の外にある大型バイクは彼の技術により大幅に改造されている。
音も排気も段違い。さすがは元暴走族のリーダーだ。
恐る恐る跨る少年にヘルメットを渡した後、大きな音を立てながら走り去った。
残された僕たちは長野の旅計画を悠理に話す。
彼女は二つ返事でOK。すぐさま可憐と美童へメールを送っていた。
「さて、と。」
パフェを瞬殺した後、彼女はグンと背伸びした。あれだけ暴食したというのに、ちっとも腹が出ていない。
一体どういうカラクリなんだ。
「そろそろ行くかな。夜の準備しなくちゃ。」
「また夜遊びですの?」
「ダチの誘いだよ。オカマだらけの立食パーティなんだ。」
ふと、僕をコーディネートした彼を思い出すが、彼もその括りでいいのだろうか。
「おまえらも来る?飯は美味いぞ。何せ主催者が腕利きの料理人だからな。」
野梨子は少し迷った末、僕を振り返った。
「興味ありますわ。」
一人で参加することに不安をおぼえ、上目づかいで誘ってくるあたり、まだまだだなと感じる。
「いいですよ……。お付き合いしましょう。」
「そうこなくっちゃ!」
パチン!
指を鳴らした悠理は直ぐさま運転手を呼び出し、僕たちを”とあるブティック“へと連れて行った。
待ち構えていたのは年配の女性店員二人。
お得意様が連れてきた客ということもあり、俄然やる気が漲っている。
「まあ!なんて美男美女。やりがいがありますわ。」
目を白黒させながらも、野梨子は大人しく着せ替え人形となった。
僕は二度目ということもあり、落ち着いていたが、それでも多少の不安に襲われる。
「めちゃくちゃ派手にしてやって!特に野梨子は念入りにヨロシク!」
絶対君主さながらに悠理は檄を飛ばした。
──────
店に着いてから40分。
見事な手際で仕上げた彼女たちは、「よくお似合いですわ!」と褒め称えた。
「せ、清四郎……わたくし、これでいいんですの?」
先ほどまでは上品な着物姿だったのに、驚くべき変貌ぶり。
目の覚めるようなショッキングピンクのワンピースに黒のレースカーディガン。
足元はエナメル素材のローヒールパンプスで、膝上のスカートの下は水玉模様のタイツとなっていた。
野梨子が普段絶対買わないであろうコーディネートに、ある意味新鮮さを感じる。
「わりと似合ってますよ。」
僕の意見よりも悠理の判断が左右するのだが。
お揃いを意識した結果なのだろう。
僕に着せられたシャツも青地に赤の水玉模様となっていて、上下の白スーツは思いのほか軽く、着心地が良かった。
前回よりは納得できる仕上がりだ。
「よしっ!完璧!」
カードを切った悠理の賛辞を皮切りに、再び霊柩……もとい送迎車に乗り込む。
いつの間に着替えたのか、彼女は紫色のジャケットにスパンコール輝くキャミソール、黒革のショートパンツといういで立ちだ。
長く細い脚をサイケデリックなタイツで覆っている。
耳を飾るドクロのイヤリングは果たしてオシャレなのだろうか。
「清四郎、きっと狙われるぞ。」
キヒヒと笑う彼女を横目に、あまり楽しくない想像をする。
野梨子の好奇心に付き合うまではいいが、その手の趣味の人間を相手するのはごめんだ。
「僕はあくまでもノーマルな人間なので、誤解なきよう。」
「でも、ご婦人より殿方にモテるんじゃなくって?」
「野梨子、あのねぇ………」
気付けば辺りは夕日に染まっている。
会社帰りのサラリーマンたちが今宵の店を探し求めている時間だ。
ここから始まる夜は長い。
不思議なことだが、奇妙な組み合わせの三人が、奇妙な場所へと向かっている。
悠理の勢いにのまれて。
「ま、これも人生経験ですな。」
楽しそうに語り合う二人など、少し前までは考えられなかった。
変化は常に訪れる。
その波に乗り、おかしな人生を進むのも悪くない。
僕は本気でそう思っていた。