start again(‘また、いつか………’最終話:R)

また、いつか………


 

「あ……いやっ………」

無言のまま、貫かれる事に慣れている女じゃない。
体を重ねるときはいつも、砂糖のように甘い言葉を囁いていた。

噴き出す汗を舐め、濡れた舌を絡み合わせながら、極限を目指し、二人で昂る。

「せぇしろ………も………無理ぃ!」

その懇願を聞き入れることは出来ない。

僕はもう━━
己にかかった多くの鍵を、一つ残らず取り外してしまったのだから。



悠理と別れて5日経ったその日。
再会は偶然訪れた。

街中を飾るイルミネーションが、年々派手になって行く中、クリスマスという名のイベントに、人々はまるで奴隷の様に楽しむ。

━━━━クリスチャンでもないくせに。

肚の中で渦巻く毒が、実際の言葉として飛び出すことはなかったが、表情は、行き交う幸せそうな人間を憎む醜いそれだったに違いない。

去年のクリスマスはどう過ごしていた?

二人で夜景の見えるレストランに行き、彼女の旺盛な食欲に苦笑しながらも、ステディリングを渡し、幸せそうな笑みを目の当たりにしていたはずだ。

夜はホテルの部屋で一晩中愛した。
いつもは忙しなく繋がるだけなのに、その日はたっぷりと愛撫し、自分もまた、幾度となく彼女の中に欲望を注ぎ込んだ。

悠理とのセックスで、避妊したことは一度もない。
実は付き合いはじめの頃、生理痛に苦しんでいた彼女を連れ、産婦人科を訪れたことがある。
結果、妊娠しにくいだろうと言われ、二人、目を瞠った。
可能性はゼロではないが、自然妊娠は難しいだろう、と。

僕は…………子供が欲しかった。
悠理との子なら何人でも育てたいと考えていた。
大学生であろうと、もし授かったのなら、すぐに籍を入れ、家庭を築こうと思っていた。
起業を早めたのはそういう展望があったからでもある。

実際は魅録に先を越され、彼は今、三つ年上の女性と仲睦まじく暮らしている。
来年には第一子が産まれる予定だ。

望むべきは自然に授かること。
しかしどうしても無理なら、人工的な措置に頼ることもやぶさかではなかった。

━━━もしかすると、そんな事情も彼女の不安定な要素を引き出したのかもしれない。

「悠理、待ってよ!」

聞きなれた声に振り返ると、デパートの中から丁度二人が出てくるところだった。
だが、こちらには気付いていない様子で、たった5日しか経っていないその姿に、胸が絞られる。
駆け寄って抱き締めて、その柔らかな髪の匂いをとことん吸い込みたいと思う。

よくよく見れば、彼女の目は真っ赤に腫れていた。
頬は痩け、どことなく虚ろな視線をさまよわせている。
そんな悠理に追い付いた可憐は、しっかり彼女の腕を掴み、心配そうに寄り添う。

生気の感じられぬ身体は、豪奢なファーコートに覆われていても、どことなく痩せて見えた。

「あんた、どうしたってのよ!あんなにもご飯を残して!」

可憐の悲鳴じみた声が、ここまで届く。
恐らくデパートの最上階でランチをしていたのだろう。
しかし………

━━━悠理が食事を摂らない?

あり得ない話だ。
幽霊にとり憑かれているのなら納得もするが、そうじゃないだろう?

別れが、そんなにも辛かったのか?
それならば、僕はきっと歓喜してしまう。
愛しくて、今すぐにでも駆け寄ってしまう。

ふらり、無意識に吸い寄せられる足が、ハタと止まったのは、彼女がその場に立ち竦んだから。

「玲二………」

━━━━玲二?
まさか、京極玲二か?

二人の前に現れた男は、大学時代、悠理の側でよく見かけた。
こちらに、あからさまな敵意を示してきたのだから、当然記憶に残っている。

なるほど。あいつが悠理の……………

ラグビーで鍛えたという逞しい身体。
重量を感じる太い脚。
肩幅は僕と同じくらいあるだろう。
セーター越しにも解る、厚い胸板。
あの胸で悠理を抱き締めたのか。
あの腕で悠理のどこを触った!?
頭が煮えたぎる。

どちらかと言えば女っぽい顔立ち。
普段、軽口を叩いていたその口が、今は真一文字に結ばれている。

その口で悠理を━━━━

軽く想像しただけで吐き気をもよおし、僕はその場に蹲ってしまった。

駄目だ………

無理だ………

殺意が芽生える。

彼に地獄を見せたくなる。

膝を折ったままそろっと窺えば、悠理の走り去る背中が見えた。
いくらラグビーをしていたとはいえ、その足には追い付けまい。
僕以外は………絶対に無理だ。

ポン

「清四郎、何してんだ?」

気安く僕の肩を叩く相手は少ない。
立ち上がり、コートの裾を叩きながら魅録へと振り返る。
社会人になっても、彼のファッションは相変わらずハードボイルドで、革のジャンパーに黒いジーンズといった出で立ちだ。

「何でもありませんよ。」

「そうか?にしては顔色わりぃな。」

「少し眩暈がしただけです。魅録はなぜここに?」

「あぁ、呼び出されたんだよ。可憐に。」

━━━━なるほど。お節介な彼女が救いを求めたのは、やはり『彼』か。

僕を呼び出さなかったのは、悠理との間に何かあったのだろうと察したからだ。
彼女は機転が良く利く女性だから。

「そうでしたか。なら僕は役所へいく用事がありますので、これで。」

「おう。そういや『柚木物産』の社長から飯の誘いがあったぞ。嫁さんも同伴で。」

僕は苦笑する。
彼女のお気に入りであることに気付いてはいたが、それを知りつつも食事をセッティングする年老いた夫に嫌悪し辟易する。
年の離れた妻を可愛がる気持ちは理解出来なくもないが、かといって彼女の遊び相手になるつもりはさらさらない。
いくら豊満な胸元をわざとらしく見せられても、心は微塵たりとも動かなかった。

「適当に断ってください………とも言えませんな。」

「あぁ、だから、悠理を誘えよ。」

「え?」

「『え?』って何だ。そろそろ婚約者として紹介してもいい頃合いだろ?」

彼はまだ知らない。
僕たちが別れたことを━━━━



その日、比較的早くに帰宅出来た僕を、鬼の形相で待ち構えていたのは、案の定可憐だった。

「こんばんは。」

「清四郎、あんたどういうつもり?」

「聞いたんですか………」

「ええ。さっきまで悠理の家に居たの。魅録と一緒にね。」

どうぞ、と玄関に招けば、ふるふると首を振る。

「あんたのご両親も知らないんでしょ?」

「………まだ言ってませんから。」

そう、言えなかったんだ。
悠理との結婚を心待ちにしていた彼らを、落ち込ませたくはなかった。

「本気で別れるつもり?」

「・・・・・。」

「事情は少し聞いたわ。あの子も確かに悪かったと思うし、あたしも余計なことを言ったから……行き場がなくなっちゃったのよね。でも………たった一回の過ちを許せないほど、あんたの心は狭いわけ?愛してるんでしょ?悠理を………」

可憐はいつでも女性の味方だ。
それが心を和ませる。

「愛していましたよ。………今も愛してる。でも……僕は自分が怖いんです。他の男にすがりつかなきゃならないほど、あいつの傷に気付かなかったことも、それを突きつけられた時の感情も………全てが怖い。この先も、仕事の合間に悠理が何をしているのか、どこにいるのか、誰と会っているのか。全部を知ろうとする自分がとても怖いんだ。」

そう、鍵のついた籠に閉じ込めたくなる衝動が怖かった。
あの自由奔放な悠理を、がんじがらめに縛りつけたくなる衝動が。

仕事から帰って、彼女の身体に他の男の痕跡が無いかを、必死で探そうとする醜い自分が思い浮かぶ。
もし、たとえ虫刺れの痕だったとしても、僕はきっと最悪な妄想してしまうことだろう。

「じゃあ、他の男に取られてもいいのね?」

「京極玲二、ですか。」

「あら、知ってたの?あの男、本気よ。片想い歴も長いから。」

「彼は…………………嫌いだな。」

「清四郎!!」

突如大声を出され、驚く。
可憐はポロポロと涙を溢しながら、睨んでいた。

「今のあんたは、ちっともらしくないわ!!あの子の扱いにかけて、右に出るものは居なかったはずでしょう?なんでもっと安心させてやれないの?なんで結婚しないの!?悠理は仕事よりも大切な存在じゃないっての?」

詰られる言葉は愛に満ちていた。

「あいつは僕と結婚………したがってるんでしょうか。」

「当たり前でしょ!!いつの時代の話してんのよ!悠理は………悠理はずっと、ずっと、あんたからのプロポーズを待ってたんだからね!」

━━━━プロポーズ。そうか、僕は当たり前のように考えていたんだ。
昔も今も、「長い付き合いですからこれといっては………」。
それで済ませようとしてたんだ。

多くの愛を囁いたつもりだった。
態度でも示してきたつもりだった。
でも肝心なことは告げていなかった。

『僕と一生添い遂げてほしい。』

その言葉を、あいつはずっと待っていたはずなのに。

「可憐。今からお店に行ってもいいですか?」

「え………あ、うん!もちろんよ!」

「僕は悠理を一生縛り付けたい。その為の約束が必要なんです。」



そうして………
「ステディリング」よりも重い意味を持つその指輪を、クリスマスイブの夜、僕は彼女の指にはめた。
床に片膝を折り、きちんとした約束と共に。

「………あたいのこと、許してくれんの?」

「これからの僕を、許してくれるのなら。」

「どいうこと?」

不安に揺れる瞳が可愛くて、少し痩せた身体を抱え上げ、ベッドに押し倒す。
溜まった涙は喜びの意味だと信じたい。

「いいな、悠理。浮気心など二度と抱かせない。おまえは僕だけのものだ。誰にも触れさすんじゃないぞ?」

「………せぇしろ………」

「毎晩……こうして………僕を刻み込んでやる。」

その夜は、色んな角度から彼女を責め立て、どれほど懇願されても離さなかった。
片時も空かず、悠理の中へ僕自身を埋め込み、執着という名の欲望を流し込む。
赤い痕跡を至るところにまぶし、ただひたすら激しい律動に耽るといった行為を無言で続ける自分は、とても幸せだった。

啼き叫ぶ悠理が、僕だけを見つめている。
細い手を伸ばし、僕だけを求めている。

意識を失ってなお、僕は悠理から離れなかった。
深く澱んだ愛は、言葉では伝えきれそうもない。
そして、頭の隅を掠めるあの男への憤りが、更なる興奮を呼び起こしていた。

こんなにも理性が失われたことは、過去一度としてなかった。
それほどまでに愛していたのなら、何故別れを切り出したのか。
僕が僕でなくなる違和感と、悠理ごと破壊してしまいたくなる絶望が、とても恐ろしかった。

気絶した彼女の呼吸を確かめ、汗ばんだ身体を夢中で味わう。

━━━━二度と、離さない。

彼女の心を繋ぎ止める為なら、僕は何だってするだろう。
たとえ凶気の愛と罵られても構わない。
こんな僕を望んだのは、悠理自身なのだから。

その年のクリスマスは、二人の再スタートとなったわけが、それに加え、一つの奇跡が舞い降りる。
予想もしなかった素晴らしい奇跡が━━━



それから時は過ぎ、翌年の秋、僕たちは二人の子の親となった。
妊娠をきっかけに、悠理は元通りの彼女へと戻り、溌剌とした笑顔を見せてくれる。

強く、美しく、昔から憧れて止まない奔放な彼女。

それでも、僕の腕から逃げ出そうとしないのは、そこに一途な想いが存在するからだ。
彼女の不安は全て取り除かれ、この世で最強の母親となるのも、きっとそう遠くない未来。

小さな傷を忘れてしまえるほどの幸せが、ようやく二人を包み込み、僕の抱く覚悟は、再び強固な形を成していった。

(終)

~おまけ~

「せぇしろ、オムツ換えて!違うっ、清一郎の方だってば!」

「はいはい。では、悠亜のミルクをお願いしますよ。」

「若奥様、こちらに哺乳瓶を置きますね。」

「あんがと。あ、も~ちょっとだけ冷ましてくれる?」

剣菱家の朝は忙しい。
厳密に言うと、昼夜関係なしなのだが、子供たちが同時に泣き始める朝は特に慌ただしく、大人たちはてんやわんや、パジャマ姿で育児にあたる。

メイド長のサポートで懸命に励んでいるものの、生後二ヶ月経つ双子の世話は、想像よりも遥かに忙しかった。

「あ、やばい!悠亜がミルク吐いちゃった。」

辺りは一気に甘い香りが漂い、悠理のシャツはミルクにまみれたが、それに構っている暇もなく、立て続けに吐き戻した娘のスタイを取り外す。

「最近、よく吐きますねぇ。洗濯物が増える一方だ。」

ベビーベッドの上で、息子のおむつを交換する夫の表情は、そう言いながらも穏やかで…………。
もうすっかり見慣れてしまった光景に、余裕の態度。
どことなく嬉しそうにすら見える。

清一郎(せいいちろう)と悠亜(ゆうあ)。
男女の双子に恵まれた二人は、悠理の妊娠発覚と同時に入籍した。
万作たっての希望で婿入りという形を取り、清四郎は現在、剣菱姓を名乗っている。

ジューンブライドを狙った結婚式は、親族と仲間内だけで済ませ、それでもその後の披露宴は豪華絢爛なものだった。
バチカンでの挙式を泣く泣く諦めた、百合子夫人の失意を宥める為でもあったのだろう。

だがしかし、医者から『出来るだけ安静に』と厳命されていた悠理は、その宴にほんの少ししか参加していない。
どちらにせよ悪阻が酷く、いつもの食欲は発揮出来なかっただろうが。

そうして始まった新生活。
結婚後、清四郎はその身を剣菱邸へと移し、身重の妻に寄り添う形で仕事をこなして来た。

低迷に悩む企業の経営指導と、各々の業種に合わせたソフト開発。
所謂コンサルタント的な仕事がメインで、それに加え、剣菱にも携わっている為、日々の生活は非常に目まぐるしいものだった。

本来なら会社へ出向き、社内であれこれ指示を飛ばす立場なのだが、妻の身を案ずる彼は、自分の書斎からテレビ電話を繋げ、開かれる会議に参加していた。
もちろん、共同経営者である魅録が居るからこそ、実現出来た我儘。
持ち前の男気で社内を統率する彼は、家族が増えたせいもあってか、今、とても勢いがある。
社の業績は良い感じに右肩上がりだ。



「はぁー。あたいの母乳、不味いのかなぁ。」

娘の着替えを終えた悠理は肩を落とす。

「そんなことありませんよ。赤ちゃんの頃はよく吐くものです。」

三人の息子を育てきった中年のメイド長は優しく諭した。
彼女は子育てのプロ。
その手際の良さは、悠理だけでなく清四郎すら、一目を置いていた。

「おまえも母親学級で習ったでしょう?三ヶ月くらいまではよくあることだと。」

病院で行われたそれに、清四郎がしたり顔で参加していたことは、剣菱家の語り草である。
多くの妊婦をそのスマートなルックスでメロメロにした事実は、もちろん口にしてはならないが。

━━━悠理の記憶力などアテに出来ない。

そう断言した彼は仕事の合間、全ての講習に参加し、人形を使った練習でも、その手際の良さを見せつけ、皆を驚かせた。
反面、産み月間際だった悠理はしどろもどろ。
周りの人間は「ああ、なるほどね。」と納得したに違いない。

「そういや、おまえの方が先生より詳しかったよな。」

「当然です。多くの目ぼしい育児書は網羅していますからね。」

すっかり身綺麗になった清一郎。
悠理そっくりの眼(まなこ)で父親を見つめている。
息子が女親に似るという定説は、案外正しいのかもしれない、と清四郎は納得し、殊更可愛く思う次第。
ちなみに悠亜はとことん清四郎似だ。

「よし。これで一仕事おしまい!あとは寝かせるだけだな。」

「では、僕は仕事に戻りますね。何かあったらいつものように呼び出してください。」

「うん。頑張って。あ………」

悠理の声に足を止めた清四郎は、彼女が求めるままに抱き寄せ、優しいキスを落とす。

「済まない。忘れるとこでした。」

「………もう」

朝の口付けは夫婦の約束ごと。
どれだけ忙しくても、欠かさないと誓った。

「では、いってきます。昼食は魅録と外に出る予定ですから、好きな時間に食べなさいね。」

念を押すよう告げた夫を、悠理は笑顔で見送る。
心は春の海のように穏やかで、昔の焦燥など欠片も見当たらなかった。