ハートブレイク・クリスマス

 

世の中はクリスマス━━━━
お決まりの歌に、お決まりのイルミネーション。
そんな世間より少しリッチな夜を目指し予約した、ラグジュアリーなホテルの高級フレンチ。
それも全部、あの子に喜んでもらうためだったのに………。
━━━よりによって、こんな日に振らなくてもいいだろ?

三年も付き合った恋人は、レントゲン技師である俺をあっさりと見切り、10も年上の開業医の元へ飛び去ってしまった。

━━━今夜こそ、プロポーズしようと思ってたのにな。

ポケットにある小箱が、悲しくも虚しい。

確かに俺は開業医に比べたら薄給で、将来だってどうなるか分からない。
二人の出会いも、決してロマンチックじゃなかったし、むしろドン引きされるダサさだったよな。
コインランドリーで拾われた、ド●えもん柄のパンツ。
それを嫌がりもせず、微笑みながら手渡してくれた彼女。
まるで天使のようなその笑顔に、一目でノックアウトされた俺は、そこから猛プッシュ。
必死過ぎる男に同情したのだろうか。
OKを貰った時は正直、死ぬかと思った。

彼女は有名企業のOL、それも受付嬢。
毎朝あの笑顔で一日が始まるのなら、どんな厳しい仕事でも、苦には感じないだろう。

初めての電話。
初めてのデート。
初めてのキス。

全部全部覚えてる。

『一緒に住もうか』

そう言った時の彼女は、少女のようにはにかんで見せた。

仕事も五年目となれば、忙しさは段違い。
同じ屋根の下に住んでいても、すれ違うことは多かった。

あれは半年前。
同僚たちとの飲み会に出掛けた夜、彼女は珍しく外泊した。
その時は気にも留めなかったけれど、今から考えれば、きっと開業医と深い関係になっていたんだと思う。

いつしか香水が変わり、アクセサリーが増え、下着がセクシーな物に揃えられていた。

おめでたい俺は、自分の為に頑張ってくれてるんだ、と喜んでいたんだ。
バカだよな。
全部、その男の痕跡だったのに。

ふ、と隣の席を見れば、美しい顔立ちの女性。
凛々しいといった言葉がぴったりの風情で、一人、窓の外の夜景を眺めている。

誰かと待ち合わせでもしているのだろうか?
もしかすると、俺のように振られた?
こんな美女に限って、あり得ないな。

テーブルにはシャンパングラスが一つ。
料理を注文した様子も見当たらない。

━━━綺麗な子だ。どこかで見た気もするけど。

メインの肉を食べ終えた俺は、デザートが来るまでの間、手持ち無沙汰。
気付けば引き寄せられるかのように彼女を見つめていた。

線の細いふわふわの髪。
涼しい目元とキリッとした眉。
陶器の肌には化粧気がなく、唇にだけ淡い色のリップクリームが乗せられていた。
グラスを持つ指の爪は短く、それでも桜色に輝いている。

天然の美しさというのだろう。
細い首と細い腰。
スパンコールがちりばめられた真っ白なドレスにゴールドのバングル。
自分にどんな物が似合うのか、良く理解しているタイプの人間だ。
彼女が纏う光は、自信に満ち溢れていた。

裕福そうな美人。
こんな店に一人きりとは、あまりにも不自然。
絶対、恋人がいるはず。
もしかして不倫?
クリスマスの夜に、家庭を選らばれた?

妄想が膨らみ続ける中、思いきった俺は椅子から立ち上がると、彼女の真向かいに腰をかけた。
たった二杯のグラスワインが背中を押したのだろうか?
自分にこんな勇気が潜んでいたなんて、想像もしなかった。

彼女は怪しすぎる俺に対し、特に不審な扱いも見せず、ただ光彩を放つ瞳で見つめてくる。

「なに?」

つっけんどんな言い方と透き通る声。
見た目よりお高く止まっていないその態度に、むしろ心が砕けた。

「一人?」

「…………まさか、ナンパ?」

「迷惑かな?」

「ここ、どこだと思ってんの?」

「ホテルのレストラン。ちょっとお高めの。」

すると彼女は一瞬目を瞠った後、ブハッと笑い出した。

「俺、なんか変な事言った?」

「いや……んなことないよ。でも………」

「でも?」

笑いを噛み殺すように、口元を左手で覆う。
その薬指には………プラチナの輪。

━━━しまった。既婚者か。

しかし時すでに遅し。
一通り笑い終えた彼女は、一転真剣な眼差しを投げかけてくる。

「今すぐ、そこから離れた方がいいぞ。」

「え?」

「命が惜しければ、ね。」

命?
なぜ、命?

キョトンとした俺の身体が突然、浮遊感を感じる。

「僕の妻に何か用でも?」

氷よりも凍てついた声。
思わず背筋が震えた。
猫のように襟首を持たれたまま、椅子から浮きあがってしまう腰。
体重70キロはある俺を、その男は軽々と持ち上げたのだ。

「清四郎。他のお客さんがびっくりしてるぞ。下ろしてやれってば。」

クスクス
悪戯っぽく笑う彼女は、とても魅力的だ。

「いいでしょう。」

言葉は丁寧ながらも、動作は決してそうじゃない。
乱暴に手を離され、重力が戻ると、俺は直ぐ様、席を立ち、相手との距離を取った。

襟元を正す長身の黒髪。
三揃えのブラックスーツに紫色のタイ。
ダイアモンドのタイピンがキラリと眩しい。
趣味の良さに唖然とする中、それよりも驚いたのは、彼の正体だった。

━━━げっ!院長の息子じゃないか!………ってことは、この女の子は…………

どうして気付かなかったのだろう。
メディアを賑わす、剣菱一家のご令嬢。
つい最近、結婚したばかりの彼らは雑誌やテレビで何度となく目にしたはずなのに。

「で?僕の妻に何か御用ですか?」

殊更丁寧に尋ねられ、そこはそれ。
正直に話し、謝罪した。
彼も鬼ではないだろう。
きっと許してくれるはず。

しかし……

不機嫌な表情はちっとも去らない。
どうやら彼は、新妻をとても愛しているらしい。
独占欲の塊のような顔で睨んでくるのだから、俺としても苦笑いするしかなかった。

「あ、あの。俺、いや僕は、そこまで下心があったわけじゃ…………」

必死で言い訳する自分が滑稽で、振られたことも相まって、涙が出そうになる。

「…………ただ、独りが寂しかっただけです。」

消え入るような呟きに、剣菱家の令嬢は笑顔を見せたまま、俺に座るよう促す。

「酒、飲む?」

「え………?あ、はい。」

一人のソムリエを呼びつけた彼女は、「取り敢えず旨い酒!赤で。」と注文し、ニカッと笑った。
院長の息子もまた、渋々腰をかける。
妙なトライアングルが出来上がってしまったが、こうなると酒のツマミとして、身の上話をしなくてはならないだろう。
俺は仕方なく、フレッシュな傷口を自分の手で抉り始めた。



「へぇ。そりゃひでえな。」

「どこにでも転がっている話ですよ。」

二人の温度差は激しかったが、むしろそれに救われたようにも感じる。

「そう、よくある話です。それに、俺なんかと結婚するより、開業医の方がきっと幸せになれる。」

自分で言った自虐的な言葉に、思わず笑いが溢れるが、実際その通りなのだから仕方ない。
愛も金がなけりゃ、語れないもんな。

「あんた、馬鹿じゃん!」

「こら、悠理。」

「本気で、んなこと思ってんの?」

彼女は一転、険しい顔つきになる。

「え?」

「何?その自信のなさ?そんなんだから振られるんだよ。そりゃ金は大事だけどさ、問題は此処だろ?」

そう言って指差された場所は心臓の上。

心臓………ハートか。

確かに別れを切り出されたとき、俺は彼女を問い詰めなかった。

どうして?
なぜ、俺じゃなきゃダメなんだ?
開業医じゃなくても、絶対幸せにしてやるのに!
お前のことは、俺が一番想っているのに!!

そう叫ばなかったのは、心のどこかで自分にコンプレックスがあったから。
開業医に劣る仕事であると勝手にランク付けしてたからだ。

職業を誇れない男に、勝ち目はない。
そんなことも忘れていたのか、俺は………。

「…………遅くはないかな?」

「さあ?でもやってみなきゃ分かんないだろ?それで駄目なら諦めりゃいいじゃん。あたいなら…………そうする。」

「分かった………ありがとう!!」

俺は立ち上がり、一張羅のスーツのシワを叩いた。

「メリークリスマス!またどこかで!」

さっきまでの沈んだ心はどこへやら。
逸る気持ちをそのままに、軽い足取りで一歩を踏み出す。

待ってろ、恵。
俺の情熱を見せてやる。




「良いんですか?随分と煽ったようですが。」

「さあな。いつだって可能性は半分半分。そうだろ?」

「なるほど…………。」

「確か、おまえもそうだったよな。」

「僕には高い確率で勝算がありましたよ。」

「よく言う!汗だくで見合いの席に飛び込んできて、いきなりキスをかました男が!」

「止めてください………自分でも忘れたい過去なのに。」

「そ?でもあたいは……」

「悠理?」

「必死なおまえに心撃ち抜かれたから………絶対に忘れらんないよ。」

「!!」

濡れた瞳は雄弁に愛を語る。
清四郎は整えた髪を乱暴に掻き乱すと、悠理の手を掴み立ち上がらせた。

「お、おい。飯は?」

「先におまえだ。」

輝く星空の下、どれほど多くのカップルたちが甘い聖夜を過ごすのだろう。

恋を奇跡的に成就させる者。
温めてきた想いに火を灯す者。

色んな二人がいて、色んな恋がある。

手を引かれ歩き出した悠理は、名も知らぬ男の成功を願い、そっと瞼を落とした。

メリークリスマス。

きっと…………奇跡は起こる。