また、いつか………

悠理視点

婚約………を正式に取り交わしたわけではなかった。
そんなものしなくても、いつか結婚するだろうと思っていたから。

大学を卒業した辺りから、清四郎の忙しさは輪をかけてひどくなり、在学中、魅録と起ち上げた会社が起動に乗ってきたこともあってか、毎晩遅くまで仕事に没頭していた。
それだけじゃないのがこの男。
趣味の範囲は学生の頃と変わらず、いや、むしろ広がったようにすら思う。
接待の為のゴルフも、本格的に取り組むようになり、土日は決まって取引先との約束で潰れていた。

━━━男の世界には踏み込めない。

そう感じたのは、可憐の一言からだった。

「清四郎達は今が正念場なんだから、あんたはとにかく厄介事に巻き込まれないよう、大人しくしてなさい。手を煩わせちゃダメよ?」

「わあってるよ。」

━━━卒業してブラブラしているあたいとは違うもんな。

こみ上げる卑屈な気分を押し殺したが、可憐の言うことは正しくて………。
それからずっと、窮屈な檻の中で過ごしてきたように思う。
夜遊びもグンと減り、海外旅行すらほとんど行かなくなった。

邪魔しちゃいけない。
彼らはもう大人で、責任を持った仕事をしているのだから。

清四郎は忙しい合間、剣菱の仕事にも首を突っ込んでいて、頼りない兄に代わり、明確な決断力を見せることが多かった。
うちの両親は数年前からすっかり隠居モードで、優柔不断な兄ちゃんはきっと助かったに違いない。

周りが嵐の勢いで変化していく中、孤独を感じたのは、自分の立ち位置に自信がなかったから。
昔はそんなことへっちゃらで、「あたいはあたいだ!」って突っぱねていたのに。
社会に出た仲間達ときっちり線引きされたようで、毎日が心許なかった。

清四郎と付き合うようになって、身も心も溺れさせられて、失う恐さを知って、いつの間にか自分らしさを忘れ、萎縮してしまったんだと思う。
それなのに………ヤツはいきいきとしていて、まるで自分とは正反対に見えて………正直、悔しかった。

あの日は━━━

たまたま清四郎の会社の近くに用があったから、ついでに甘いものでも差し入れしてやろうと出掛けた。

都内の、それもオフィスビルが立ち並ぶ一等地。
いくら剣菱の息がかかったテナントとはいえ、月200万近くの賃料を払い続けるのは大変だと思う。

30階建てのビルの24階。
エレベーターホールに向かおうとして、足が止まった。

ロビーのカフェに座る清四郎の隣に、魅惑的な女がいたからだ。
向い合わせではない。
隣同士くっつき、親しげに何かを話している。

後から聞いた話だと、それは得意先の社長が連れてきた奥さんだったらしいけど、間違いない。
あの女は清四郎を邪な目で見ていた。

浮気を疑ったわけじゃない。
見えないベールが自分と清四郎の間に立ちはだかり、どう足掻いてもそこには入っていけないことを知った。

僅かな自信すら揺らぎ、ひび割れる。
カラカラに渇いた心が、音を立てて崩れていく。

だからその夜、道端で偶然出会い、声をかけてきた『玲二』が悪いわけじゃない。
こっちから誘ったんだ。
「朝まで飲みたい」って。

玲二は大学に入った時、ちょっとしたきっかけから知り合った男だ。
女顔なのに、ラグビーをしているせいで筋肉隆々。
明るくて、魅録よりも少しだけ『悪』で、でも女にはとことん優しくて━━━

「俺のマンションで飲もっか。」

その誘いに頷いてしまったのは、もう完全に浮気心だった。

どうなっても良いと思った。
清四郎とあの女の映像が、網膜から消え去るのなら、どうなっても……

持ち込んだ酒を全て平らげた頃、酔った勢いでキスを交わす。
何度も、しつこいくらいに、恋人とは違うキスに溺れる。

玲二が自分に気があることは知っていた。
それほど強い想いがなくとも、女を抱ける男だと分かっていた。

清四郎との付き合いが決まったとき、彼には本気で悔しがられたから。
「俺との方が上手くいくのに」と寂しそうに笑われたから。

「………んっ………ふっ………」

「悠理………」

いつもはふざけた感じで、「ゆうりちゃん」と呼ぶくせに、その時、明らかに誘う声で呼び捨ててきた。
それが、その先へと向かう足を踏みとどまらせた理由。

違う。

清四郎はそんな風には呼ばない。

もっと愛おしそうに。
これ以上ないほど優しく、甘く、切なく、蕩けるように。
心の全てを開かせるように。

宝物のように呼んでくれる。

「…………ごめん、玲二。」

両手で彼の胸を押し戻し、涙を流す。
なんて卑怯な女だ。
ここまできたら、男はなかなか立ち止まれないと知っていて、拒否するのだから。

「………そんなにあいつが好きなのか?」

歯軋りする勢いで尋ねられる。

「………好きとか嫌いとかじゃなくて……清四郎はもう、あたいの一部なんだ。離れたら血が出ちゃうほど深く食い込んでる。」

「なら!なんで俺を誘った!知ってたんだろ!?俺の気持ちを!」

「ご、ごめ………」

「俺はあいつみたいに優しくないぜ?このまま、無理矢理抱くことだって出来る。どうする?浮気したって白状するか?それとも………」

玲二はいつかの表情で笑った。

「俺のものになるか?」

気付けば彼を突き飛ばし、マンションから飛び出していた。
ブーツを手に持って、必死で夜明け前の街を駆け抜ける。
タイツ越しの小石が痛くても、走り続けた。

清四郎!!

清四郎!!!

こんな自分は嫌いだ!
卑怯で、汚くて、惨めで、弱くて。
今すぐにでも消え去りたくなる!

大通りに出た後、ようやく靴を履く。
コートのポケットから取り出した携帯には恐ろしい数の着信が残っていた。
そのほとんどが清四郎で、中には魅録の名前もあった。
他の三人からはメールが来ていて、特に美童のものは長文だった。

一つ一つ、読めば、彼らの優しさが伝わってくる。
清四郎の愛情が………伝わってくる。

━━━━あたいは馬鹿だ。

ワンタッチで発信した相手は……もちろん清四郎。
ものの十分もかからず、名輪の車で辿り着いた男は、スーツ姿のままで髪はボサボサだった。
うっすらと出来たクマから、一睡もしていないと判る。

正直に話そう。
たとえそれが別れをもたらしたとしても。
今の自分はもう、彼に相応しくないのだから。




そして清四郎は去った。

雪の中、大きいはずの背中が小さく見えて、静かに消えて行く。

今ならまだ間に合う?

駆け寄って、すがりついて、許してと泣けば、きっといつもの「しょうがないですね」と諭すような笑顔を見せてくれるかもしれない。
子供のように愛情を請えば、彼は抱き締めて、優しいキスを与えてくれるかもしれない。

なのに、足は動かなかった。
罪の重さに凍り付いたまま。

その年の冬は記録的な積雪で、東京の交通は混乱していた。
でもそんな些細なこと、どうだっていい。
悲鳴をあげる心が、清四郎を求めて血を流す。
毎日、毎日、ドクドクと。

砕け散ったガラスの破片は、彼の心?
それとも二人の絆?

何をどう修正したら良いのかも解らず、雪に閉ざされた世界で呻く。

━━━清四郎。あたいはおまえがいなきゃダメな女なのに。

たったそれだけの言葉すら言えないほど、大切な何かを失ってしまったのか。

クリスマスまで一週間。
あたいは悶え、苦しみ、己の罪と向き合うこととなる。