時間帯が夕方の帰宅ラッシュということもあり、救急車はなかなか到着しなかった。
悠理の叫び声と、遠巻きに見守る人々のざわめきが交じり合う。
━━━額に滲む汗が冷たい・・・・
そう感じた後、清四郎の意識はゆっくりと闇の中へ落ちていった。
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▽
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悠理が好きだった。
いつからかは分からないが、ずっと彼女だけが特別だった。
もちろん野梨子とは別の意味で大事にしているつもりだったが、彼女にそれが伝わったことは皆無だろう。
野心に溺れ、婚約までしたのは相手が悠理だったからだ。
あれが可憐や野梨子なら、そうはならなかった。
恋がどういうものかは知っている。
だがそんな不確かな物に振り回されるのは、プライドが許さない。
悠理との距離を少しずつ縮めていきながらも、決定的な形に持ち込めなかったのはそんな理由から。
臆病者だと誹りを受けても仕方がない。
そんなことは分かっている。
大事だった。
恋なんて軽い気持ちでは表現出来ないほど、彼女が大事だった。
高等部を卒業した後、実のところ、複数の女性から真剣に交際を申し込まれた。
一瞬だけ頭を過ぎる逃げ道。
しかし特別な魅力を何も感じない彼女達と、これから先同じ時を過ごすだなんて、人生の無駄でしかない。
丁重に断り続けている内、自然とハードルが上がってしまったのだろう。
気付けば周りは落ち着きを取り戻し、いつしか本当にゲイなのではという噂も飛び交っていた。
全く、不本意である。
そんな中、ESP研究会で知り合った二人の女たち。
一人はあからさまに下世話な感じで、あまり仲良くしたくないタイプだった。
だがしかし、そういった輩はどこにでもいる。
いちいち目くじらを立てていても仕方が無い。
だから適当にあしらうことで決着した。
もう一人、「アリサ」は肌が拒否反応を示すほど苦手なタイプで、好意を寄せられていると知れば、なおのこと側に居たくないと感じた。
研究会の理事へと昇格していた僕は、会合に出向くのが億劫になり始め、適当な理由を付けて欠席することが多くなる。
だが、彼女達は何故か二人揃って僕の行く先々に現れ、偶然を装い声をかけてくるのだ。
軽く挨拶し、すれ違うだけの時もあれば、がっつりと居座られ、無理矢理時間を奪われることもあった。
非常に不愉快な存在。
そろそろ本腰を入れて排除せねばと思っていた矢先の、今回の出来事だった。
悠理を恋人役にすることで、是非とも諦めて欲しいと願った。
彼女ほど健康的で美しい女を前にすれば、普通の人間ならば尻込みして当然。
それを薄く期待したのだ。
もちろん自らの願望も多く含まれていたが、僕にだって少しくらい夢みたい時がある。
━━━だがまさか、こんな結果になるとはね。
正しく天国から地獄。
この僕をもってしても、予測出来なかった事態だ。
正直に言おう。
確かに浮かれていたさ。
諦めていた恋が成就し、他の全てがぼやけていたんだ。
背後から刺されるなんて、神経が浮ついている証拠。
何のために厳しい鍛練を積み重ねてきたのかと、落ち込む。
和尚にだって嫌味の一つや二つは言われることだろう………。
彼女は泣いていた。
必死の形相で飛び出してきて、奇妙な笑い声を上げるアリサを一瞬で蹴飛ばした。
枯れ木のような身体は、重力を感じさせないほど呆気なく吹っ飛ぶ。
もちろん同情する気は一ミリとて無い。
悠理は刺さったままの小型ナイフ(恐らくは)を目にすると、その顔色を一気に青くさせ、さらに号泣し始めた。
タクシーの運転手が素早く救急車を呼んだまでは良い。
痛みよりも全身への痺れが酷くて、僕はまともに指示を出せないでいた。
━━━拙いところを刺されたのかもしれない。
あの細い手にどれだけの憎しみを込めたかは知らないが、それは女の力にしては深く刺さっているように感じた。
僕は思い残すことがないよう、震える唇で悠理に告げる。
愛してる。
愛してる。
おまえが好きだ、と。
きちんと伝わっていたかは分からない。
何せどんどん力が抜けていく。
視界はぼやけ、聴力も落ちてくる。
自分の声さえ遠退いていくほどに。
悠理の美しい目が好きだ。
怒る時に可愛く膨らむ頬も好きだ。
尖った唇を何度吸い上げたいと思ったことか。
柔らかい髪を撫でながら身体ごと抱き寄せて、どれほど愛を囁きたいと願ったことか。
人間は愚かだ。
与えられた人生が当然のように長いものだと勘違いしている。
先延ばしにする事で必死に心を守ろうとしている。
それは僕にだって言える事だ。
━━━振られたくない。
━━━このままの関係で居たい。
一瞬先にどんな運命が待ち構えているかなんて、誰も予想出来ないというのに……人は臆病風に吹かれる。
悲しい防御反応だ。
悠理……初めてのデートがこんなんじゃ、嫌われてしまうでしょうな。
・
・
・
「……ろう、せいしろう、せいしろう!!!!!」
「先生、患者の意識が戻りました。」
「よしきた。清四郎君、聞こえるか?命拾いしたな。肝臓すれすれだったぞ。君は運が良い。」
見慣れた穏やかな光が二つの人影を浮かび上がらせる。
ピッピッピッ
耳馴染んだ機械音。
僕はそこが集中治療室であることを直ぐに理解し、話しかけて来た相手が父の親友でもある高名な外科医だと気付いた。
酸素吸入で声は出し辛いものの、なんとか目を動かすことは出来る。
「暫くはここで過ごして貰う事になるだろうが、ま、鍛えられた君の事だ。すぐに回復して一般病棟へ移れる。じきにお父上が来られるからな。女に刺されるなんて勲章ものだぞ?傷跡は大事にしとけ。」
呑気な口調でからかわれ、思ったよりも深刻な状態でないことに胸を撫で下ろす。
麻酔が効いていて痛みもない。
固定された点滴の名前と量を把握し、あと二時間はこのままか、とうんざりした。
此処は父の病院ではないのだから、そうそう我侭も言えないだろう。
少し回復すれば転院することも可能だが……それより悠理は?
ICUに一般の見舞客は滅多なことで入れない。
恐らくは無駄だろうけど……………やはり会いたい。
朧気な頭でそう望む。
5分ほど経っただろうか。
険しい顔をした父の後ろからそっと現れたのは、マスク姿の悠理だった。
「せぇしろ……」
過去の記憶を遡っても、これほど瞼を腫らした彼女は知らない。
父の腕にしがみつきながら、恐る恐る片手を伸ばしてくる。
「生きてる……。おっちゃん、せいしろ、生きてるんだろ?」
「ああ。」
短く答えた父もまた涙ぐんでいた。
━━もしかすると、本当は危険な状態だったのか?
尋ねようにも喉がカラカラで言葉も出ない。
━━そういえば、この点滴は喉が渇くんだ。
思い出して諦めた。
悠理が点滴の管に触れないよう、珍しく緊張した面持ちで腕を擦る。
鈍った感覚の中でも、温かさとくすぐったさ、そして安心感を与えられ、生を実感する。
「あったかい……。清四郎、おまえ、生きてるんだぞ。分かるか?」
それ以上腫れたらどうするんだ?と思わず心配してしまうほど、彼女の瞳が涙で潤んでゆく。
━━可哀想に、悠理。自分でも情けないですよ。
すぐにでもその涙を吸い取ってやりたい。
泣くなと抱き締めて、柔らかい髪を梳いて、思い浮かぶ全ての慰めを与えたい。
痛々しい瞼を僕の唇で癒やしてやりたい。
そんな事を考えながら、弛緩した頬に出来るだけ力を込めて笑う。
きっとぎこちなかっただろうその笑みを、しかし悠理はちゃんと理解してくれた。
「おっちゃん、笑ってる!もう大丈夫だろ?これで元気になるんだろ?」
「ああ。きっと、すぐに回復する。だから悠理ちゃんも今日はゆっくりと休むんだぞ?」
「うん!」
二人の平和な会話に感謝がこみ上げてくる。
「後から母さんも来るからな。」
父はそう言って僕の手をぎゅっと握った。
体調への気遣いから、面会は5分ほどで終わってしまったけれど、おかげで脳が微睡みからゆっくりと目覚め始める。
四肢に通う全神経へ覚醒しろとの命令が下され、僕の鍛えられた身体はそれを忠実に守ろうとするのだ。
早く、
早く、
この腕で、悠理を抱き締めたい。
意識を取り戻すときに聞こえた、僕の名を呼ぶ悠理の声。
あの声が無ければ…………
もしかすると僕は━━━━━━
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医師の予想通り回復は早く、翌々日、あっさりと一般病棟に移された。
仲間をはじめ、続々と見舞客が訪れる。
滅多なことで泣かない気丈な姉も、珍しく憔悴しきった様子を見せた。
もちろんこれは立派な事件であり、刑事達が事情を聞くため何度も病室を訪れた。
あの日、僕が救急車で運ばれた後、アリサはケタケタと不気味に笑い続け、駆けつけた警察官に大人しく逮捕されたらしい。
しかしその場に赤坂は居なかったと聞く。
赤坂………は偽名だったのだろう。
引き続き捜索しても彼女の行方は分からなかった。
「女に刺されるだなんて…………清四郎、あんたよっぽど浮かれてたのね。」
「そりゃそうだよ。いくら清四郎だって恋が成就すれば周りがお花畑になっていてもおかしくないはずさ。」
可憐と美童がしつこくからかい続ける。
仲間達に告げた僕たちの交際。
彼らは心から祝福してくれた。
その後も魅録は捜査の進展具合を事細かに教えてくれ、野梨子はいつも通り、優しい気遣いを見せる。
悠理は甲斐甲斐しくも毎日見舞いに訪れ、うずたかく積まれたフルーツを片っ端から平らげる。
そんな彼女の変わらなさが傷口の痛みを遠ざけ、今の幸福を強く実感させてくれた。
退院予定は三週間後。
しかし恐らくはその前に、父の病院へ転院することとなるだろう。
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・
事件から七日目。
大学を早退してきた魅録が僕の病室を訪れた。
「’アリサ’は精神鑑定を受けることになった。」
「当然ですな。薬物反応も出なかったんでしょう?」
「ああ。どっちにしろまともじゃないことは確かだ。」
病院内が禁煙であることに気付いた魅録は、ポケットから出した煙草をもう一度引っ込める。
アリサ達が所属していた宗教団体’光の焔ほむら’は小さいながらも、立派なカルト集団だった。
代表者は御年89歳の老女。
しかし現在実権を握っているのは彼女の息子’仙頭光太郎せんどうこうたろう’59歳だ。
彼が得意とするマインドコントロールは50人ほどの信者をたぶらかし、母を女神とあがめ奉らせた。
新しい信者を獲得するに於いて、若い女性は身体を投げ出すこともあったらしい。
それすらマインドコントロールによるものだったのかもしれないが、アリサももちろんそれに倣っていたと考えられる。
「親父に圧力をかけさせて、’光の焔’はぶっ潰すつもりだが、それでも洗脳された人間はなかなか元通りにはならない。家族が引き取りを拒否している場合も多いし、奴らの辿り着く先は病院か、はたまた………」
言葉を濁す魅録は缶コーヒーを飲み切ると、鞄から何冊かの推理小説取り出し、手渡してくれた。
「どうせ暇だろ?」
「これは有り難い。実家からの本は読み飽きていたんですよ。」
「そういや、毎日のように悠理が来てるって?ちょっとくらい進展したのかよ。」
「その辺はノーコメントで。」
「ちぇ、ケチくせぇな。」
「済みませんね。」
「じゃな」と病室の扉を開けた魅録と入れ替わりに入って来たのは、これまた別の意味で早退した悠理。
「腹減ったぁ~。」とぼやきながらの登場だ。
今日は白いパーカーにパッションピンクのショートパンツ、編み上げのサンダルという出で立ち。
とても可愛らしい姿に心が和む。
彼が気にかけていた悠理との進展は、なかなかに順調だった。
もちろん傷口の痛む僕に望むこと全てが出来るはずもなく、それでも挨拶代わりにキスするくらいの関係には落ち着いている。
「真っ赤になって………まだ恥ずかしいんですか?」
「………恥ずかしい。」
ようやく唇を深く重ね合わせる、ちょっと進んだキスを拒むことがなくなった彼女。
乙女の様に恥じらう姿は、とてもバナナ2房を三分で完食出来る人間とは思えない。
ベッドにちょこんと腰掛け、上目遣いで僕を見つめてくる。
そんな悠理を見て、命のありがたさをしみじみと噛み締めながら、再び淡い桃色をした唇を啄み始める。
━━━━━まだまだ先があるんですよ、悠理。
けれどそれを実行してしまうと、自らが後悔する羽目になると解っている僕は、忍耐を総動員させ、それに耐えた。
生死をさまよってからというもの、我ながら貪欲になったと感じる。
欲求が次から次へと湧き上がり、心よりも先に体が動こうとする。
たとえ繋がる事が出来なくても、悠理の全てが見たいと望む。
「悠理。」
「ん?」
「胸を触ってもいいですか?」
「む、む、胸??」
「服の上からでも良いんです。少しだけ…………」
「…………ち、ちょっとだけだぞ?」
怪我人である僕に、悠理はとことん甘かった。
恐る恐るパーカーのジッパーを引き下ろし、薄いピンク色のキャミソールを見せつける。
触れると溶けて崩れてしまいそうな、ささやかな膨らみ。
匂い立つ女の香り。
それを知った僕の背中を一瞬で鋭い痛みが走り抜ける。
が、それは傷のせいだけではない。
出口を求め蠢き始めた、紛れもない性欲だった。
「済まない。ファスナーを上げてください。」
「え?」
「やはり我慢出来なくなる。安静にしていなければならないのに………」
「がまん?おまえ、もしかして………エッチしたいのか?」
あからさまにそう言われると、自分の未熟度合いが露呈されるかのようで少々恥ずかしく感じてしまう。
「もちろん。こんな怪我さえなければ、今頃おまえは僕のモノとなって、身体の隅々まで味わい尽くされていたでしょうね………。はぁ……退院が待ち遠しいですよ。」
照れ隠しで開き直れば、考えたように俯いた悠理が、何故かパーカーを潔く脱いでしまった。
「ゆ、悠理?」
「触りたいんだろ?いいよ、触って………」
「…………………僕の言葉、聞いてなかったんですか?」
「聞いてたよ。でもあたい………もう絶対にあん時みたいな後悔はしたくない。清四郎が死んじゃうかもなんて思ってもなかったから……おまえから告白されんのじっと待ってたけど、あんなのはバカだ!言いたいことはその場で言わなきゃ、したいことはその場でしなきゃ、絶対後悔するんだ!」
それは僕と同じ結論。
悠理は悔しそうに顔を歪め、キャミソール姿でそっとすり寄ってきた。
病室の扉に鍵はかかってない。
次の検温まで約二時間、恐らく看護師も来ないだろう。
「触れて…………良いんですね?」
「ん……ちっちゃいけど……」
「知ってます。」
冷静な振りをしてみても、心臓は痛いほど跳ねている。
キャミソールの上からだというのに。
その下にはブラジャーが邪魔しているというのに。
僕は痛みを堪え、悠理の胸を掌で優しく包んだ。
━━━━柔らかい。
蕩けそうな感触。
マシュマロの様な弾力も感じる。
少し力を入れただけで彼女は「ん……」と甘く呻いた。
羞恥に肌を染め、身悶え始める姿は、僕の興奮を限界にまで引き上げて行く。
━━━━抱きたい。押し倒して思うがまま貪りたい。
おあつらえ向きにここは清潔なベッドだ。
しかし身体は言うことを聞かない。
傷口は熱を持ち、痛み止めが切れてしまえば、まともに眠ることも出来ないだろう。
やわやわと揉みしだいていると、悠理はどんどん息を荒くしてゆく。
「あ……………せぇしろ………んっ!」
そんな切ない声は反則だ。
僕は素早くブラジャーのホックを外し、キャミソールごと一気にたくし上げた。
「ち、ちょ………!!」
ぷるんと揺れ、現れたその美しい形。
確かに小振りではあるが綺麗なお椀型の双丘に、小粒の桜色をした乳首がふっくらと芯を持って勃ち上がっている。
驚くほどの美乳だった。
過去の女では感じたことのなかった欲望がはっきりと擡げ始める。
気付けばしゃぶりついていた。
痛みはどこかへ消え去り、ただただ悠理の可憐なそれを欲していた。
「せ、せぇしろ………あ、あ………や、やぁ………!触るだけって………」
彼女の言葉を無視し、したいように舐めしゃぶる。
代わりに痛みを感じた股間は、すでにはち切れんばかりの情動を抱えていた。
「ああ、ゆうり………おまえがこんなにも可愛いだなんて……!」
僕同様、彼女の口からも熱い吐息が漏れる。
明らかなる興奮の証。
唾液で光り始めた白い肌が艶めかしく誘ってくる。
「せぇしろ……駄目だってば……傷が…………」
「構わない。例え血が溢れ出ようが、おまえが欲しい。」
とうとうシーツの上に押し倒した僕は、入院着の前を開け、悠理を見下ろした。
怯えた瞳は恐れなのか、はたまた傷を気遣ってのことか……。
「悠理、愛してる。」
薄れゆく意識で告げた言葉をもう一度口にする。
彼女はそれを思いだしたのか、覚悟を決めたように優しく微笑んで見せた。
しかし━━━━━━
トントン
「検温の時間ですよ。」
そう言ってズカズカと入ってきた看護師は初めて見る女だった。
━━━ん?どこかで……
聞き覚えのある声。
一瞬の判断が遅れたのは、やはり自分たちの体勢が褒められたものでなかったからだろう。
「まあ、怪我人のくせにダメでしょう?大人しく寝ていないと。」
真っ黒に切りそろえられた髪が輪郭のほとんどを覆い尽くし、まるであの日の「アリサ」を思い出す。
濃い化粧と白いナースキャップの違和感。
それは悠理にも伝わったようだ。
「赤坂……さん。」
「ふふ……ちゃんと寝てなきゃダメじゃない、菊正宗君。」
そう言って彼女は隠し持っていた出刃包丁を振りかざし、襲いかかってきた。
僕は即座に悠理を解放し、ベッドの奥へと突き飛ばす。
「清四郎!!」
捻った身体に鋭い痛みが走るが、構ってなど居られない。
女の駆け寄ってくる勢いは速く、その目は狂気を孕んでいた。
「アリサの代わりに私があんたを…………!!!」
「正気に戻れ!」
目眩ましの枕を投げつけ、その隙に手首を手刀で容赦なく叩く。
落ちた出刃包丁を駆けつけた悠理がすかさず拾い、大きな花瓶の中に沈めた。
「あんたがアリサを壊したんだ!あの子の純情を踏みにじっておかしくさせて!!あんたのせいだ!全部!!!」
とてもまともではない言い分を叫びながら、彼女は手足をばたつかせる。
「悠理!カーテンの紐を取ってくれ!」
「わ、わぁった!」
縛られた後もギラギラとした目で睨み付ける執念が、恐怖を感じさせた。
「彼女は’アリサ’さんは一体、貴女の何なんです?」
「・・・・・・・・・・・・・。」
かねてからの疑問を尋ねると、赤坂はようやく口を閉じ、何かを思い出したかのように目を瞬かせた。
「アリサは私の娘……よ。」
「娘?」
━━━━━娘?とてもそうは思えない年齢だが、どういうことだ?
「あの子は私と仙頭光太郎の娘なのよ。私が15の時に産んだ実の子なの。」
それを耳にした途端、ぞっと肌が粟立つ。
確かにカルト集団の中にはそういった話はよくあることで、だがそんな年端のいかぬ子供に、なんと非道な事を!
「彼女は知っているのか?」
「きっと知らないわ。生まれてすぐに捨て子として扱われ、教団に入ったから。」
となると幼い頃から洗脳され、愚かな教団の為に生かされ続けてきたということか。
「何てことだ…………」
資料でしか見たことのない男に怒りがこみ上げる。
「赤坂さん、貴女は…………どうして……!」
「私もヤクザな親に捨てられた後、仙頭に拾われたの。生きる道は彼が指し示す場所にしかなかったのよ。」
バタバタと廊下を駆ける足音が聞こえてくる。
それは異変を感じた看護師達のもの。
僕と悠理はあまりにも救われない話に、ただただ彼女を見つめ続けた。
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▼
赤坂………本名は’鳥羽夏子とばなつこ’と言うらしい。
逮捕された彼女は全てを話し始めたが、それもどこまでが真実かは解らない。
マインドコントロールされた二人の意見がそれぞれ食い違うため、刑事達も慎重に捜査を進めている。
僕は転院後、しばらく自宅療養をしていたが、悠理の必死な願いから、剣菱家に移ることとなった。
彼女の両親も大喜びで出迎えてくれる。
それはもちろん、二人の将来を期待してのこと。
僕としては嬉しい話である。
悠理はあれから始終、僕に付き添うようになった。
大学の送迎ももちろん剣菱の車で………。
さすがに寝室は結婚するまで別々だが、それも時間の問題だろう。
「清四郎。」
「何です?」
背中の傷跡をそっと撫でる悠理は、その細い裸をすり寄せてくる。
「この先、どんな事があってもあたいが守ってやるからな。だから、庇おうとすんなよ。」
随分と男前な発言だが、それでは僕の面目が立たない。
しかし………………
「宜しくお願いしますね。」
そう言うに留め、再び彼女の身体を抱き寄せ、シーツに沈める。
━━━━命ある限り、悠理を愛そう。
そんな強い決意を胸に、僕は優しくも逞しい恋人の唇へ情熱を注いだ。