第五話

自宅に帰った清四郎は、ほろ苦い思いを噛みしめていた。
日はすっかり傾き、夜を連れてきている。
もやもやする胸の奥にまで侵食する勢いで。

ベッドに横たわり思案を巡らすも、気持ちはちっとも晴れやしない。

─────悠理に男の影

それはあってはならない事態だった。
確かに、あの恵まれた容姿と家庭環境に心惹かれる者はいるだろう。
だがひとたび彼女の性格を知れば、どんな男だろうと裸足で逃げ出すに決まっている。
たとえ剣菱の娘でも、自分には手に負えないとわかるからだ。
それなのに…………

知った上でアプローチする輩が?
まったくもって信じられない!

自身の本音を棚に上げ、清四郎は固く握り拳を作った。
自分以外の男が悠理に懸想することが許せない。
そんな狭量な己の本質を初めて目の当たりにし、たじろぐ。

不快感と不安が混在し、やがて胸をかきむしるほどの痛みへと変わり、そこでようやく清四郎は気付いたのだ。
今、抱えているこの思いは、明らかに独占欲であると…………
そしてその根底にあるのは紛れもなく“恋情”。
この年で初めて知る、他への強い想いだということを。

「悠理………おまえを手に入れることは容易い。でも心は………」

何よりも難しいと思う。
口八丁で騙すことは出来ても、心を振り向かせることに関しては自信がなかった。

相手の男はいったいどんなヤツだろう。
あの調子だと随分親しいはずだ。
長い付き合いならきっと暴走族仲間。
以前から惚れていたという可能性も高い。

清四郎のおおよその推理は当たっていた。
無意識に爪を噛み、頭を振る。
奪われたくない。
そんな事態を招くくらいなら、多少強引な手を使うのもやぶさかではない。
理詰めなどよりも、本能に訴えかけるような行動を。

しかし………

己がプライドを捨て愛を告げたとして、本当に悠理の心は手にはいるのだろうか?
あの厄介な女を虜に出来るだろうか?

不安が駆けめぐる。
握りしめた拳を見つめ、清四郎は何度も自分に問いかけた。

それでも………悠長に構えてなどいられない。

掛け時計の針を確かめ、電話を受ける彼女の言葉を思い出すと、携帯電話を手にし、一台のタクシーを呼びだした。
夜の街で他の男と楽しく過ごす悠理を引き裂くために。

「我ながら、滑稽だが………」

ジャケットを羽織り、部屋の姿見で自分を見つめると、そこにいる男はいつになく余裕のない顔をしていた。



「悠理、酔ったのか?」

「…………酔っれない。」

否定はするものの、呂律は怪しい。
隣にいる男の熱烈な想いに当てられたのか、普段よりアルコールの回りが早いように感じる。
カウンタースツールに腰掛け、次々と酒を飲む。
踊り疲れた体には冷えたカクテルがよーく沁みた。

頬が熱い。
瞼が下がり、腰がやたらと重かった。

「もうそろそろ出よう。」

「まだ飲めるってば……」

そう言って早太の手を振り解こうとするも、相手はわりと本気で掴んでいて、簡単には抜け出せない。
どっぷり酔っているのだから当然かもしれないが………。

何杯目か分からぬグラスをぐいっと飲み干し、悠理はとろんと落ちた目で男を流し見た。
友人としてイイ奴だと思う。
魅録もそれは認めている。
男気もあるし、女にだってそこそこもてる。
かといって手当たり次第受け入れるような軟派ではなくて、魅録同様硬派なイメージが染み着いていた。
もちろん男にだって人気だ。
喧嘩もわりと強い。
魅録ほどでないにしろ、族仲間では一目を置かれる存在なのだ。

「おい。あんま、隙見せんなよ。」

「“すき”ぃ?」

酒で火照った頬を早太の指がなぞる。
柔らかくて滑らかで、恐らく彼が今まで生きてきた中で一番気持ちよいと感じる触り心地。

「言ったろ?俺はおまえに惚れてんだ。少しでもチャンスがあれば………手を出したくなるほどにな。」

アルコールの回った頭ではまともに答えることも出来ず、悠理はただ彼の目を見つめ、その真意を覗き見ることしかできなかった。
男らしく、強い光を放つ目。
明確な情熱が感じられる。

でも何故か━━━━心は冷えてゆく。
何かが違う。
そう心が叫ぶのだ。

「………あたい、わかんないよ。恋愛なんかしたことないもん。」

「俺に………何も感じないのか?」

「んなこと言われたって………」

「こうしても?」

早太の腕が悠理の腰を強く抱く。
それは一瞬の出来事で、酒に浸った体はいつものように反応できなかった。
抱き寄せられた上半身と接近する互いの顔。
魅録と同じタバコの香りが鼻を掠める。

「そ………」

名前を呼ぼうと開いた口へ、男の唇が寄せられ、悠理は目を丸くした。
相手の意図は鮮明。

これはイヤだ!
やっぱり無理だ!

反射的に顔を背けようとしたが、早太の空いた手が顎を掴む。

「悠理…………」

この上なく優しい声音で囁かれても、悠理の心は冷えたまま。
緊張だけが背中を震わせる。

「や………や、やだっ!!清四郎!!!」

それは思いもかけない叫びだった。
咄嗟に口から出た名前は今この場に関係ない男。
いくら危機的状況であっても、清四郎に助けてもらう道理は見当たらない。

悠理は蒼白したが、早太はそれ以上だった。
真顔で動きを止め、まるで絶望的な何かを告げられたように顔を強ばらせた。

「あ………ちがっ………間違えたんだ!」

早太の気持ちを知りながら、清四郎に助けを求めるなんて最低過ぎる。
心の中で罪悪感が積もり、悠理は早太の心情を気にかけた。
もちろん、彼は驚きと共に充分傷ついている。

(“清四郎”?魅録が唯一認めている男のことか。)

悠理とは切っても切り離せない間柄。
何せ、ふざけた話とはいえ、婚約までしたのだからその関係は特別だ。

(だがまさか、こんな時に奴を呼ぶだなんて━━━━━)

ぐっさりと胸に刺さったナイフが男の矜持を揺らす。
しかし動揺している悠理の腰はまだ己の手にあった。

早太は苛立ちを感じていた。
そしてその苛立ちを我慢することが出来なかった。
そこまで大人ぶることは出来ない。

「そ………早太………」

一瞬にして気配の変わった男へ悠理の勘が働く。
もがき、抜け出そうとしても本気の力には敵わない。

それは初めてのキスだった。
噛みつくような、嬲るような、痛みすら感じるキス。
悠理が胸板を叩いても、ビクともしない。

頭の中で警鐘が鳴る。
と同時に、粟立つ肌が嫌悪感をおびき寄せた。

「……んんんっん!!!」

暗いクラブの中の片隅での出来事。
誰もが音楽と酒に夢中で他の客が何してようと気にしちゃいない。

やだ

やだ

こんなのやだ!!!

逃げたくて仕方ないのに、過度なアルコールが力を奪う。

清四郎…………!

またしても同じ男の名を胸の中で叫び、悠理はようやくその時気付いたのだ。

あたい……………バカだ。
バカ過ぎる!
あたいはずっと………あいつのことが………

他の男の腕に抱かれ、唇を奪われ、逃げることも出来ない。
そんな中での後悔が冷たい涙を誘った。

早太もその涙に気付いていたが、惚れた女の唇を離したくなかった。
甘い酒のフレーバーに酔いしれ、華奢な腰の感覚に欲情する。
触れたままの状況下で、「好きだ。抱きたい。」と言ったのも、今このチャンスを逃すわけにいかなかったから。
混乱し、腰の立たない悠理へ、男の本能を剥き出しにさせる。

「や…………そぅ……た。やだ………」

「安心しろ。めちゃくちゃ大事にするから。俺しか見えないようにしてやるから。」

悠理は後悔の坩堝にいた。
心が今にも崩れそうになる。
酒に酔い、早太の言葉に酔い、初めて気付いた恋心に酔った。

「悠理…………行くぞ?」

涙を軽く吸われ、ふらつく身体を抱いたまま椅子から下ろされる。

店の外はネオンの洪水。
まだまだ人の往来は多く、流れるタクシーのテールランプが目に染みる。
新月なのだろう。
空を見上げても月は見えない。

その時悠理は進むべき道を見つけられずにいた。
夜の深さに惑わされていたのだ。