しんしんと降り積もる、今年二度目の雪。
信州の山奥に建てられたログハウス調の別荘は静かな夜を過ごすのにもってこいで、僕としてはいたく気に入っていた。
トナカイのラグや、北欧から取り寄せたロッキングチェア。
お気に入りのグラスを並べたエレガントなキュリオケースも、全て自分の趣味が詰め込まれている。
暖炉の薪が弾ける音も心地よく、読書をしていると、つい時間を忘れてしまう穏やかな空間。
横を見れば、二人掛けのソファに猫のように丸まる妻。
寝室で眠ればいいと伝えたのに、彼女は頑として此処を離れなかった。
確かに一人で眠るには気温が下がりすぎている。
暖房を効かせたとて、人肌は恋しいだろう。
車一台買えるほどの毛布を無造作に被りながら、すやすやと寝息を立てる姿はまるであの頃と変わらない。
そう。
僕たちの始まりとなった十年前の冬。
あの日もこんなコテージで、二人きりの夜を過ごしていた。
十年前の冬、六人は無事大学部に進学し、それぞれがより一層活躍、楽しんでいた。
次々と恋の花を咲かせる可憐。
何度ダメになっても次へと立ち向かうパワーは尊敬に値する。
実際、恋をすればするほど美しくなっていたし、まさしく大輪の花を咲かせたように男共を魅了していた。
美童は自らモデルをする傍ら、モデル事務所の経営も手伝う。
人脈を活かし、各国から選りすぐりの美人を登録させ、鍛えていた。
彼の口説き方は僕としても見事だと思う。
魅録は相変わらず自由で、知り合いの探偵事務所で助手をしたり、何かと忙しい日々。
彼が持つ機械技術は相当なものだから特許を取得すればいいのに、と進言するも、どうやら興味は湧かないようだった。
野梨子は次々に舞い込む見合い話に辟易しながらも、いつも通りお稽古事に勤しむ。
母である家元の跡を継ぐべく、精進しているといったところだ。
相変わらず男女交際に興味はなく、暇さえあれば僕を囲碁に誘ってきた。
やたら強くなっていて、おもしろくない。
そして悠理。
夏を過ぎたあたりからか、僕は彼女の些細な表情から目が離せなくなっていた。
時折、ぼーっと外を眺め、深い溜息を吐く。
大学の講義が難しすぎるからだろうか?
それとも課題のレポートが多いから?
高校時代よりもずっと憂鬱そうな顔で日々を過ごす彼女は決して幸せそうに見えなかったのだ。
だからその年の冬。
いつものメンバーを誘い、うち(菊正宗)が所有する信州の別荘へとやってきた。
みっちり二週間、極上の雪でスキーを楽しもうとして。
悠理は屈託無く笑い、いつものようにはしゃぎだし、僕たちもまたその渦に巻き込まれていった。
心から楽しいと思える時間だった。
しかし四日を過ぎた頃────
美童の祖母が入院したと連絡が入り、彼は慌てて飛行機を予約。
急遽、見舞いへと飛び立った。
翌日、軽い心筋梗塞と報告が来た為、皆で安堵し、春になればスウェーデンに行こうと旅計画を練り始めていたのだが………その夜、不運なことに可憐の母が初心者マークを付けたドライバーにぶつけられ足を骨折。
母一人子一人の彼女はもちろん直ぐに帰ると言い、魅録の“安全”運転で無事東京まで送り届けられた。
僕と野梨子、そして悠理。
寂しくなったものの、三人で残りの日々を楽しもうとする。
特に運動音痴な野梨子は少しでも上達しようと、特訓に食らいついてきていた。
だからこそ、普段使わない筋肉や筋を痛め、結果としてスキー板を履くこともままならなくなってしまい、山荘でぼおっと過ごすだけの日々となったのだが。
「わたくし、東京に帰りますわ。」
そう詰まらなそうに言いだした気持ちも解らなくはなかった。
残り一週間。
僕と悠理の二人きり。
朝早くからスキー場に繰り出し、難易度の高いコースを競うように滑る。
荒々しいシュプールを描く悠理はとにかく楽しそうに笑い、僕の一歩先へ行こうと必死だった。
パウダースノーにピンク色のウェア。
頭にはウサギ耳の帽子。
背中にはお気に入りのリュックが背負われていて、恐らく中身はいつもの如く現金とたっぷりのおやつだろう。
ハタチになってもまだ、幼稚さを残している悠理に、こちらも保護者のような気分にさせられる。
だがこのままでいい。
安穏とした関係で、いつまでも長く………無邪気に遊んでいたい。
しかし、残すところ二日となった夜。
彼女の表情はまたしても憂鬱そうに沈んだ。
夜飯は車で一時間ほど離れた旨いと評判の洋食レストランを選び、そこではたらふく飲み食いし満足していたはずなのに。
暖炉に薪を焼べ、ホットワインを差し出すと、「あんがと。」と小さい声で答える。
風呂上がりの濡れた髪がいつもの悠理でないような、ちょっと大人びた横顔に感じる。
「旅の終わりは、いつも寂しいですね。」
慰めるべくそう告げると、ハッとしたように僕を見上げ、「…………また来りゃいいだろ?」と泣き笑いの変な顔を披露した。
「何か…………他に悩み事でも?」
確信をもって尋ねる。
が、悠理は迷ったように視線を泳がす。
元々、嘘をつけないタイプだ。
僕と違い、根が正直者だから隠すことなど出来ない。
「最近、元気がなかったから……ちょっと気になってたんですよ。」
「え、あたいのこと?」
「そう。」
いつの間に飲みきったのか、ワイングラスを膝の上に置いた悠理は、困ったように首を振る。
「……あたいも、わかんないんだ。」
「わからない?」
「……………うん。」
暖炉の熱が二人の体を包む中、もしかしたら冷たいビールの方が良かったかもしれないな、などと考えを巡らせていると………
「おまえのこと、好きかどうか………わかんない。」
他愛ない思考を一瞬で断ち切るほどの衝撃的発言。
悠理はそれを何の予感も与えぬまま口にした。
「…………え?」
目を見開き、彼女の顔を確かめる。
温もりの炎に照らされた凛々しい横顔が、いつもよりずっと女らしく見え、思わず目を擦った。
「………あたい、清四郎のこと苦手だって思ってたし、おまえもあたいをオモチャ扱いしてるだけだし……ほんとはきっと、こんな関係のままでいいんだと思う。だけど…………」
口ごもる悠理。
舌の上に乗ったほろ苦いワインが、じわじわ新しい酔いを連れてくる。
何が言いたい?
何が聞きたい?
僕は荒れ始める心の在処を分からずにいた。
「それでも…………清四郎に恋人出来んの………あたい、やなんだ。」
しっとりと濡れた女の目がこちらを見つめてくる。
真実を暴くような責め立てるような、力強い光を帯びた視線。
「こ……いびと、ですか。」
「告白、されたんだよな?年上の女に…………」
それは確かに悠理の言う通りだった。
同じ学部に在籍している一歳上の才女。
ゼミに誘われてからというもの、急激に距離は近くなっていて、その日も教授の部屋の後片付けを二人で行っていた。
恐らくは確信犯だったのだろう。
窓とカーテンを閉めていた僕の背中へ、ぶつかるように抱きついてきた彼女は囁くように想いを告げた。
「…………好き、なの。」
こちらとて馬鹿ではない。
好意かそうでないかは、少し前から気が付いていた。
透けて見える思惑さえも。
「気持ちは有り難いのですが、………僕は恋愛向きではありませんよ?今のところ結婚も考えていませんし。」
ハッキリ告げることは相手の為にもなる。
もちろん自分自身の為でもあるが。
どちらにせよ、彼女の気持ちは受け取れない。
そう伝えたつもりだ。
それでも─────
仮に心動くことを期待されてしまい、デートの約束をした。
きっとその噂が流れ、悠理の耳に届いたのだろう。
「………彼女と交際するつもりはありませんよ。」
「そなの?」
「ええ………。僕のようなタイプと上手くいきそうにない性格の持ち主なので。」
「………ふーん。」
急速に安堵の色が広がる。
憂鬱な表情の理由が自分にあったのだと感じれば、申し訳ない気持ちになってくるが、それ以上に────
「………で?おまえはどう思ってるんです?」
「え?……………えと………」
「僕に恋人が出来るとイヤなんですよね?」
「………そだよ。」
ワクワクする。
それは今までに感じたことのない高揚だった。
逃げ腰な悠理を追いつめる愉しさ。
彼女自身、自分の気持ちに追いついていないのだろう。
僕への想いに戸惑い、認めたくないのに認めざるを得ない状況に困惑している。
何と例えれば良いのかわからないが、僕の中にある種の達成感が広がった。
悠理の想いを知り、その現実に喜ぶ自分が居る。
それは他の誰に告白されても心動かなかった男の明らかなる変化だったのだ。
悠理の赤い頬を指先でつつく。
照れながら怒る、素直じゃない彼女が、それでもされるがままになっている。
可愛いと思った。
今のままの悠理を抱きしめたいとすら感じた。
きっと逃げられるだろうから……行動には移せないけれど。
「ご安心を。しばらくの間、僕は“このオモチャ”に夢中だと思うので。」
「むむっ。しばらく?」
「そう。暫くはこのままで。………けれど、そうですね。一年後にはまた別の楽しみ方を提供してもらわないと、さすがに困りますが。」
「な、なんだよ、それ?」
分かっているのかいないのか。
だが一応赤面して見せるのだから、予想くらいついているのかもしれない。
まさか恋愛と程遠かった者同士がこんな遣り取りをしているなど、他の四人は想像もしていないだろう。
僕自身、このような展開を期待していたわけではないのだし。
その夜、二人の関係は明らかに変わった。
だが行動には表せない。
ワイン三本を空け、チーズとクラッカーをかじり、時折彼女の髪に触れ、からかう。
こんなにも優しい気分になったのは生まれて初めてだった。
こんなにも悠理に愛しさを感じたことも。
安心しきったその寝顔を一生見続けていたいと願ったことも…………