祝福の日

卒業式当日────
いつもより早く登校した悠理は、思い出深い部室へと足を踏み入れていた。
笑い、怒り、泣き、そして楽しんだ四年間………。
蓄積された多くの記憶が、瞼の裏に蘇ってくる。

「楽しかったな………。」

有閑倶楽部の歴史が詰まった此処に、もう帰って来ることはないけれど、だからこそ全てを身体に、そして目に焼き付けておきたかった。

清四郎の趣味が詰まった本棚。
お気に入りの食器を揃えていたキュリオケース。
六人が毎日囲んだテーブルとイス。
小さなキッチンからはいつも薫り高い紅茶が差し出されてた。

皆は制服を脱ぎ、新たなステージへと踏み出す。
特に何が変わるわけでもない関係だが、取り留めのない感傷が悠理を襲い、思わず涙腺が緩んだ。

「何、泣いてんです?」

背後から響く清四郎の声にも振り向けず、睨みつけるように前を向く。
言わずとも分かってくれるのが、この男の良いところ。

少しの沈黙の後、小さな吐息が悠理の耳を掠め、胸が高鳴った。
大きな手に覆われる肩は震えていたかもしれない。

「楽しかったですね。」

「………ん。」

「これからも………楽しめますよ?」

「………わぁってる。」

「さて、答えは用意できましたか?」

「……………。」

答え────

それは悠理に課せられた大きな課題だった。

一ヶ月前の、まだ肌寒いその日。
彼の隠されていた想いを唐突に聞かされ、ひっくり返るほど驚いた事は記憶に新しい。

「す、す、す、好き!?」

「ええ。悠理が好きです。大学に進んだら、交際してほしいと願ってます。」

天と地が入れ替わっても、この男だけはこんな台詞を吐かないと思っていただけに、その衝撃は計り知れない。
悠理は目を白黒させ、抜けた腰を木製の椅子に預けた。
たった二人きりの部室。
沈黙が広がる。

清四郎があたいを好き?
交際したいって??
何の冗談?
いや、罰ゲーム!?
それとも………ただ単にからかって楽しんでるのか?

膨らむ猜疑心の理由は数多くの経験から。
ころっと騙されてきた悠理だからこそ、そう簡単に信じられないのも無理はなかった。

清四郎は指を組み、肘をテーブルに付けたまま、いつもの穏やかな表情で見つめてくる。
特に───変化は見られない。
滅多なことで崩れないと知ってはいるが、こんな時くらい照れて欲しかった。
動揺しているのは自分ばかりで恥ずかしくなる。

結局、悠理はこの発言を嘘か冗談だと断定し、「こ、こんなの、たちが悪いぞ!」と憤ったのだが、「何故?僕は本気ですよ?」とこれまたしれっと言い返してきて、余計パニックに陥り、気付けば「んなの無理!!!」と叫んでしまっていた。

またしても沈黙。
たっぷり60秒はあったと思う。

「そう、ですか。………僕は諦めるしかないということですね。」

「え?あ………うん……」

「では深く傷ついた心を慰める為、これからは美童のように恋人を作るとしましょう。たくさんデートを重ね、おまえを忘れる努力をしますよ。………きっと忙しくなるので、皆とはもう遊べなくなるかもしれませんが。」

「え??」

少々演技臭かったが、その内容はあまりに想定外。
悠理はどういうことだ、と目を剥いた。

「トラブルがあっても簡単に助けてやれません。もちろん勉強の面倒もね。…………僕の全ては恋人のものになりますから。」

「そ、そりゃ………そだけど…………な、なんでそんないきなり……別に今まで通りでもいいじゃんか。」

「無理です。」

冷たい断言は悠理の脳をカチンと弾いた。

清四郎が────居なくなる?
仲間から飛び出しちゃうって事?
それに他の女と付き合うって…………何で?
あたいのことが好きって言ったよな?
………美童みたいに遊び相手を探すって意味?
どうしよう。
清四郎が離れてく。
困る、困るよ………
すごく困るよ。

それはひどく打算的な思考だったかもしれない。
清四郎の想いに戸惑いながらも、離したくないと心は叫ぶ。
自分以外の誰かに時間を割いてほしくないと思う。
今まで通り、六人の司令塔で居て欲しいと願う。

そんなわがままなほどストレートな欲求は、悠理の体をいち早く突き動かした。

「やだっ!!」

抜けていたはずの腰を起こし、立ち上がる。

「何故?」

「やだったらやだ!」

「相変わらず、わがままですねぇ。僕の気持ちを理解しようとしてくれないんですか?失恋相手の側になんて、いくら僕でも平気な顔では居られませんよ。」

「でもヤなんだ!おまえにどっか行かれちゃら………あたい、困るんもん。寂しいんだもん!!」

それは一方的な言い分で、悠理自身あり得ないと解っていた。
だけど必死になってしまう。
こんなにも焦った記憶は、口が災いしてかけられたギロチン以来だ。

「……………では、僕と付き合う?」

「そ、それは…………」

付き合う………って何だ?
恋人になる?
清四郎と?
なんか………飼い主と犬のイメージしか湧かないんだけど。

混乱に続く混乱で硬直してしまった悠理を、清四郎は結局、ため息とともに受け入れた。

「わかりました。僕も答えを急ぎすぎましたね。では……卒業式当日、おまえの気持ちを聞かせてください。」

「卒業式…………」

「一ヶ月もあれば、心の整理もつくでしょう?」

つく、かな?
とは言えず、ただ頷くに留める。
自分自身、今この場で即答出来るような内容ではないと解っていたから。

そうして──
何気なく過ぎる日常の中、悠理は考えた。
とはいえど、清四郎の態度は告白する前とあまり変わらない為、それほど困ることはなかった。

二月半ば。
学園はバレンタインデーで賑わい、高校生活最後ともなると、恐ろしい数のチョコレートが部室を占領した。
悠理はもちろんほくほく顔で、大量の戦利品を持ち帰る。
今回は美童を抜いて堂々の一位だったことも喜びを増幅させた。

しかし気になった点が一つ。
清四郎宛のチョコレートの数が、例年より三倍ほど多かったことである。
卒業を控えているからか、今まで密かに思い続けてきた生徒が、ここぞとばかりに踏み切ったのだろう。
紙袋二つ分の貢ぎ物を、清四郎は顔色一つ変えず持ち帰った。

そして夜、悠理は自分のチョコレートの中に紛れ込んでいた、清四郎宛てのものを見つけ、衝撃を受ける。
それには熱烈なラブレターが添えられてあった。

───ずっと、ずっと、お慕いしておりました。(中略)一度だけでも学園の外でお会いして頂けませんか?私に思い出を下さい───

ガーン………
男にしかモテないと思っていたのに、こんなにも情熱的な告白をされるだなんて、知らなかった。

悠理はショックのあまり、手紙を握りしめてしまった。

この調子だと───
もし自分が彼を振ってしまえば、清四郎は大学で入れ食い状態間違いなしだろう。
宣言通り、美童のように恋人をはべらせ、仲間から遠ざかってしまうかもしれない。

想像しただけで泣きそうになった。
呼んでも来てくれないなんて、あんまりだと思った。

清四郎の隣に女。
野梨子なら許せるのに……他の女は吐き気がするほどムカついた。

なんでこんなに執着してるんだ?あたい。

仲間は仲間だ。
魅録も美童も、可憐も野梨子も、皆同列だったはずなのに………
今、清四郎だけが特別な場所にいるような気がして、心が焦る。

告白されたから?

男に好きと言われたことは過去一度もない。
だから知らぬ内に、舞い上がっているのかもしれなかった。

でも他のヤツなら一刀両断、きっぱり断っておしまいだ。

清四郎は友達だから───
心底頼りにしてきた男だから───
離れていくのは本当に困る。

もう一度ラブレターを広げる。
丁寧で美しい文字は、きっと言葉や容姿にも表れていると、悠理は確信していた。

皺をきちんと伸ばし、元通りチョコレートの包装紙に挟む。
本当は清四郎に返したくない。
こんな真摯な想いを届けたくない。

悠理は自分の気持ちを単なるわがままだと捉えていた。
それはもうすっかり───独占欲という形を成していることに、彼女は気付いていなかったのだ。

次の日。
おそるおそる返品したそれを、清四郎は「どうも」と無表情で受け取った。
胸が痛かった。
手紙に気付くのは時間の問題だと思った。
だからこそ、焦りを感じた口は勝手に余計なことを言ってしまったのだ。

「彼女、おまえのこと大好きなんだってさ!きっとチョコレートも手作りだぞ?」

その瞬間、開いた口を後悔するほど、清四郎は鋭い目で悠理を睨んだ。

「…………あっ…………あの、えと………」

「…………聞かなかったことにします。」

それ以上は話せなくて、悠理は自分を地中深くまで埋めたくなった。

なんて馬鹿なことを言ったんだろう。
清四郎はきっと傷ついたに違いない。
彼の怒りは、ただ単に手紙を盗み読みし、それを口外したからというわけじゃないのだ。

悠理は無神経な自分を殴りたくなった。
いくら馬鹿でもこれは酷いと思った。

清四郎が席を立った後、一筋の涙がこぼれ落ちる。

もう充分だろ?悠理。
おまえは”出すべき答え“を知ってるんだろう?

それからは登校日が少なくなり、顔を合わせる機会も減ってしまった。
胸はじくじくと痛んだまま。
静かな夜は悶絶するほどの後悔を感じた。

そして卒業式の今日────

久々の学園は清々しい朝の空気に包まれていた。
部室はもぬけの殻だが、生徒会六人の気取った写真が壁に飾られていて、少しくすぐったく感じる。

悠理は決意を伝えようと、まずは一つ深呼吸し、肩に置かれた清四郎の手に自分のものを重ねた。

「…………うん。」

そう言って、清四郎を振り向く。
絡み合う視線。
久しぶりに真っ直ぐ、彼の顔を見たような気がした。
そしてその表情は、長い付き合いの中初めて見るもので───
まるで少年のように幼く、不安げな面もちで清四郎はごくっと唾を飲み込んだ。
悠理はまたしても涙がでそうになる。

────あぁ、清四郎。やっと本当のおまえが見えた気がするよ。
言葉にしなくても解る気持ちってあるんだな。おまえはあたいを…………本気で好きなんだ。
んでもって、あたいも…………

「…………楽しみだよな。」

「え?」

「卒業したら春休みだろ?皆でめいっぱい遊んで、旅行もして、買い物して……また変なトラブルに巻き込まれて………きっと楽しいよな?」

「はぁ………」

気の抜けた返事しかできない清四郎の戸惑いがよくわかる。
悠理は覚悟を決め、彼の胸にそっと身を近付けた。

「あたいは…………おまえから離れたくない。離れて欲しくもない。一ヶ月間、その理由を自分なりに必死で考えたよ。」

「悠理…………」

「他の女にくれてやるには…………惜しい男なんだよ、おまえは。………だから、だから………付き合おう?」

「それは────それは、僕を好きだということですか?」

ストレートな言葉はさすがに恥ずかしいが、彼が求める意味も理解出来るため、悠理は敢えてこくんと頷いた。

「そ、そだよ。」

その直後。
空気を震わせるような歓喜が伝わってくる。
拳二つ分の距離がゼロになったと気付いたのは、清四郎の腕の中に閉じ込められてからのこと。

「わっ!な、なんだ?」

「悠理───悠理─────」

切ないまでの声に身体の芯が痺れる。

あぁ、これでいいんだ。
清四郎はもう、あたいのもの。
あんな辛い思いをしなくても済む。

悠理は逃げることなく、彼の暖かい腕に身を預けた。
全てを知る部室に優しく見送られながら。

その後…………

無事卒業式は終わり、仲間たちと合流した悠理は、多くの下級生たちに揉みくちゃにされていた。
制服のボタンは、慕ってくる女生徒達の手で、半ば強引にむしり取られる。
赤くて細いリボンもどこへやら。
すでに見あたらなかった。

「そろそろ謝恩会の会場へ向かいますよ。」

「お、そうだな。」

魅録をはじめ、可憐と野梨子は校門前のロータリーにハイヤーを呼び寄せ、既に乗り込もうとしている。
美童だけはなかなか解放してくれない女の子に愛想を振りまいていたが。

「悠理さまぁ!」

悲しげに見送る後輩達を笑顔で振り切る悠理。ちょっと躊躇った後、清四郎の腕に自分のものを絡ませると、途端に聞こえてくる阿鼻叫喚の叫声。

「「いやぁーー!悠理さまぁ!!」」

「んじゃあな!」

誰もが予期しなかった展開に、騒ぎが一段と大きくなった。
歩き始めた悠理はくすくすと笑う。

「えらく大胆ですな。」

「最後ぐらいいいだろ?」

「もちろん。悪くありません。」

これは牽制だ。
清四郎に恋する下級生への警告でもある。

まさか自分がこんな大胆なことをするだなんて───

想像もしていなかった悠理だが、それもこれも清四郎を取られたくないと願う気持ちの表れなんだと感じ、生まれたばかりの恋心にまたしても新たな発見を見いだす。

「清四郎。」

ロータリーまでのあと僅か。
悠理はかねてからの疑問をぶつけた。

「おまえ、あたいのこといつから好きだったんだ?」

「中等部からですよ。」

「え!?」

「たぶん、ね。でもはっきりしません。気持ちに気付いたのはここ最近ですから。本当はもっと前からかもしれませんし───」

「ふーーん。」

いつになく素直な清四郎にニヤニヤが止まらない。
だらしない笑顔を晒していると、清四郎はふと足を止め、悠理を見下ろしてきた。
気付けば学園の校門をくぐり抜けていて、本当に卒業してしまったのだと感じ入る。

「どったの?」

悠理は清四郎を見上げたまま尋ねた。

「これでようやく、“品行方正な元生徒会長”の看板を下ろすことが出来ます。」

「え?」

一瞬の隙をついたキス。
絡めたままの腕が今度は腰に回され、悠理は逃げられない。
柔らかな感触が静かに、そして強引に押しつけられ、目を瞠ってしまう。

たった数秒。
でも永遠に感じる数秒。

名残惜しげに離れた唇は、悠理の唾液に濡れていた。

「………て、手ぇ早いぞ?」

「随分と待ちましたから。」

「……………むっつりめ。」

今更な台詞を吐き、しかし今度は自らゆっくりと目を閉じる。
再び重なり合えば、僅かな喧噪も聞こえない。
ただ二人の鼓動が、ドクドクと音を立てるだけ。

こうして彼らは、新たなステージへとその一歩を踏み出した。

吹き抜ける風は、卒業を祝うかのように優しい温度で二人を包み込む。

きっとこれからも、永遠に幸せなんだと───風は歌うように去っていった。