朝、目覚ましが鳴る直前、瞼を開ける。
六時にセットされたはずのその音を、ここ数年聞いたことはない。
もはや存在自体必要ないのかもしれないが、長年の習慣で設定したままとなっている。
彼女の眠りを邪魔しないようそっと起き上がり、アラームを解除。
サイドテーブルからいつもの腕時計を手に取ると、体内時計までもがカチコチと動き出した。
体調は万全。
さあ、今日も一日が始まる。
スケジュール全般を秘書に任せているとはいえ、一度聞いた事を忘れない僕は、ざっと予定を振り返り、時間配分を頭に浮かべる。
昼休憩は30分。
いつもより10分、長くとれるな。
夜は会長と義兄の三人で、とある集まりに顔を出す為、きっと遅くなる。
となるとやはり、昼休みしかないだろう。
取り出した携帯電話でメールを打ち、素早く送信する。
美容に気を遣う彼女が、寝坊しているとは思えない。
恐らくは今頃、朝ヨガに精を出しているはずだ。
案の定、返信は速かった。
────OK.とっておきのサンドウィッチ用意して待ってるわ♡
早朝から美女にこんなメッセージを貰えれば、普通の男なら一日が薔薇色に染まること間違いなしだろう。
しかし残念なことに、僕にとっての彼女は友人の枠から一ミリたりともはみ出さない。
昔からずっと。
これからももちろん。
「………ん…………せぇしろ?」
まさか野生の勘が働いたとでもいうのか?
結婚してからこちら、女の気配にはひときわその特殊能力を見せつける妻。
僕は慌てて頭を撫で、彼女を安らかな眠りへ誘おうとした。
「まだ寝ていなさい。今日は昼からイベントがあるんでしょう?」
「………あ~、ん~、そだった。おまえはもう出るの?」
「ええ、そろそろ。朝飯を軽めに用意して貰ってますから。」
「ん。しっかり食えよ………ふぁあ………おやす………み。」
「おやすみ。また夜に───」
呆れるほど素直に眠りへと落ちていく。
少々寂しく感じるも、その頬にキスをした僕は、肌に馴染んだガウンを羽織り、バスルームへと向かう。
熱めのシャワーが夕べ付けられた背中の傷にしみたが、これも男の勲章というべきか。
妻に刻まれた印ならば、いつまでも消えなくていい。
そんなことを思い、僕はほくそ笑んだ。
豪華絢爛なダイニングルームへ向かうと、いつも早起きな義父母の姿が見あたらない。
義父は畑かもしれないが、義母は必ずといっていいほど優雅に、ローズヒップのお茶を飲んでいるはずなのに。
「奥様は既に出掛けられました。パリのお友達に呼ばれたからと仰って。」
「そう、ですか。」
相変わらずの行動力。
義父の機嫌が悪くないことを祈る。
「若旦那様、お飲物はどのように?」
「ん~、今朝はエスプレッソで。」
「かしこまりました。」
優秀なメイドはとっておきの珈琲豆でそれを用意してくれた。
薫り高く、そして健全な朝に相応しい一杯。
体中に力が漲ってくる。
焼きたてのクロワッサンとフルーツサラダを食し、ダイニングを後にすると、ちょうどのタイミングで義父が廊下を歩いてきた。
首にはタオル、腹巻きと軍手。
いつもの見慣れたスタイルだ。
「おはようございます。お先にご飯頂きました。」
「あぁ……清四郎君、おはよう………」
声に張りがない。やはり落ち込んでいるらしいな。
「お気持ちは察しますが、追いかけるにしても、明日以降でお願いしますね。」
「………わかっただ。」
「ではお先に。」
年老いてなお、仲の良い二人。
義母はそんな義父の愛情を知りながらも、奔放に振る舞う。
どんな我が侭も叶う、世界一の女性。
こんな女性が育てた悠理なのだから、規格外は当然のことかもしれない。
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「御昼食は?」
「いや………今日は外で済ませます。車だけ用意してください。」
「かしこまりました。」
有能な秘書は僕より五つ年上の元ラガーマン。
体育会系の彼は全てに関してメリハリが利いていて、居心地がいい。
厚みある身体にスーツを纏えば、ボディガードにしか見えないものの、それはそれでむしろ好都合だった。
「一時からTDI産業の取締役との約束がありますので、必ずお戻りください。」
「わかりました。」
そう言って直ぐに車の手配をした彼は、自らの昼休みの為、退室した。
恐らくはいつもの社員食堂。
大盛りのカツ丼をものの五分で平らげるに違いない。
可憐の店までおよそ10分。
彼女は大学卒業後、世界を股に駆ける宝石の凄腕バイヤーに変身していた。
母親とは違いデザインも手がける上、石の目利きも相当なものである。
何かあるごとにジュエリーアキを利用させて貰っているが、どんなVIPに紹介しても大満足してもらえる店へと上り詰めていた。
「お疲れさま。」
「済みませんね。わがままを言って。」
「いいのよ。まだ何も食べてないんでしょ?軽く用意したからどうぞ。」
プライベートなリビングに通され、ご自慢のサンドウィッチを頬張る。
サイドメニューのフルーツサラダもさすが、絶品だった。
「あんたたち、もう十年も経つのねぇ。」
「そう言う可憐は七年ですか。」
「そ。あっという間だわ。」
「魅録は確か………」
「ええ、今は南米にいるらしいの。美童と一緒にね。」
「世界を駆け巡る私立探偵とやらも、なかなか面倒ですな。」
淹れ立ての珈琲を啜り、息を吐く。
真向かいにあるソファに腰掛けた可憐は、「何が楽しいのかしらね」と微笑みながら、僕が注文していた品をテーブルの上に置いた。
「はい。ご要望通りだと思うんだけど、確認して。」
「ありがとう。」
小さな箱を開けると、そこには目映いばかりのイエローダイヤモンド。
小振りながらも本物の輝きを持つそれは、悠理の指にさぞや似合うことだろう。
「スイートテンダイヤモンドなんて、今時の男達は考えてもいないでしょうね。あの子、ほんとに幸せだわ。」
「そうですかね?」
「あんたにしてはすごく気が利いてると思うけど?」
しかし僕は、可憐の言葉に素直に喜べない理由があった。
この贈り物を妻に渡そうと思い至ったのは、義母の指に燦然と輝く、世界最高品質と言われるエメラルドを見たからだ。
「見事ですね。」
「ふふ。万作さんはたまにこういう贈り物をしてくれるのよ。これは結婚25周年のお祝いですって。」
「見かけによらず、マメな人だ。」
「清四郎ちゃんも覚えておいてね。プレゼントを喜ばない女は居ないんだから。」
その言葉を聞いたとき、気付いたのだ。
────僕は、悠理にまともなプレゼントをあげたことがない、と。
彼女は欲しい物を躊躇わず買ってくる為、不自由に思うことがない。
人に強請るといえば、買い食いの時くらいだろう。
僕が彼女に買い与えたのは、最新型GPS携帯と、ごく一般的な結婚指輪くらいか。
そう思い至れば、なんとも薄情な夫に感じる。
結婚十周年。
これも節目だ。
そう思い可憐に相談したところ、定番の指輪を勧められたのだ。
約三ヶ月かけて探し、取り寄せたイエローダイアモンド。
プラチナ台に飾られたその宝石は確かに美しく、神秘的な光を放っている。
悠理の華奢な指に似合う最適な大きさで、デザインも至ってシンプル。
可憐が持つセンスの良さが窺えた。
「おっと。もうこんな時間か。可憐、御馳走様でした。指輪をありがとう。」
「喜んでくれると良いわね。」
「ええ。」
・
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・
その夜────
帰宅したのは11時過ぎ。
恐らくは、イベントに参加して疲れ果てているだろう妻を起こさぬ為、大浴場で身体を清め、パジャマにバスローブを羽織る。
───指輪は明日渡そうか。
一旦そう思ったものの、やはりいち早く彼女の指に飾られているところが見たいと感じ、寝室へ向かう。
───どんな顔をするだろう。
緊張と期待、そして不安が交差する中、じわり、背中が熱くなる。
我ながら可愛い部分もあったのだな、と発見するが、それもこれも美童のように女性への気遣いが足りていなかった所為だ、と反省もする。
悠理は他の女と違い、強請る必要もない環境だから不満に思ってこなかったのだろう。
────いや………違うな。
元々、そんな感覚が欠如してるんだ。
そこがまた幼く、愛おしい。
息を殺しながらそっと扉を開けると、僕の予想に反し、悠理はパッチリと目を開けており、こちらを睨みつけるよう射抜いた。ベッドの上で胡座をかきながら、口元はへの時。
────明かに不機嫌な様子だ。何かあったか?
「ただいま、悠理。」
「……………おかえり。」
「寝入っているものだと思ってましたよ。」
「……………。」
「ん?どうした?」
これは指輪を渡すタイミングではないなと思った僕は、まず彼女の側に腰掛け、不機嫌の要因を探ろうとした。
二十歳で結婚し、ようやく十年。
惚れ合って結ばれたけれど、互いの性格に欠点があることくらい重々わかっている。
喧嘩もよくした。
たまにではあるが、離婚騒ぎにまで発展したこともある。
しかしどれほど言い争っても、お互いの心に耳を貸せば、それは愛情から生まれた何かで………二人は決して別れられないのだと認識させられた。
だからこういう時は、まず話を聞く。
どんな不平不満も必ず受け止める、と僕は決めていた。
「お昼…………」
「昼?」
「可憐ん家から出てきたよな?」
なるほど───
イベントへ出かける前に通りすがったのか。
「ええ。約束がありまして………」
「嬉しそうな顔だったよな?」
嬉しそうな顔?
────まさかそんなにも、にやけていたのか?
自覚がなかったことで、より気恥ずかしさが立ち上る。
「それはですね………」
「可憐と────浮気してんの?」
「は??」
あまりにも短絡的なその発想。
しかし悠理のことだ。
この半日、ずっと頭を悩ませてきたに違いない。
「可憐のこと………好きになっちゃったのか? 」
不安な目を隠そうともせず、僕を見上げてくる妻。
愚かで単純。
昔から変わらぬシンプルな思考回路。
変わったことと言えば、僕への愛情が女の“それ”になっただけ。
「相変わらず、馬鹿ですね。」
「むっ!!だってあたい、おまえのあんな顔、滅多に見ないぞ?」
「そりゃあ、おまえのことをずっと考えていましたから、そんな顔にもなるでしょうよ。」
「─────え?」
さて、そろそろタイミングが整ったかな?
僕はバスローブのポケットから小さな箱を取り出し、そっと開いた。
「手を出して。」
「…………これ………」
プラチナリングに添わせる形で、新しい指輪をゆっくりと重ねる。
さすがは可憐。
いいデザインだ。
「悠理。」
「え?あ、はい。」
「十年間、僕の妻で居てくれてありがとう。」
「せぇしろ…………」
「僕は気の利いた男ではないし、不安にさせることも多かったかもしれない。でもこれからもおまえ一筋で生きていくから、ずっと変わらず───側に居てください。」
悠理の瞳が、見る見る内に涙で覆われてゆく。
有り得ない嫉妬で胸が痛んでたのだろう。
感情の起伏が激しい彼女の喜びが、手に取るように分かった。
「あったりまえだろ!ずっといる!死んでも一緒にいるぅ!!!」
「それは嬉しいな。…………男冥利に尽きますよ。」
飛び込んできた妻の身体を抱きしめ、十年という長さを思い知る。
友人であった時よりも、数倍に膨れ上がった存在の尊さ。
離すわけがない。
離せるはずがない。
魂ごと愛せる人間は、僕にとって悠理しかいないのだ。
これからもずっと────
ダイヤモンドより価値のある女を、愛し続ける。
そんな証を、この指輪に込めて…………