二度目の恋

※清悠ではありません。野梨子の恋話。


 

二度目の恋は大学二年の春に訪れた。
ロサンゼルスからやって来た一人の客員教授。
チャイニーズアメリカンの彼は考古学の専門家で、大学だけに留まらず、メディアや映画界からも引っ張りだこの人物だった。

恐るべきは興味の範囲。
日本、中国の骨董、古美術にも精通しており、相変わらず多趣味な清四郎などは、嬉々として彼と語り合っていた。
刺激を与え合える関係は何よりも貴重だ。

彼…………アルフレッド・ゲイリー・チャンは三十代半ば。
母国には離婚調停中の妻と二人の子がいるらしい。
精悍な見た目は大学生でも通用するが、私は彼の深みあるヘーゼル色の瞳に惹かれた。
孤独を帯びたその瞳───
色こそ違えど、どこか裕也さんの眼差しにも似ている。

彼ほどの有名人ともなると学生たちの人気は相当なものだ。
研究室にはひっきりなしに人が訪れ、学部の違う私は清四郎の付き添いという形でよく出向いていた。
考古学にも僅かながら興味があったし、彼の著作(ベストセラー)を全て読破していたという理由もある。
初対面では、もちろんサインを強請った。

アルフレッドの話術は素晴らしい。
伊達に世界各国で講演を行ってはいない。
語学も堪能ながら、しかし日本語はやはり難しいのだろう。
私や清四郎に“正しい日本語” の教えを請うことも多かった。

「日本の学生はとても勉強熱心だ。君たちは特に。」

「先生ほどの方とお話出来るんですもの。当然ですわ。」

通い始めて一ヶ月を過ぎた頃、私は単独で彼の研究室を訪れるようになっていた。
手作りのお菓子と、おいしいコーヒー豆を持参して。

「ノリコは『良妻賢母』………って日本語がピッタリだね。きっと素敵な家庭を築けるよ。」

「まぁ。」

聡明な彼は、何故か私と清四郎の仲を誤解していたらしく、単なる『幼なじみ』でしかないことを伝えるのは苦労した。

「清四郎には…………別のお相手がいますのよ?」

「へぇ?君以上に素晴らしい女性がいるの?」

「………そんな風に持ち上げないで下さいな。彼女はとても………そう、とてもチャーミングな女性ですわ。」

悠理と清四郎が恋仲になってかれこれ半年。
二人が磁石のようにくっついた時、何とも言えぬ寂寥感が胸を漂ったことは確かだった。
しかし以前とは違い、祝福することに躊躇いはなく、今では人目を憚らぬ熱愛ぶりを見せつける彼らを、心から羨ましいと思っている。
そして誰よりも幸せになって欲しい。
そう願っているのだ。

清四郎を変えたのは悠理。
昔から悠理だけが彼を刺激し続ける存在だった。
私はそんな悠理が羨ましくて、誰よりも頼れる存在を奪われる事に危機意識を持っていた。
しかし、予感はしていたのだ。
いつかはこういう日が来ることを……

────清四郎。貴方は幸せですのね。

悠理に恋した彼がそっと頬を緩ませた時、私は決意した。
もう、彼から離れなくてはならないと。
清四郎から卒業し、新たに心を寄り添わせる殿方を見つけなくてはならないと。
そう静かに決意したのだ。

そんな時、アルフレッドと出会った。
彼は、ものの見事に私の焦りをするすると解いていった。
話術だけではない。
彼が纏う柔らかな空気と、人を思いやる心。
そこに惹かれた。

彼の妻はアメリカでも評判の外科医で、一日20時間は患者のことを考えているらしい。
まだ遊びたい盛りの子供たち。
どちらも多忙ゆえ、二人の教育を半ば放棄する形でチャイルドシッターに全てを委ねていた。
些細な諍いが増えていくのはどうしようもなく、このままでは悪影響しか生み出さないと理解した時、互いに別の人生を歩もうと決断したらしい。

決して………いがみ合った結果ではない。
それぞれがより良い方向へ向かうための手段。

────子供達はおそらく妻が引き取るだろう。

アルフレッドは一言、諦めたように呟いた。視線は哀しみに暮れていて、それが私の心を揺さぶった。

「そりゃ………寂しい時もあるけどね。子供たちにはいつでも会えるよう、取り計らってもらうつもりさ。」

彼の消えるような微笑みには痛みが隠れている。そしてそれは、いつか見た初恋の人と似通っている気がした。

感傷的になったからではない。
母性を擽られたからではない。
彼の側に居たい───心がそう求めたからだ。
私の恋は真っ直ぐに走り出す。
今度こそ成就させたいという願いと共に。

「野梨子!」

溌剌とした声。
太陽の笑顔。
天からの祝福をその一身に浴びたような彼女は、傍らに恋人を携え、大きく手を振った。

「悠理、清四郎───もう講義は終わりましたの?」

「ええ。今日はこの後休講でして、今からこいつの付き合いで、スフレパンケーキとやらを食べに行くんですよ。」

「三段重ねなんだぜ?新鮮なベリーと生クリームがたっくさん乗ったやつ!」

「まあ。私も是非お付き合いしたかったですわ………。残念ながら、諸用でアルフレッドの研究室へ行かなくてはなりませんの。」

この頃になると、清四郎は私の想いに気が付いていた。
特に何かを進言するわけでもなく、温かく見守る兄のような立場に徹してくれていた。
自分の恋に全神経を注いでいるのかもしれないが、とにかく昔のような小言を挟もうとはしなかったのだ。

「そなの?ざーんねん!あたいが野梨子の分も食べてきてやるよ!」

「おまえはいつでも二人分以上食べるでしょうが。」

「へへ。」

可愛い悠理を心から慈しむ清四郎。
こんな表情を引き出せたのは、恋という魔法のなせるワザ。
悠理が想いに応えたからにほかならない。

誰もが羨む二人を、魅録や可憐、そして美童も祝福しているし、清四郎の変貌ぶりを酒のツマミにして楽しむ事も多かった。

私は清四郎を失ったわけではない。
彼は相変わらずかけがえのない幼なじみで、有閑倶楽部のリーダーだ。
異性として見たことはないけれど、彼以上に頼れる男はこの先も現れないと確信している。
たとえ別の人と恋に落ちても───それだけは変わらない。

 

 

「考え事?」

豊かな香りのする珈琲を啜りながら、アルフレッドは上目遣いでこちらを見た。
きっと彼には私の想いが届いているはず。
立場上、イエスともノーとも言えないのだ、と勝手に理解している。

「少し。来週、高崎ゼミの研修旅行に行きますの。山形にあるセミナー施設へ。」

「あぁ。そうだったね。そうか………ノリコの顔が見れないのは寂しいな。」

それは何気ない社交辞令だったかもしれない。
外国人特有のリップサービス。
特に意味を持たない………ただのお世辞。

けれどその言葉に私の心は見事揺さぶられ、堰き止めていた想いが決壊するに充分な効力を放った。

「……アルフレッド。寂しい気持ちは同じですわ。だって私は……貴方に恋をしていますから。」

「ノリコ?」

「お慕いしております………心から。」

じわりじわり
心へと沁みゆくように、わざと丁寧に言い直した。
すると彼の頬が、見る見る内に赤く染まってゆく。外国人は感情が顔色に表れやすいと言うがその通りだと思った。

‎「…………うれしいよ………そんなこと、まさか、って思ってたから。」

「でも、気付いていらっしゃったのでしょう?」

「ただの願望かと………思ってたんだ。君のような大和撫子が…………僕なんかを。」

「アルフレッド………」

彼の手が私の手に優しく触れ、そのまま引き寄せられるように口付けた。

珈琲の香り。
仄かな甘さを含んで。

「ノリコ…………。僕がきちんと離婚したら、交際してほしい。」

「………ええ。私こそ、そう願っていましたの。」

─────アルフレッドのその言葉が嘘だったとは思えない。

しかし二人の約束が叶うことは無かった。

 

離婚手続きのため、一時的にアメリカへと戻った彼は、暫くして一通の手紙を送ってきた。
メールなどではなく、わざわざ手紙を………。

 

“愛しのノリコ──”

冒頭はそんな感じで始まったが、読み進めれば、それは別れの手紙だと直ぐに解る。

“話し合った結果、妻が泣きながらやり直したいと告げてきた。子供たちの為だけでなく、二人の為に。僕はそれに応えようと思う。(中略)ノリコはきっと、もっと素晴らしい出会いが待っているはずだ。その時は祝福のメールを送るよ。これだけは誤解しないでほしい。僕は…………君のことを深く愛していた。”

たとえどれほど美しい言葉でも、それは余りにも一方的な言い分だった。
私はやり切れない思いにとらわれ、側にあったティーカップをはたき落とした。
派手な音を立て割れたお気に入りのカップは、まるで今の自分と同じ。

涙が溢れる。
激しい胸の痛みに呼吸すらままならない。

本気の恋を一方的に断ち切られ、どうして息が出来ると言うのだろう。

 

彼の手を思い出す。
大きく温かな手だった。
包まれたとき、恥ずかしいくらいに胸が高鳴った。
口付けたとき、目眩がするほどうれしかった。
最高に幸せだったあの日。

────もう決して戻ることはないだろう。

 

泣き腫らした顔を父や母には見られたくない。

もちろん清四郎にも。

私が電話した先は、やはり可憐で──
彼女はすぐに「泊まりにいらっしゃい」と自宅へ迎え入れてくれた。

「卑怯者よねぇ?」

「そんな男、忘れちゃいなさい。」

「涙が枯れるまで、ここにいたらいいわ。」

そんな優しい友人に甘え、三日三晩を泣き過ごす。

私の気持ちを汲んで、散々悪態を吐いていた可憐も結局は、「許してあげるのも、女ぶりを上げるいい機会よ。」とレクチャーしてくれた。

枯れることがないと思われた涙。 それもいつしか、悲しい微笑みへと変わっていった。

 

こうして二度目の恋は始まる前に終わりを告げ、季節は無情にも移ろい行く。
失恋の傷は時間が癒すと分かってはいるけれど、ふとした時、彼の声を思い出し、記憶した痛みがぶり返す。

───どうかお幸せに。

祝福の言葉を彼に告げる日は一体いつになるだろう?

その頃にはきっと、懲りもせず新しい恋とやらに落ちているのかもしれない。

彼よりも素敵な誰かと………

幸せな未来を夢見て───