良家の子息子女が通う名門の学園とて、全て白い羊ばかりとは限らない。
中には稀に、黒羊だって存在する。
瀬戸美香子はもしかすると、その黒羊だったのかもしれないが、流石に生まれた時から黒いはずもなく───
それはあくまでも、一つの切っ掛け。
変色するに充分な理由が其処にはあった。
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白く、華奢な指で握りしめたマフラーは、深い緑色をしていた。
「気持ちは有り難いのですが、やはり受け取れません。」
そう言って、彼は綺麗に折り畳んだマフラーを美香子の前に差し出す。
放課後の寂しげな廊下。
冬休みを控えた学生達は部活動もなく、そそくさと家路を急いでいた。
外は木枯らしの吹きそうな予感。
窓をカタカタと揺らす。
「え、でも………」
他の教師は苦笑しながらも、どこか浮かれた様子で受け取ってくれたのに?
美香子には分からない。
拒否される理由が。
確かに清四郎のマフラーには、細やかながらも特別な思い入れがあった。
でもそれは仄かな憧れの一部であり、何も疚しい思いで見返りを求めていたわけではない。
本当は
「ありがとう。大事に使わせてもらうよ。」
その一言と笑顔だけで良かったのに。
しかし彼は、手渡した時も複雑な顔を見せ、決して美香子の望む笑顔など浮かべてくれはしなかった。
それでも渡し終えたことに達成感が宿る。
一編み一編み、心を込めた集大成。
だからまさか、次の日に突き返されるなど、思いも寄らなかったのだ。
────菊正宗清四郎
堅物の数学教師。
しかし女生徒には人気があり、ともすれば男子生徒からも、猛烈なラブ視線を投げられることがあった。
端正な顔立ち、そして解りやすい授業が人気の主たる理由で、だが実の所、彼には隠された何かがあるのでは?と皆が憶測し、その妄想掻き立てられるストイックさこそが本当の理由だと、美香子は感じていた。
「…………面白くない。」
本来の持ち主から返ってきたマフラーを鞄に突っ込み、清四郎が去った方向と真逆へ歩みを進める。
今日は甘いものでも食べて、この行き場のないモヤモヤを発散しなくてはならない。
もちろん下校時の寄り道は禁止だが、今日ばかりは自分に甘くなろう。
美香子はヘの字口で歩き続けた。
そこへ────
「センセ!!」
弾けるような声が廊下に響きわたる。
つい振り返ってしまう、そんな喜びを湛えた明るい声。
美香子がゆっくり振り返ると、遠くには学園唯一の問題児、剣菱悠理の姿が───
下級生とはいえ、彼女の評判は当然、窺い知っている。
しかし果たして、数学教師にあんな笑顔を見せるほど二人は仲が良かっただろうか?
美香子はつい足を止め、成り行きを見つめた。
教室三つ分も離れている為、こちらのことは目に入っていないようだ。
「こら、大声を出さない。」
教師らしい嗜めと、自然な仕草。
頬を緩めた彼は、コツンと剣菱悠理のおでこを小突いた。
「えへへ。あ、そだ!五限目に出された小テスト!結構自信あるんだ。」
「それはそれは。最近特に努力が見えますからね。期待していますよ。」
「うん!」
まるで親に懐く雛のような擦り寄り方。
取っつきにくいと評判の問題児にしては、随分な甘えようではないか。
美香子は眉を顰める。
「あのさ。」
「なんです?」
「センセ、今日残業で遅くなんだろ?夕方から冷えるって聞いたから、これ、使いなよ。」
それは目の覚めるようなオレンジ色のマフラーだった。
あまつさえ、可愛らしいクリスマスツリーのアップリケまで施されている。
これもまた彼女のイメージからかけ離れたチョイスだが、悠理はつま先立ちをすると、慣れた様子で男の首にかけ、ここぞとばかり晴れやかな笑顔を見せた。
「へへ。似合う似合う。」
「…………そう、ですかねぇ?」
苦笑しながらも、決してまんざらではない様子。
こちらも慣れた手つきで、剣菱悠理の頭をくしゃりと掻き回す。
「んじゃ!」
「ありがとう───」
そのほのぼのとした遣り取りは、美香子の矜持を悉く揺るがし、更に猜疑心までをも植え付けた。
───あの二人、一体、どういう関係なの?
教師と生徒………だけではない甘い空気。
不穏な考えに怖気が走る。
────まさか、まさか………ね。
否定したい現実はどう足掻いても拭えず、次から次へと美香子を襲う。
もし想像していることが現実ならば──────
彼女は鞄の取っ手を強く握りしめると、詰めていた息を、細く、長く吐き出した。
白かった羊が徐々に闇色へと変わる切っ掛け。
自分でも気付かなかった想いが、妬みという名に代わり、彼女を埋め尽くす。
憧れのままではいられない。
今や、編み目に込めた想いは澱んだ執着となり、『菊正宗清四郎』を捕らえようとしていた。
他の教師なら、こんな醜い感情は抱かなかっただろう。
他の教師なら、ここまで悔しくは思わなかっただろう。
「あんなの……ちっとも似合わないわ。先生に似合うのは…………」
───私が編んだ、このマフラーだけよ。
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野梨子は帰り支度を済ませ、扉を開けた。
しかし駆け込んで来た問題児とあわやぶつかりそうになり、眉をしかめる。
「おっと、ごめん!」
「気を付けて下さいな。」
「だから、ごめんってば。」
───虫の居所でも悪いのか?
悠理は首を傾げ、窺った。
日本人形と例えられるだけあって、彼女の髪は真っ直ぐの艶サラ。
目鼻立ちはハッキリしていて、特に睫毛が長い。
大人っぽい可憐とはまた違った魅力の野梨子に、同性であれ、思わず見惚れてしまうのも仕方のないことだ。
「帰んの?」
気まずさを取り繕うにしては、詰まらない台詞。
悠理は言ってから、「あちゃ」と後悔する。
「え、ええ。」
野梨子もまた地味に頷く。
想定外の展開が待っているとも知らず。
「あのさ……うちの迎えがそろそろ来るみたいだから、良かったら………乗ってく?」
「え?」
「ほら、夕方から寒くなるって言ってたし………白鹿っていつも徒歩だろ?風邪ひいちゃうじゃん?」
馴れ合うほどの親しさはなくとも、挨拶くらいは交わす仲。
かといえ、こんな誘いを受けるとは……驚きである。
悠理の提案に思案げな表情を浮かべる野梨子だったが、しかし結局は躊躇いを裁ち切り、こくりと頷いた。
「では、お言葉に甘えて。お願い致しますわ。」
「オーケー!」
二学期からこちら、底辺を彷徨っていたはずの成績がぐんぐんと伸び始め、剣菱悠理に一体なにが起きたのか?と皆は目を丸くしている。
その理由を野梨子はうっすらと理解しているが、にしてもここ最近の急成長ぶりには流石に驚かされているのだ。
特に数学と英語はグンを抜いて出来が良く、デタラメだった発音も、比較的聞き取りやすくなってきた。
変われば変わるものだ、と野梨子は思う。
恋とはここまで人を変えるのか。
いや、もしかするとこれこそが菊正宗清四郎の魅力ではないのか?
彼の本気は悠理を良い方向に変化させた。
授業中、詰まらなそうに口笛を吹いていた彼女はもう居ない。
今は真剣に耳を傾け、そしてノートに鉛筆を走らせている。
────留学の話は、本当ですのね。
婚約者である美童からそれとなく聞かされた時、とてもじゃないが無謀な挑戦だろうと思った。
だが夏休み明けの教室には、やる気漲る剣菱悠理の姿があったし、何よりも直後の試験結果があまりにも良かった為、可能性はゼロではないと気付く。
────潜在的な能力が功を奏したのかしら。
やる気がなかった。
勉強の仕方が悪かった。
確固たる目標が出来た。
そんな彼女の底力を押し上げる要素は、間違いなく菊正宗清四郎の存在だ。
教師と生徒の恋など、侮蔑の対象でしか無かったはずなのに、今は応援したくて仕方ない。
これもまた、彼女にとって不思議な変化だった。
野梨子はあれからずっと、悠理の動向を見続けている。
友達になりたいという願いは本心だ。
だがどうしたら距離を縮めることが出来るのか。
聡明な彼女も友人作りは初心者で、なかなかその一歩が踏み出せないでいた。
・
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学園前のロータリーはいつになくひっそりとしていて、 皆、早々に帰宅の途についたことが分かる。
色鮮やかなポプラの葉が、カサカサと足下を通り過ぎていく。
そんな閑散とした場所へ、悪趣味な───しかし黒塗りの立派な送迎車が静かに現れ、下り立った運転手は深々と頭を下げた。
「名輪。悪いけど、白鹿ん家にも寄ってくれる?」
「かしこまりました。」
どんよりとした雲が寒気を連れてきたのか。
吹き抜ける風が益々冷たい。
野梨子はコートの前をしっかりと合わせ、名輪の促しで車に乗り込んだ。
打って変わって、そこは南国のような暖かさ。
ふかふかの革シートもヒーターが入っていて、とても居心地が良い。
「ふぅ・・・・・」
思わず溜息が零れた。
豹柄の、悪目立ちするクッション。
白熊のぬいぐるみが広い車内で無造作に転がっている。
外観とはおおよそかけ離れた内装。
野梨子の視線はなかなか定まらない。
いつの間に出発したのだろう。
静かなエンジン音に気付いた野梨子は、慌てて名輪に声をかけた。
「あ、宜しくお願い致します───うちは○○の通りを少し行った…………」
「存じております。お嬢様のクラスメイトの住所は全て把握しておりますから。」
名輪は被った帽子を少し傾け、誇らしげな表情で笑った。
その意味は一体……?
だが、 この派手な車を乗りこなすだけでも尊敬に値する。
そしてそんな彼は、運転技術も非常に素晴らしかった。
振動を感じさせないスマートなドライブは、ついつい睡魔を呼び寄せてしまう。
最近、夜遅くまで推理小説を読んでいるからかもしれない。
明らかな睡眠不足。
うとうとと船を漕ぎ始める野梨子に、しかし悠理は声をかけようとしなかった。
寝顔を見つめることもなく、ただ流れるように穏やかな時間を彼女に与える。
ぬくもりに包まれた心地よい眠りが訪れ、野梨子はとうとう意識を沈めてしまった。
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五分ほど経った頃だろうか。
「魅録!」
唐突なその叫び声に目が覚める。
見事に熟睡していたらしい。
慌てて 隣を見れば、窓を開け放った悠理が外に向け、大きく手を振っている。
「おーい!乗ってけよ!寒いだろ?」
駆け足で近付いてきた『魅録』は目を疑うほど派手な髪色で、どことなくカミソリのような鋭い雰囲気を醸し出していた。
瞬間、野梨子はビクリと身を竦める。
「いいのか?実はバイクが壊れちまってよ。徒歩で帰るとこだったんだ。助かるぜ。」
彼はひんやりとした空気とともに、騒々しく車へと乗り込んだ。
意外にも高い身長。
細身だが肩幅は広く、かなりの筋肉質だと分かる。
その制服は……確か地元の公立高校のもの。
荒くれ者が多く通う学校だ。
そこまで思い浮かべて、野梨子はゴクンと唾を飲み込んだ。
魅録は目が合うや否や、そのキレのある眼光で彼女を見定める。
「おっと………先客だったか。」
「こいつ、あたいのクラスメイトだよ。白鹿野梨子ってんだ。」
「へぇ、おまえのダチにしちゃ、珍しいタイプだな。俺は魅録。松竹梅魅録だ。宜しく。」
手を差し出され、おずおずと握り返すも、野梨子は言葉が出ない。
彼女の世界には存在しなかった、明らかに異端な人種。
握手を求められた手は微かに震えていた。
「なぁ、魅録。今のバイク、元々中古だろ?新しいの買わないのか?ほら、ヤマハの良い奴出たじゃん!」
「気に入ってんだよ。それにアレに乗ってる時、おまえと知り合ったんじゃねーか。思い出深いからなかなか捨てらんねーよ。」
「そだっけ?」
「覚えてないのか。ちぇ、薄情なヤツ。」
二人の会話から、その関係性は意外と深いと勘付く野梨子。
気心の知れた仲の良さ。
男女の括りには収まらないそれ。
悠理の人間関係は思いの外、複雑だ。
話の内容に全くもってついていけない野梨子を気遣ってか、魅録が改めて話題を振った。
「聖プレジデントの学生って、普通はこんなタイプだよな。おまえが通えてんのは、むしろ奇跡だぜ。」
「ふん。あたいが一番そう思ってらい!でもこの白鹿だって………相当、裏表あるんだぞ?」
チラッと流し目する悠理に、野梨子は目を見開く。
それは清四郎を色仕掛けで試そうとした一件を指していた。
大の大人を試そうなど、普通の女子高生には出来ない芸当だ。
野梨子は思い出したかのように頬を染め、突発的に悠理の太股を抓った。
「イデ!!何すんだ!」
「裏表だなんて。人聞きが悪いですわ!貴女こそ、菊正宗先生の前では可愛い顔をなさるじゃありませんの。」
「ば、バカ!こいつの前で言うなよ!」
慌てる悠理はすっかり乙女モード。
顔が真っ赤に変色している。
そんな様子を見ながら、魅録はしたり顔で顎を撫でた。
「へぇ…………。何もかも知られてんだな。ま、そうでないと、お前から近付いたりしないか。」
納得した魅録は、どうやら野梨子に興味を持ったらしい。
顔を近付け、まじまじと花の顔を見つめる。
「ヒュウ♪ まるで人形だな。本物のお姫様、って感じだ。」
「だろ?うちの学園じゃ、モテモテなんだぜ?」
「おまえと違ってな。」
「ヒトコト余計だ!!」
「こんなに美人じゃ……さすがに俺だってドキドキしちまう。」
魅録は真顔でそう告げた。
好意を寄せられる事に不快感しか抱かなかった野梨子が、その時何故胸が高まったのか。
婚約者には感じない強烈な引力。
不作法な言葉に隠された紛れもない本音。
彼の野生的な瞳には、つい吸い込まれてしまいそうになる。
「お世辞、なんかじゃないぜ?」
魅録はニヤッと笑い、ようやく野梨子から視線を外した。
ドキドキ
ドキドキ
胸を打つ音がやけに五月蠅い。
野梨子は火照る頬に冷えた両手を当て、何度も揉みほぐした。
それが恋の発芽とも知らず。
それが自分を変える切っ掛けになるとも知らず。
張り詰めていた緊張はいつしか解れ、三人は打ち解けた会話を楽しむ。
野梨子の心は弾んでいた。
悠理との距離がまた一歩縮まったことに。
そして新たな関係が生まれそうな予感に………
彼女はわくわくしていたのだ。