夏休みが明ける直前。
五代と共にマンションを訪れた百合子が、唐突にこう告げた。
「そろそろ、うちに帰ってらっしゃい。」
プレ新婚生活を楽しんでいる二人に、突如として訪れた激震。
山盛りの素麺を啜っていた悠理と、甲斐甲斐しく茹で続ける清四郎が目を丸くしたのも当然の事だった。
「な、なに言ってんだよ!母ちゃん!」
悠理は当然憤るが、母は鋭い眼光と共にピシャリと言い放つ。
「お黙りなさい。」
五代がハラハラと見守る中、百合子は眉間に皺を寄せ、ため息と共に言葉を続けた。
「仕方ないでしょう。どこから洩れたのか、貴女の結婚話が一部の下世話なマスコミにリークされたみたいなの。もちろん相手を調べようと躍起になってるわ。だから帰っていらっしゃい。このままだと先生のご迷惑になるのだから。」
「んげっ・・・・マスコミ!?」
それは確かにマズイ。
たとえ親が認めた婚約者とはいえ、今はれっきとした聖プレジデント学園の数学教師。
いずれ辞めるにしても、だ。
スキャンダルだけは未然に防がなくてはならない。
「で、でも・・・あたい先生と・・・」
だからと言ってすぐに納得出来ない悠理は、請うように母を見た。
「解りました。悠理、一度帰りなさい。」
しかし、あっさりと遮られた言葉。
振り向けば清四郎が真剣な面持ちでこちらを見ている。
「えっ?」
「これからは二人きりで会うことも控えた方がいいかもしれない。」
「先生はそれでいいのかよ!」
「仕方ありません。それに学校で会えるでしょう?」
「そ、そんな・・・」
やり取りを聞いていた五代が、そそくさと悠理の荷物を運び出し始めた。
「暫くの我慢です。」
言い切った清四郎を呆然と見つめる悠理。
心が瞬く間に冷え切っていく。
まるで天国から地獄。
春から極寒の冬へと―――。
こうして悠理の気持ちをよそに、二人の甘い蜜月期間は、強制的に終了させられたのだった。
剣菱邸に戻った悠理は、自室のベランダで夜空を見上げていた。
あれから丸三日が経とうとしている。
明日から新学期だというのに、気分は沈んだままだ。
「せんせーのバカ。」
悠理とてマスコミの危険性は良く知っている。
大手は剣菱の圧力がかかっているため、滅多な記事を書かない、というか書けない。
弱小な雑誌社は、猥雑な記事で部数を伸ばそうと躍起になるが、それも金で揉み潰してしまえばいいだけの話。
問題は、玄人崩れの記者によって、ネット新聞や掲示板など、把握することが不可能な数多くのメディアで、むやみやたらとばらまかれる事だった。
金にならないと解れば悪意だけで動く輩は多い。
自分の事を悪く書かれるのはいいが、清四郎にとっては致命的となる。
家族にだって迷惑がかかる。
学園だってパニックに陥るだろう。
前回の不祥事とは違い、隠蔽することが不可能なほどに―――。
そしてこのくらいのこと、清四郎は0.03秒で弾き出したはずだ。
だからこそ百合子の進言に、直ぐさま従ったのだろう。
でも・・・・・
―――少しくらい迷って欲しかった。
さみしがって欲しかった。
‘離れたくない’って抱き締めて欲しかった。
女心とは厄介で、悠理はモヤモヤとした気分で頭を抱える。
まさか自分がこんなにも男に依存する弱い女だとは思いもしなかった。
「勉強どーすんだよ。あたい自信ないぞ?」
小さなぼやきが夜風と共に消えていく。
雲の隙間から覗いた月が、赤い光を落とし始めた。
「随分と殊勝な心がけですね。」
馴染んだ声に慌てて振り返ると、そこには大きな黒いシルエット。
絶対に間違いようがない、愛しい男の影だ。
「せん・・せ、何してんだよ、こんなとこで!」
「ああ、ご両親にお話がありまして、お邪魔してたんですよ。」
「話?」
清四郎は一歩踏み出すと、首を傾げる悠理の身体をそっと抱き寄せた。
「悠理。」
久々に呼ばれたその声に胸がキュンと熱くなる。
「僕とアメリカで暮らしませんか?」
「へ、へ???」
「もちろん今すぐじゃありません。来年、きちんと高等部を卒業してから一緒にアメリカに渡りましょう。結婚式も海外で挙げること、お母さんに了承してもらいました。」
「な、なんでいきなり?」
パニックに陥る悠理の頬に触れながら、清四郎はくすっと笑う。
「君にもっと広い世界を与えたいと思いましてね。それに僕自身、もう少し勉強しなくては剣菱の仕事に携われないと思ったんですよ。」
「ま、まさか、先生も大学行くの?」
悠理の質問に清四郎は深く頷く。
「ええ、その通りです。MBAを取得することにしました。」
「バスケ!?」
「―――それはNBAですよ。MBAは経営学修士という学位のことです。」
ちんぷんかんぷんな様子に苦笑いしながら、清四郎は悠理の髪を優しく撫でた。
「それまでにきちんと英語を叩き込んでやります。こうして通いながら、ね。」
「へ!?」
「学園にも了承を取りましたよ。‘剣菱悠理をアメリカに留学させる為’だと。」
そう言って不敵な笑みを見せる男に、悠理はポロポロと涙を溢し始めた。
「じ、じゃあ、ずっと一緒?」
「ええ。僕だって君と離れるなんて我慢出来ませんから・・・。」
「せんせぇーー!」
二人を見下ろす月すら赤面しただろう。
その夜行われた三日ぶりの交歓はあまりにも激しく・・・・
新学期早々、二人して遅刻しそうになったことは言うまでもない。
その後・・・
剣菱邸では、勉強部屋と称した個室に百合子の意向でキングサイズのベッドが備え付けられたが、清四郎はその好意を存分に受け入れ、悠理と再び甘い夜を過ごし始める。
少しの切なさは別れ際のキスだけ。
それでも悠理は、与えられた幸せにとっぷりと酔いしれた。