────好きだから、いじめるんでしょ?
そう指摘してきたのは二つ年上の才女。
教授にも一目置かれている、生粋のマキャベリストだった。
大学部に進んでからというもの、この手の女性からやたらと声をかけられ、誘われる。
いちいち相手にしていては時間の無駄なので、適当にお茶を濁しているのだが、中にはしつこく食らいついてくる、まるでスッポンのような女も存在し、正直辟易していた。
───目的のためなら手段を選ばない
彼女たちは身を投げ打って、僕という雄を捕らえようとするが、“慎み深さ”というものを一体どこに忘れてきたのか。
今日も、研究室で読書に没頭している最中、いきなりブラウスの前をはだけながら近付いてきた彼女をどう嗜めようか、考えを巡らせる羽目となっていた。
「神聖な学び舎ですよ?」
「だからこそ楽しめるんじゃない。」
「………そんなスリリングな体験は求めていません。」
「あら、じゃあ何処がいい?貴方が望むところでプレイしましょ?」
余程の自信があるらしい。
目的は僕の身体か?
はたまた家柄か。
どちらにせよ、彼女のあられもない姿に、理性的な息子が反応することはなかった。
「遠慮しておきますよ。骨の髄まで吸われそうだ。」
「そこまで強欲じゃないわ。」
「どうでしょうね。」
穏やかにやり過ごそうとしている僕を見て苛立ったのか、彼女………田万川瑞穂(たまがわ みずほ)はフンと鼻を鳴らし、机の上にどっかり座った。
そこは、今日休みをとっている教授のもの。
まったくもってはしたない姿に軽い頭痛を覚える。
「貴方、もしかして好きな子が居るのね。…………あぁ、確か幼なじみだったかしら?とても可愛らしい子。」
それは恐らく野梨子の事を指しているのだろうが、わざわざ否定する気にもなれず、苦笑いで濁す。
彼女に恋心など有り得ない。
近親相姦並みにタチが悪いじゃないか。
「邪推は結構。僕はこれでも忙しいんです。そろそろ退室願えますか。」
背中を向けた途端、クスクスと笑い出す厄介な女。
どうやら引く気はないらしい。
「それともあの大金持ちの女の子?随分と可愛がってるみたいだし?」
「は…………可愛がる?」
「食堂で見かけたわよ。あんなにも意地悪しちゃって。貴方もそういう子供っぽいところがあるのねぇ。」
悠理を弄ることは最早日課となりつつある。
それをそんな風に捉える人間がいるとは、恐れ入った。
「関係、ありませんよ。」
「あら───だって、好きだからいじめるんでしょ?」
────好きだから、いじめる?
何だ?その幼稚な発想は。
振り向き様に反論しようとしたところ、なだれ込むように寄りかかられ、そのまま唇を奪われた。
海外ブランドの口紅は香料がキツい。
息を止めていると、彼女の舌が僕のものを舐め始める。
正直、不快でしかなかった。
餌になるつもりはこれっぽっちも無いというのに。
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「見た目以上に………場数を踏んでるのね。」
机に横たわる女は気怠げに腰を捻り、引き出しから教授の煙草とジッポを漁る。
これで少しは口数が減れば助かるのだが、どうやらその望みは叶えられそうもない。
「遊ぶ女には事欠かないでしょ?私を含めて………」
「…………面倒な相手は選びませんよ。」
「あら。じゃあ、合格なのかしら?」
苛立つまま彼女を押さえ込み、苛立つまま貫いた。
愛もへったくれもない、排泄行為。
つくづく自分が嫌になる。
「読書の邪魔さえしなければ……」
「良いわ。貴方とのセックス、気に入っちゃったし。」
あけすけな物言いだったが、それはむしろホッとさせる。
感情などより身体を求められた方が、よほどマシだからだ。
「これ以上の関係にはなりませんよ。」
「ふふ。予防線はバッチリ引いてくれるのね。それとも、例のお嬢様に悪い?」
「彼女は関係ない!」
声を荒げてから、しまった、と思った。
心を覗かれる事は正直不愉快で、自分でも自覚のなかった傷を掘り当てられるのは屈辱でしかない。
そうだ────
僕は悠理を特別視している。
彼女を苛めながら、叶えられない想いを昇華しているのだ。
頼られる歓びを噛みしめながら、それでもあいつを小突くことで儚い夢を散らす。
僕はあの野生児を────愛している。
随分と昔から…………ずっと。
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「心此処に在らず───だね?」
派手な遊び方は悠理にも負けてはいないだろう。
にじり寄ってきた美童は手入れを怠らない金髪を翻し、意味ありげな笑みを見せた。
「何です?」
六人でやってきた新しいダイニングバーは妙に薄暗い店だったが、年頃の男女が多く集い、開店早々賑わっていた。
魅録の指導のもと、野梨子がダーツコーナーで善戦を見せている。
どうやら筋は悪くないようだ。
可憐は大食らいの悠理を放置し、めぼしい男に食らいついているし、僕はそんな仲間達を肴に巧いバーボンを口にしていたのだが───
「何です?その顔は…………」
「噂になってるよ?」
美童は含み笑いのまま、そう伝えた。
「噂?」
「田万川女史。年上にモテるのはいい男の証だもん。良かったじゃないか。」
「…………彼女とは………何でもありませんよ。」
そう、何でもない。
自分でも冷徹だと思うが、彼女に対し一遍の愛情すら抱いていない。
身体の相性は悪くないものの、あの性格は正直苦手な部類に入るだろう。
「ま、噂の出所は本人……っていう、ね。仕留められるなよ?清四郎。」
「………勘弁してください。」
これだから困る。
大学という場所はハンターの巣窟なのか?
それならそうと、解りやすくマタギの服装で通って欲しいものだ。
「おまえは…………」
さっきよりもトーンが低くなった美童の声。
「え?」
「…………意外と鈍感だから、気をつけた方がいいよ。」
「鈍感………どういうことです?」
聞き捨てならない台詞に思わず気色ばむが、上手くかわした彼はアイスブルーの瞳を細め、こう断言した。
「知らない内に女の子を泣かせるタイプだってコト!」
泣かせる?
どういうことだ。
今のところ、お互い納得づくの関係を貫き、綺麗に精算させてきているつもりだが。
「まあ、おまえは忙しいから、女の子の気持ちまで勉強出来ないだろうね。」
「…………それは否定しませんが。美童、何かを知っている口振りですな。」
「知~らない!てか、教えるのはフェアじゃないからさ。」
フェア………彼は一体何の話をしているのか。
田万川瑞穂の事では無いようだし。
無論、あのタフな女性が陰ながら泣くだなんて想像も出来ないが。
「清四郎も…………もっと周りを見なよ。でないと後悔するよ。………それじゃ、僕はミキちゃんのところに戻るね。」
「はぁ………」
結局何が言いたかったのか解らないまま、氷の溶けたバーボンを一口啜る。
───何を見落としているというんだ?
美童の言う通り、僕は恋愛に関して苦手意識があった。
女性の情の深さや執着は、時として狂気に結びつく。
自分から飛び込んでいきたいジャンルでは、決してない。
悠理は…………
そう、悠理はいつでも特別なのだ。
彼女だけはそんな“おどろおどろしい”ものとは無縁に感じる。
だから一時期持ち上がった結婚話も、そこまでの嫌悪感なく受け入れられたのかもしれない。
もちろん、それ以上の旨味があったから………などと言えば、また野梨子に叱責されるだろうが。
悠理への想いは複雑だ。
小さな少女が打ち砕いた安っぽいプライド。
今は禍根も消え去り、感謝すらしている。
僕がこうして生まれ変わる切っ掛けとなったのだから。
かといって、それ以上の迷惑も被っている為、素直に口には出せない。何せ留年までさせられたのだ。
無論、楽しんでいる自分も否めないが。
彼女の綿より軽いオツムは、もはや手の施しようがない。
けれど備わった天性の勘と本能的な行動は、世の中を生きていく上で何よりも重要なもの。
トラブルメーカーであるが故、命の危険に晒されることも多いが、僕は彼女が死なないと本気で信じている。
以前、泣き喚く悠理を宥める為、告げた言葉は、心からの本音だった。
だがこれだけが特別であるという理由ではない。
幼さも、愚かさも、優しさも、全てが愛しいと気付いたのはいつだったろう。
悠理は、悠理だけは…………誰の物にもなって欲しくないという我が侭にとらわれる。
一生独身でいい。
たとえ僕を含む皆が、それぞれの家庭を築いても、彼女だけは何も変わらないまま、その天真爛漫な笑顔で大胆な人生を送って行って欲しい。
───自分勝手にもほどがあるな。
しかしこれは一種の呪いのようなものかもしれない。
あれほど僕との婚姻を嫌がった悠理への………逆恨みそのもの。
・
・
「せーしろぉ!飲んでるかぁ?」
覚束ない足取りと赤く染まった顔。
酒に強い彼女がここまで酔うのは珍しい。
薄いキャミソールから伸びる細く長い手が、僕の肩を容赦なく掴み、揺さぶった。
「飲んでますよ。」
「…………ほんとぉ?」
「ええ。」
クダを巻く彼女の吐息は甘ったるく、思わず顔を近付けたくなる衝動に見舞われる。
───僕もとうとう酔いがまわってきたかな。
「明日も講義があるんでしょう?あまり深酒は感心しませんね。」
「いいじゃんか~!久々に六人集まったんだし!おまえなんて何週間ぶりだ?」
「二週間ほどですよ。そこまでご無沙汰ではないと思いますが………」
遠慮なくもたれ掛かってくる悠理を椅子に座らせ、バーテンダーに水を頼む。
目配せ一つで理解する彼は有能だ。
「ほら、飲んで。タクシー呼びますか?」
「やら(だ)っ!まだ飲むもん!」
「やれやれ。このままでは大虎の介抱を押しつけられそうだな。」
「とらぁ?あたいは猫だにゃん。」
カウンターに俯せになり、こっちを見上げてくる悠理は、いつになく女っぽく、胸が高鳴った。
参ったな────意識した途端、これだ。
封印してきた想いは弾ける前の風船のように膨張し続け、いつか後悔する羽目になるだろう。
出来ることなら、勝算の低い戦いはしたくないものだ。
「せぇしろ………」
「何です?」
「おまえ………………恋人、いる?」
「……………珍しいですね。そんな質問は。」
「答えろよ!」
「………いませんよ。」
「…………うそ、つきめ。」
「嘘じゃ…………」
“ない”と言いたかったのに、悠理の鋭い眼光が口を閉ざさせる。
互いの腹を探り合うようなこの時間は、一体どういう意味を持つのか。
心の隅まで見通そうとする悠理から、僕は目を逸らせなかった。
そして悠理もまた、僕から視線を外さない。
心拍数が上がる。
自然と握りしめた掌には汗が滲んでいた。
綺麗な瞳に僕がいて、恐らくは僕の目にも悠理がいる。
あぁ、こんな瞬間を待ち望んでいたのかもしれない。
遙か昔から────ずっと
「悠理、僕は…………」
酒で湿らせることも出来ず、乾いた唇を開く。
「僕は…………おまえが………」
沈黙を貫きながらも、言葉を待ち続ける悠理。
ひりついた喉と、熱を持つ目頭。
果たして、言っても良い言葉なのか?
それすら判断出来ない自分。
でも、言いたくて仕方のない衝動。
しかし幸か不幸か、邪魔者は唐突に現れた。
「あら、菊正宗君。奇遇ね。」
聞き慣れた声。
カウンターに自然な形で寄りかかった田万川瑞穂は、普段より濃い化粧でにっこりと微笑んだ。
隣に立つ友人らしき女性も同じような格好で、まるで姉妹といっても疑いはしない。
「………どうも。」
せっかくの雰囲気は見事破られ、慌てて背筋を伸ばした悠理は、ふらりと上半身をよろめかした。
僕はそれをすかさず支えるも、触れた感触に焦りをおぼえる。
じんわり、伝わってくる温もり。
思いの外、柔らかな肌質に男の欲望をがっつりと煽られ、顔が熱く火照った。
「悠理、そろそろ帰りましょう。」
気を取り直し、退席しようとするが、
「あら、まだ良いじゃない。私たちも菊正宗君と飲みたいわ。」
と阻まれる。
「いえ………明日も早いですし………お先に失礼しますよ。」
彼女を抱きかかえるよう立たせると、悠理は小さく「一人で歩ける」と呟いた。
しかし手は離せない。
せめて、仲間の元へ辿り着くまでは───
「菊正宗君!」
弾んだ声に振り返ると、田万川瑞穂はニヤッと口端を持ち上げていた。 嫌な予感。
「明日の放課後、いつもの研究室で待ってるわ♡」
投げキッスと共に爆弾発言。
「………………。」
返事はもちろん、出来なかった。
悠理の強張った肩がそれを奪ってしまったから。
「…………いるじゃん、恋人。」
熱したコールタールの上を歩くような感覚に、視界は暗く澱んでしまう。
「…………違います。」
「ふん!やっぱ………嘘吐きだ。」
振り解かれる手。
立ち去る温もり。
離れる瞬間の涙は…………僕が期待した通りの意味を持つものなのか?
「悠理!」
彼女の俊足は見事で………とても酔っぱらいのそれではない。
店の扉を開け飛び出してゆく彼女を、数瞬後、ようやく追いかけ始めた僕だが、既にタクシーに乗り込んだ悠理を掴まえることは出来なかった。
「おい、悠理、帰っちまったのか?」
魅録が煙草片手に声をかけてくる。
「……ええ。逃げられました。」
「ふ……ん。それでおまえさんは何で追いかけようとしてるんだ?」
したり顔で追及する彼に、敵うはずもない。
「…………僕はいつも………あいつを追いかけてますよ。昔からずっと………手の届かない宝を求めるようにね。」
そう。光り輝く太陽よりも眩しい存在。並の人間には捕らえることも出来ない。
「チッ………認めるのがおせぇんだよ。」
優しく小突かれた頭はどんどんとクリアになってゆく。
認めてしまえば簡単なこと。
欲しいと望めば手に入る距離にまで、彼女は近付いてきてくれているのだ。
「自分でもそう思いますよ!魅録、会計は後ほど! 」
何台かのタクシーを見過ごしたあと、僕はようやく『空車』へと乗り込んだ。
「○△の剣菱邸まで。」
「はいよ。」
瞬くネオンが滲む中、瞼に浮かぶ悠理の顔。
誤解も正解も全てさらけ出し、見事手に入れて見せようじゃないか。
世界でたった一人の女を、この手に。
そんな覚悟は喉を灼くように、熱く熱く流れていった。