十年目の追憶

大学部の入学式と同時。
話題の中心となったのは派手な男女六人。

私は外部受験だったからその存在を知らなかったのだけど、周囲の人間は黄色い声をあげ騒ぎ立てる。
学部毎にファンクラブがあると言われるほどの有閑倶楽部。
その中でも金髪碧眼の貴公子、’美童グランマニエ’と、成金財閥、じゃじゃ馬令嬢、’剣菱悠理’の人気ぶりはほぼ独走状態だった。

けれど外国人が苦手な私は、彼に興味が持てない。
かといって、女が趣味なわけでもないため、もちろん「剣菱悠理」にも関心がなかった。

しかし、彼だけは私をあっさり虜にしてしまう。
松竹梅魅録。
私は彼が好きだった。
あの鋭い視線と、一匹狼のような影ある雰囲気。
『ハードボイルド』が大好きな私にとって、彼はまさしく理想の男。
着なれた革ジャン姿でバイクに跨がる彼の後ろに、何度乗せてほしい!と縋りたかった事か。

しかし――
そこはいつも彼女の定位置で、それは友達の距離にしては馴れ馴れしく、当然胸がモヤモヤとしていた。
学部も違う彼に、近付ける術を持たない私は、結局涙をのむしかなかったのだ。



彼女・・・・‘剣菱悠理’とは同じ国際教養学部だった。
大金持ちだが、底辺を這い回るほどの馬鹿と聞く。
今でも裏金が効果的なのかと驚いたくらいだ。

私の家は正直、中流家庭の少し上くらい。
この大学は滑り止めの一つだった。
見栄とエゴの塊である父母は「あの」プレジデント大学に進学すれば、娘に箔が付くとでも思ったのか。
驚くほど高い入学金や学費を、親のプライドを賭けて何とか工面した。
そしてその年、私は残念な事に第一志望の大学から不合格を突きつけられたのだ。

――浪人するのは格好が悪い。

そう母に説得され、仕方なくこの大学の門をくぐった。
色々諦めていた事だが、まさかこんなにもハイソサエティな人間が集まっているとは思いもしない。
カフェテリアのランチは比較的安い価格設定だが、集う学生達のほとんどが優雅な週末の予定を口にしている。
私とは全く縁のない世界だった。

――――あの二人、付き合ってるんじゃない?

そんな二人の耳障りな噂話が聞こえてきた頃。
学部棟の玄関で、私は突然降ってきた雨に困り果てていた。
その日は下ろし立てのワンピースに合わせ、靴もおニューだったのだ。

「困ったなぁ。」

諦めきれず知り合いを探すが、なかなか見当たらず、鉛色の空を憎々しげに見つめる。
雨は止む気配を見せない。
むしろどんどん強くなるほどだ。

「傘が必要なんですか?」

唐突に背後からそう声をかけられ、自分の事かと振り向けば、穏やかな表情をした黒髪の男が立っていた。
一目で‘あの’有閑倶楽部のリーダーだと判る。

理知的な瞳と柔和な口元。
切れ者と評判の彼。
―――確か学部は違うはずなのに何故ここで?
そう思っていた矢先、とても同じ学年とは思えない深みある落ち着いた声で、彼はもう一度同じように尋ねた。

「あ、ええ。せめてバス停まで傘があれば・・・」

「ならそこまでご一緒しましょう。」

大きな黒い傘を広げ、一歩先に踏み出す。
私は少しだけ迷ったが、すぐにその中へ身を滑らせた。
紳士的な彼は、こちらが濡れないよう気を遣いながら、絶妙な速度と歩幅で歩く。
更に緊張を解すためか、当たり障りのない世間話も交え、バス停までの道程を楽しい時間に変えてしまったのだ。
ふと視線を投げれば自分の肩が濡れている。

―――ああ、モテるだろうな、彼も。

それは六人の存在を知ってから初めて抱いた評価だったけれど、絶対的な確信があった。

「ありがとうございました。とても助かりました。」

「いえ。それでは・・・」

屋根のあるバス停でホッと一息吐いた私は彼の背中を見送る。
何も言わず、来た道を戻る彼の背中を・・・・。

それから私の興味は松竹梅魅録から菊正宗清四郎へと移った。
自分でも単純だと思ったけれど、心が動くのだからどうしようもない。
経済学部に在籍する彼の情報を、知人を作ることで何とか得ようとした。
彼はとても優秀な人間で、噂通り切れ者だと言う。
大病院の息子と知り得たのは、この時が初めてだったが・・・。

私に情報を与えてくれた女の子は、含みのある笑みを浮かべた。

「彼は手強いわよ。入学してから軽く20人は振られてるわ。」

「え?そうなの?」

「ほら、あの黒髪の女の子いるでしょ?白鹿野梨子って幼馴染み。噂では彼女と婚約してるって・・・」

「え!!」

黒髪の、まるで日本人形の様な彼女。
彼にすごく相応しいと思った。
大和撫子を形容される、とても優秀な女性だと聞いていたからだ。
お隣同士の幼馴染み。
日本画の大家を父に、茶道家元を母に持つ深窓令嬢。
たおやかに笑う姿は何度か見かけたことがある。

「・・・・・ライバルがあれだと、難しいんじゃない?」

「そうね・・・。」

私は彼女の忠告に頷くほかなかった。

それから10日ほど経ったある日。
バス停で、私はレポートを書くための資料を学部棟に忘れたことに気付き、慌てて大学に戻った。
提出期限は週明けの月曜日。
よくぞ気付いた!と自分で自分を褒め湛えたくらいだ。

学生達は既に疎らで、国際教養学部の講堂もほとんどが閉鎖されていたが、さっきまで授業があった部屋だけはやはり施錠されていなかった。
そっと扉を開く。
中規模クラスの講堂では、大きめ曇りガラスから穏やかな光が差し込んでいる為、照明が消された状態でも比較的明るい。
私は今まで座っていた自分の席へ視線を投げ、そこでようやく人が居ることに気付いた。

窓を覆うカーテンの隙間で、男女二人が寄り添うように絡み合っている。
一目で「あ、キスしてる」と解るほど親密に・・・・・。
「拙いとこに来ちゃったな」・・・・と静かに扉を閉めかけた時、視力の良い私はそれが誰かを捉えてしまう。
確実に・・・・。

そう・・・男は「菊正宗清四郎」、女はあろう事か「剣菱悠理」・・・だった。

頭が混乱する。
彼女は、「松竹梅魅録」と付き合ってたんじゃないの?
彼は、「白鹿野梨子」と婚約してるんじゃないの?
これは・・・・所謂、裏切り行為なのではないの?

沸々とした怒りがこみ上げる。
それは「彼女」に対して初めて感じた「強い興味」だったのかもしれない。

結局、30分ほど学部棟内を彷徨い、再び戻ったときには彼らの姿も無かった。



「剣菱悠理」という人間の噂は、調べようとしなくても勝手に耳に飛び込んでくる。
それほど有名人で、それほど噂が絶えない女性だったのだ。
剣菱財閥ご令嬢の奔放な遊びっぷりは大学部内でも有名で、有閑倶楽部の面々はそれに付き合う形で愉しんでいる・・・らしい。

お金持ちの道楽、というやつか・・・。

私は深く溜息を吐いた。
経済的に何の心配も要らないお嬢様の放蕩ぶりは、高等時代からの事。
全くもって羨ましい限りだ。

その時の私は、きっとすごく嫌な女だったんだろうと思う。
気になる男は全て彼女のモノで、少しの憧れすら抱けない現実をまざまざと見せつけられたのだ。
心のささくれはどんどんと大きくなる。

そんな中、一人の男と知り合った。
同じ学部の2年上の男。
彼は私と違いどこぞの社長令息だったけれど、会社自体、あまり羽振りが良くないらしい。
「政略結婚を狙っている」
そう堂々と言い切った。

「’剣菱悠理’なんかいいと思うんだよなあ。」

「え?」

彼は驚く私の顔を見て、不思議そうに見つめ返した。

ああ、この男は知らないから・・・・彼女の裏の顔を・・・・。

でも、敢えて言わない事で彼を焚き付けようと考える。

「なら、今度何人か誘って合コンでもしない?同じ学年じゃなくても楽しめるでしょう?」

「え?手伝ってくれんの?」

「・・・いいわよ。誘ってみるわ。」

小さな悪戯心ではない、確実な悪意がそこで初めて芽を出した。



『剣菱悠理』は飲み会と聞くや否や、二つ返事でOKをした。
私と一言も言葉を交わしたことがないというのに・・・不思議なくらい人懐っこい人間だ。
よくよく顔を見れば確かに噂通りの美人で、先日のキスの一件から考えるに、女特有の二面性を持っているのだろう。

『松竹梅君にも菊正宗君にも、不釣り合いだわ。』

いまだ恋心が燻ったままの私にとって、彼女の存在は忌々しいもので・・・・決して好意的な感情を持てないでいた。



合コンの会場は和洋折衷の料理が楽しめる掘りごたつ式の居酒屋。
全ての注文が個室の内線電話を使って済ませることが出来る、カラオケシステムだ。
メンバーは男5、女5の小さな集まりで、男サイドはあの男の息がかかった友人ばかり。
私以外の女性は比較的地味で大人しいタイプを選んだのだけど、乱暴者でお調子者な彼女は、初めて会う面々にも動じることなく、すぐに馴染み始める。
お嬢様の世界は自分中心に廻っているのだろう。
驚くほどの料理を注文し、これまた見ていて胸焼けするほどの酒を飲んだ。

それでも二時間が経つ頃、呂律が怪しくなってきた彼女はトイレへと立ち上がる。
その瞬間を、卑怯な男は見逃さない。
すぐに後を追いかけた。

示し合わせていた合図を機に、残った男達は「場所を変えようか」と残りの女全員を促す。
彼女達もほろ酔い気分で頷き、私もそれに倣って立ち上がった。

彼女達が戻ってきた時、この部屋は二人きりの空間となる。
先ほどの酒に怪しい薬を入れた男が、ニヤッと嗤った。

罪悪感は、酒の力で紙一枚すら無かった。
あの手の男は「女」を蹂躙する事で「支配」したと勘違いする。
けれど私は「剣菱悠理」はきっとそんな事で「支配されない」と確信していた。
ただ、少しだけ「傷つけばいい」。
そんな風に思っていただけなのだ。

レジで会計を済ませた私たち。
自動扉が開き、外から生暖かい風が吹き込んでくる。
何気なく視線をやると、そこには・・・・・二人の男。

―――まさか!!

驚きを隠せない私に気付かない様子で、彼らは真っ直ぐ男達へと詰め寄った。

「悠理はどこだ!?」

松竹梅魅録が一人の男の胸ぐらを掴む。
それは先ほど薬を投入した男だった。
彼も相当酒が入っている。
強いアルコールの所為で咄嗟の反応が出来ないのだろう。
目を泳がせ、首を振るだけだった。

そこで菊正宗清四郎が、一歩前へと踏み出した。

「・・・・・死にたいんですか?」

彼の瞳には昏い、昏い影がある。
だが燃え立つような怒りの炎が身体全体を覆っていた。

その時、私は初めて気付いたのだ。
彼が愛している女は「剣菱悠理」、たった一人なのだと・・・・。

「もう一度聞きます。悠理はどこです?」

ピンク髪の彼が制止出来ないほど、黒髪の男は近くへと詰め寄る。
喉を締め上げられ、呻くことしか出来ない男はゆっくりと指差した。
トイレの方向へ、と。

「行け!清四郎。」

彼が走り去る瞬間、チラっとこちらに視線が投げかけられた様に感じるが、それは気のせいだったのか・・・。

騒ぎは一瞬。
トイレからボロボロの姿で出てきた男とは対照的に、剣菱悠理は晴れ晴れとした笑顔だった。
菊正宗清四郎の腕に、しっかりと自分のものを巻き付けて。

「清四郎のヤツ、ボコボコにするんだもん!あたいの出番無かったじょ?」

「おまえなぁ・・・・。」

ピンク髪の彼が笑う。
ふわふわの髪をゆっくりと優しく撫でるように触れながら。

「知らない人間についていかないと、この間も約束しませんでしたかね?」

「あ・・・・うん・・・・ごめん。」

「全く。」

黒髪の彼は彼女をしっかり抱き寄せ、離そうとはしない。
瞳を愛しげに細めながら、すぐにでも口付けたい衝動に耐えているようだった。

店の取りなしもあり、もちろん警察沙汰にはならなかったが、野望を打ち砕かれた彼はいつしか大学部からその存在を消していた。
裏事情は・・・さすがの私も知らない。





あれから、10年が経つ。
久々の同窓会は予想以上の集まりを見せ、お互いの顔が解らない事も多々あった。

しかし、彼らだけは・・・・異彩を放つ彼らだけは、変わらない。
年を感じさせない6人。
その中でも彼女の美しさは驚くべきものだった。

白く透き通る肌にはシルクのワンピースが良く似合う。
高いウエストで絞られた細いリボンで、足の長さがより一層強調されていた。
何よりも薄茶色のふわりとした髪が背中まで伸び、女性らしさが溢れ出ている。
オレンジ色のリップを塗っただけだというのに、その存在感はまるで女神のよう。

そんな彼女にはあの夜と同じ、彼が付き添う。
黒髪の彼が・・・・。
とてもフォーマルな格好で、彼女の唇に合わせたのか、オレンジを基調としたネクタイを締めていた。

結婚して6年が経つらしい。
美男美女の夫婦はその仲睦まじさを惜しげも無く披露している。
仲間達の前で笑う彼女に、もう昔の子供っぽさは見当たらない。
ピンクだった髪を茶色に落ち着けた彼も、鋭さがすっかり消えてしまっていた。
彼に寄り添うのは黒髪の美女。

ああ・・彼らは、昔から他の友人を必要としていないんだな。
それだけの絆があの6人には存在するんだな。

・・・・あの頃の自分を振り返る。
誰よりも子供じみていた狡い私を―――。

だが、あの時の罰はもう受けているのだ。
だって、いまだに彼らの影を他の男に追い求めてしまうのだから。

居るはずが無いと解りつつ・・・・それでも自分だけを大切にしてくれるたった一人の男を、
私はこれからも虚しく探し続けるだろう。