悠理と朝を迎えるようになって、2週間が経つ。
寝相が悪いはずの彼女は、僕の腕に抱かれていると何故か、いつものようには寝乱れない。
すやすやと、まるで人形の様な顏(かんばせ)のまま、夢の中を漂っている。
寝顔など、それこそ何度も見てきた。
大きな口を開けてイビキをかく姿も。
幽霊騒ぎに怯える彼女の側で、くっつくよう眠った夜も数多くある。
しかしこんなにも静かで、穏やかな寝顔は初めてだった。
長い睫毛に縁取られた瞼と、透明感のある白い肌は何度見ても美しい。
つるんとした愛らしい唇は、出来ることなら一晩中吸っていたいくらいだ。
━━━可愛くて堪らない。
自分でも驚くほど強い愛執に囚われている。
冷静に考えれば、今、僕は初めての恋に溺れ、周りが見えなくなっている状態なのだろう。
恋は人を愚かにし、恋に溺れた人間は判断能力の一部が欠如するということは━━━よく聞く話だ。
それが要因であるからか、僕は悠理をあの家から奪い、こうして二人暮らしを始めている。
まだ大学生の身であるというのに……。
気持ちを押し付け、半ば強引に始めた交際。
この僕が冷静さを失うほど悠理を求めるには、もちろんれっきとした理由があった。
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夏の強い日差しが幾分か和らいだその日。
彼女は大学構内の図書館で英文レポートに苦戦していた。
裏金とお情けで無理矢理進学させてもらっただけある。
中学レベルの英語では、とてもじゃないがレポートなど書けるはずもない。
「助けてやってよね。」
可憐にそう頼まれ、僕は渋々図書館へと足を向かわせた。
クラシカルな二階建てのそこは、普段ならば多くの学生達でざわついているのだが、その日は不思議と閑散としており、一見悠理の姿すら見当たらなかった。
━━━彼女のことだ。
どうせ人目のつかない場所で居眠りでもしているんだろう。
僕は思い当たる方向へ爪先を転換した。
館内でも奥まった場所にある資料室は、基本鍵がかけられていて許可の無い者は入ることができない。
悠理を探しながらも、ぶらりとそこへ立ち寄った。
もちろん許可証と電子コードの暗証番号は持っている。
入学したと同時に、教授から与えられていたからだ。
優秀な学生への特権。
僕はこういった特権を複数手にしている。
特に何かを読みたいわけでもなかったが、資料室を開き、中へと入った。
こんな場所に悠理がいるはずもないのだが………。
空調完備された部屋。
資料が傷むのを防ぐため、最低限に落とされている光量。
慣れた感覚で照明のスイッチを探し当てた時、どこからか衣擦れの音がした。
それと同時に微かな息遣いも。
僕は照明をつけぬまま、そっと足音を忍ばせ、声のする方向へと歩みだした。
資料室は無機質な空間で、灰色のスチール棚が所狭しと並べられている。
唯一、資料を吟味するためのソファが置かれているのだが、それすらもどこか色褪せたファブリック素材で高級感の欠片すらない。
僕が首を伸ばし覗いたとき、そこには目を疑うような光景が広がっていた。
見慣れた職員の顔。
受付では必ず挨拶をしてくれた。
年は30半ばだったと記憶する。
あまり覇気の無い地味な容姿。
しかし本に関しては誰よりも詳しい男だった。
その彼がソファに覆い被さっている。
否、ソファに横たえた悠理に覆い被さっているではないか。
決して大柄ではない彼に、しかし悠理はすっぽりと覆われていた。
一瞬で彼女の意識が無いと解る。
━━━薬でも盛られたか!
床に転がった紙コップ。
直感を働かせ、決して「同意」ではないと見切った僕は、すぐに男の背後へと駆け寄り、その襟首を掴み、強引に持ち上げる。
「リスクが高すぎやしませんか?」
宙に浮いたまま、こちらを振り向こうとした彼の顔色は驚くほど青かった。
悠理から出来るだけ離し、床に放り投げると、細い身体がそれでも派手な音を立てる。
改めて男を目にした僕は、激しく動揺した。
ベルトがだらしなく垂れ下がり、はだけられたズボンの前からは興奮した男性器が覗いている。
見るも耐えない光景だ。
慌てて悠理を見遣ると、多少着衣に乱れはあるものの、派手な柄が描かれた大振りのシャツとショートパンツに、脱がされた痕跡はない。
心から安堵する。
と同時に、男への怒りが沸々こみ上げた。
「これは犯罪ですよ?」
当然のことを敢えて語気を強め、告げる。
「あ…………わ、わかってる」
「何故こんなことを?彼女は剣菱の令嬢だ。謝って済むことではない。」
もちろん他の女性でも謝罪が通用する問題ではないが、彼女は特別だ。
きっと悠理の父母達は、この男への制裁を容赦なく行うことだろう。
「す、好きだったんだ。僕なんかに振り向いてくれるはずがないから………せめて側で触れてみたくて。」
よくよく聞くと・・・・
日頃構内を快活に練り歩く悠理に恋をした男は、独りレポートで苦戦している彼女を手伝うと誘い、この資料室に連れ込んだらしい。
飲食厳禁な図書館で、睡眠薬入りのジュースを与えるには良い場所だったのだろう。
彼女は他人を疑うことを知らない。
食べ物を与えてくれる人間ならなおさらだ。
彼はレイプするつもりまでは無かったが、悠理の甘い匂いを嗅ぎ、彼女を見つめながらの自慰行為に耽ろうと画策したという。
とてつもなく不愉快な話を聞かされ、とうとう頭痛が襲ってきた。
悠理はまだ眠ったまま。
彼は静かに衣服を整え、正座する。
「済みませんでした。」
床に頭を擦り付ける男は、なんと結婚までしているらしい。
左手の薬指がそれを物語っていた。
「二度と近付きません!許してください。」
「それは僕が判断することではありませんよ!」
震える声で吐き捨てる。
悠理を覚醒させることに決めた僕は、ソファから彼女を抱きかかえ、耳元で何度も名を呼んだ。
するとゆっくり瞼を上げた悠理は、僕を見て、心底嬉しそうに微笑んだのだ。
「せぇしろ………」
その舌足らずな甘え声に胸がぎゅっと絞られる。
見た目よりもずっと軽く華奢な身体。
それが、男の性的対象になるだなんて、この時まで想像もしていなかったのだ。
「悠理、頭は痛くないですか?」
彷徨わせた視線のままコクンと頷き、彼女は告げてきた。
「英語難しくって、頭痛いよ。手伝ってくれる?」
なるほど。
夢の中でも随分と苦戦したらしい。
怒りを忘れ、思わず笑ってしまったが、悠理もまた微笑んだままだった。
ゆっくり覚醒を促し、かいつまんで説明する。
数分後、はっきりと意識を取り戻した彼女は悩んだ挙げ句、「一発殴らせろ!」と叫び、清々しいまでのパンチを繰り出した。
その決断がいかにも悠理らしくて……
僕は彼女に焦がれる意味をようやく理解した。
憧れ………?
いやそれだけではない。
もうそんな淡い感情だけではない。
先ほど感じたどす黒い怒りは明らかに独占欲。
今すぐにでもこの男を彼女の前から消し去りたいと握りしめた拳を、悠理を抱えあげることでなんとか誤魔化す自分がいた。
大切な女だ。
他の誰にも触れさせるわけにはいかない。
それから一ヶ月間。
すべてのプライドを捨て去り、悠理へのアプローチを続けた。
当初、唖然としていた仲間達はそれでも僕の本気を知り応援してくれたが、悠理はなかなか首を縦に振らない。
それも当然の事。
彼女にとって男女の関係など、煩わしいばかりだ。
しかし、一ヶ月が経ったその日。
食事に誘った先のレストランで、彼女は渋々OKしてくれた。
「お、お試しだかんな!」
「結構です。」
だが、このチャンスを逃がす僕ではない。
しこたまワインを飲ませた後、陽気になった悠理をホテルへと連れ込む。
もちろん同意は必要だ。
冷たい水を与え、一応逃げ道も用意してやった。
「・・・・どうか僕のものになってください。どうしてもこの先へ進む事が嫌なら、帰ってもいい。」
「お、おまえなぁ・・・・・」
「悠理、悠理・・・好きです!」
何度も懇願し、それこそ土下座する勢いで彼女に縋った。
一ヶ月。
自分でもよく我慢した方だと思う。
彼女が他の男に奪われないか心配で仕方なかった僕は朝から晩まで、悠理に付き従った。
夜遊びが大好きな彼女は隙だらけ。
あんな事が二度と起こらないという保証はない。
「うっとうしい!」
と詰られても、止めることは出来ない。
それを見て、「ボディーガードかよ。」と魅録が呆れた。
悠理の強さは勿論知っている。
それと共に、彼女の愚鈍さも・・・。
男への危機意識など皆無だ。
「あたいは別に怖いわけじゃないぞ?だけど・・・ちょっといきなり過ぎないか?」
「僕はそうは思いません。悠理の全てが欲しい。」
「・・・・・あたいなんかのどこが良いんだよ?食い気はあっても色気は無いし、超がつくほど馬鹿だし・・・。」
「全部です。おまえの馬鹿で愚かな部分も僕の全てで補ってやりたい。色気に関してはこれから先、充分期待出来ますよ。」
今だって男を惑わす魅力を持ち合わせているんだ。
いつ何時、どんな邪魔者が現れるか分かったもんじゃない。
その前に僕のモノにしなくては、安心して眠ることすら出来ないではないか。
「悠理・・・・良いですか?」
彼女は戸惑う視線のまま、答えに窮している。
「おまえを傷つけたりはしないから・・・・僕に任せてください。」
絡め取るよう囁く、獣じみた自分。
狼が獲物を見定めたかのように涎を垂らし、必死で距離を詰めようとしている。
哀れな野ウサギは、背後から忍び寄る捕食者に気付かない。
こくん・・・・
それは野ウサギの命運が尽きた事を意味する合図。
欲深き狼は、あまりにも可愛いその存在を、一生かけて貪り尽す事を決める。
一度で食べきってしまっては勿体ない。
誰にも譲らず、自分だけのモノとして可愛がり、余すことなく味わう。
「ひっ・・・・ぁ・・・!」
悠理の中に忍び込んだとき、彼女は息を詰めたまま目を見開いた。
嗚呼・・・・なんて美しい瞳をしているんだ。
涙で覆われたガラス玉は瞬きもせず、僕だけを見つめている。
そこへ唇を当て、吸い取るかのようにキスをする。
「おまえの全ては、僕のものです。涙の一滴すら・・ね。」
彼女は僕の愛執に気付いただろうか。
いや、たとえ気付いていないにしても、ゆっくりと網を張り巡らせ、全てを知った時にはどこにも逃げられない状態にしてやろう。
次の日、早速剣菱邸へ赴いた僕はさらりと二人の交際を告げた。
もちろん大いなる歓喜で迎え入れられたが、そこで彼女との二人暮らしを強引に願い出る。
剣菱夫妻は不満そうな顔を隠さなかったが、大学卒業後は必ずここに戻るからという約束で承諾させた。
恥ずかしさから自室に隠っていた悠理にはもちろん事後承諾。
話を聞いて憤る彼女に「僕が側に居ればレポートも楽に仕上がりますよ?」と甘言を添え、再び押し倒す。
一晩中、快感を叩き込んだ成果もあって、すぐに小さく喘ぎ始めた。
まだまだ油断は出来ない。
悠理が予想外の行動を起こすことは過去の経験上、痛いほど思い知らされている。
「愛していますよ・・・・」
それから毎日、僕は愛を囁いた。
豊作さんが選んだセキュリティの強固なこのマンションに移り住んでからも、一晩と空けず彼女を抱く。
天邪鬼な悠理が徐々に擦り寄ってくる姿がとてつもなく可愛かった。
食事も一緒に作れば、意外と楽しそうに手伝うと分かり、新しい発見に胸が疼く。
そして・・・・・・・・・・今。
彼女はこうして安らかな寝顔を見せている。
僕の胸にぴったりと背中をつけたまま、どこよりも安心できる場所だと言わんばかりに・・・。
これこそが僕の望んだ姿。
いずれは僕無しで生きていけないと思い知らせてやりたい。
それまでは、麻薬のような愛をたっぷりと与え、甘い蜜の中にどっぷりと浸らせる。
その頃にはきっと、彼女も恋に溺れる憐れな存在へと変化していることだろう。
僕と同じ、処方箋のない病にもがき苦しむのだ。
でも安心しろ。
おまえを手放したりはしない。
揚々たる人生は大海の如く、広がっている。
二人仲良く天に召されるまで・・・思う存分、時間を掛けて愛し合おうじゃないか。
ほくそ笑む僕は、甘い香りを放つ項に顔を埋め、ようやく安らかな眠りへと落ちていった。