thirst for love(横恋慕)

thirst for love(R)

‘彼’という男を目にしたとき、一瞬にして、過去の恋愛経験がさらりと消え去った。

それほどの衝撃が私の身を襲う。

艶のある黒髪。
高潔そうな顔に、バランスのとれた逞しい体躯。
センスのよい着こなし。
穏やかな微笑みを浮かべつつも、その瞳は決して笑ってはいない。

高い教養が滲み出たその男に、私は一目惚れという初めての経験を味わった。

幼い頃から母に、「女の人生は殿方次第ですよ。」と教えられ育ってきた。
古風な考え方だが、それも一理あると納得できたのは、両親の関係がまさしくそれだったからだ。

妻として母として、慎ましく過ごす女を、一部上場企業の重役である父はことのほか大事にした。
年の離れた兄は早々に結婚し、別の土地で幸せな家庭を築いているが、滅多に実家へは帰っては来ない。
共稼ぎの兄嫁はとにかく忙しかった。

「美沙子さんもそろそろ良いお相手を見つけないと、ね。」

母は、私が18になったばかりの頃、そんなことを言い出したが、その言葉を振り切り二年間の語学留学の為、家を飛び出した。
―――息が詰まる。
無意識にそう思ったのだろう。
躊躇いはなかった。

通訳が出来るまでの実力を身に付け、帰国した後、待ち構えていたのは案の定、見合い話だった。

「社交界デビュー」という大仕事も待っていたが、正直気乗りせず、のらりくらりとかわしていた。

そんな中、母が病に臥せり、父は私を伴い、とあるパーティへと連れ出した。

それが自分にとっての社交界デビューとなったのだが、まさか彼のような男が存在するとは―――想像もしていなかったのだ。

彼の周りには常に人だかりが出来ていた。
老若男女問わずして。

「お父様、あちらの方は?」

乗り気でなかった娘の質問に、父は驚いたような顔を見せ、視線を投げ掛ける。
そして「あぁ。」と少し残念そうに笑った。

「剣菱財閥の後継者と噂されている男だよ。目の付け所は悪くないが、残念ながら既婚者だ。」

「既婚者―――」

「剣菱の娘を嫁にしているんだ。昔から切れ者と噂の男さ。それよりもほら、あそこに居る彼はどうだ?少し年が離れているが、なかなか有能な奴で…………」

父の言葉を無視し、私の目は彼に釘付けられたまま、耳は彼の声を拾おうとしていた。

剣菱財閥の後継者。
なるほど―――。

父の側を離れ、人だかりの中を進む。
まるで引力に導かれるように身体が動いた。

そこからは持ち前の社交性で積極的に話しかけ、自分という存在をアピールする。
彼は、私とさほど年が離れていないにも関わらず、とても老成円熟した印象を受けた。

そこへ………

「清四郎。」

現れた美女は豊満な身体を引き立たせる様な、それでいてシックなドレスを身につけていた。

「可憐。」

親しげな笑みを浮かべ、そちらへと向かう。

―――まさかあれが彼の妻!?

到底敵わない美しさ。
可憐と呼ばれた彼女もまた、彼に腕を絡ませ、柔らかく微笑んだ。

「あら、相変わらず悠理はいないの?」

二、三度首を回し、辺りを確かめる。

―――ゆうり?

「ええ、‘興味ない’‘めんどくさい’の一点張りですよ。」

途端に暗くなった表情。
彼らの会話から、その人物こそが妻であると判明したのだが、その時は何故彼が沈み込んだのか思いもつかなかった。

「今度会いに行って話してくるわ!」

「是非。良ければ美童も魅録も誘ってやってください。野梨子は今、家元の修行で忙しいようですから。」

「OK。あんたもちゃんと可愛がってやんなさいよ。――ああ、余計なお世話だったわね。」

妖艶な笑みを残し、他の輪へと消えていく彼女。
その後ろ姿はまるで女優のように堂々としていた。

それからというもの、彼が出席しそうなパーティをチェックし、私はその全てに参加した。
だんだんと親しくなる距離。
彼も私との会話が楽しいのか、いつも笑顔で接してくれた。

そんな様子を父だけが不満げに見つめていたが、私は頓着しない。

彼と、どうにかなりたかった。
たとえ後ろ指を指されようが、彼のすべてを手に入れたかった。

だってそうじゃない?

噂では空気を読めない山猿のような妻を持て余していると聞く。
そして、彼はパートナーを伴わない。
それは冷えきった夫婦関係を彷彿とさせた。

代わりに私が居る。
私が彼のパートナーになれる。
別に妻の座を狙っていたわけではない。
ただ、彼に存在を認められたかったのだ。

そっと横に立ち微笑めば、彼を狙っている女たちが悔しそうに睨み付けてくる。
それこそが快感。
それこそが私の望む立ち位置だった。

しかし――――

その日のパーティはいつもと違った。
彼が珍しく連れ立った彼女は、噂通り奇抜な衣装を身につけていた。

―――これが彼の妻?

不満そうな表情を浮かべ、だがそれよりも不安な翳りが見え隠れしていた。

確かに見た目は美しく、衣装もどことなく似合っている。
だが、彼の妻には相応しくない気がした。
それは私の傲慢さからくるものだったのかもしれないが、それでもその時はそう感じたのだ。

すぐに二人は離れ、彼女は金髪の美青年と話し始める。
私の立ち位置は再び彼の横に収まった。

―――やっぱり仮面夫婦なのね。

そう確信し、胸の内でほくそ笑む。
その夜の彼はどことなく不安定で、そして落ち着かない様子だったが、私はそれに気付かないまま、満足感に浸っていた。

――そろそろ一線を越えてみたい。
そんな欲望がこみ上げる。
彼なら、きっと受け入れてくれる。
私の事を認めてくれる。

今から考えても、その根拠の無い自信は、恋に溺れた愚かな小娘の戯言だったが、本気でそう願っていた。

きっと彼は優しくしてくれるだろう。
どんな風に愛を囁いてくれるのかしら?

想像するだけで悶えてしまう。
次のパーティで、しっとりと誘う為のシュミレーションも何度となく繰り返した。

浮かれていたのだ。
何が真実かを見極めもせず、
まるで中学生の初恋のように浮き足立っていたのだ。

一ヶ月後。

随分と間が空いてしまった為、私の欲望は更に膨れ上がっていた。
きっともう、会った瞬間から抱き締めて、キスして、ベッドに押し倒したくなる。

念入りにメイクアップし、ドレスも彼の好みそうな清楚かつ柔らかな素材を選んだ。

今日は父が多忙ゆえ、少し大胆に誘ってみよう。
そう考えていた。

ざわり―――

空気が変わる。

200人は居る会場。

そのメインとなる入り口から現れたのは神々しいまでのカップルだった。

男はもちろん恋い焦がれた彼で、その横に並ぶは……彼の妻。
野生猿と揶揄されていた妻。

しかしその姿。

ゾッとするような寒気が走り抜ける。

すらりとした細身の身体を、深紅のタイトなドレスがしっとりと覆い、剥き出しの鎖骨には眩いばかりのダイアモンド。
お揃いのイヤリングが肩口まで届いている。
うっすらと乗せた化粧も、彼女の美貌を引き立たせるばかりで、その光り輝く瞳は、以前には見受けられなかった自信に彩られていた。

そして―――
そんな圧倒的な美しさを放つ彼女から目が離せないとばかりに、彼はスマートに、しかししっかりと腰を抱き寄せ歩いてくる。

その上、彼女が何か囁く毎に、蕩ける様な笑みを浮かべるではないか。
そんな表情、一度たりとも見たことがなかった。

私は敗北を確信する。
つけ入る隙など全く見当たらない。

着飾ってきた自分はまるで道化のようで、結局二人から顔を背けるようにして、パーティ会場を立ち去った。

彼らは本物の夫婦になったのだ。
きっとこれから社交界ではあの二人が中心となり、華やかな輪が出来上がることだろう。

そこに、私の居場所はない。
一ミリたりとも、あるはずがないのだ。

ふと足元を見つめる。

頑張って履き続けた高いヒール。

そういえば、彼女も履いていたな、と思い出す。
私と同じで履き慣れていないのだろう。
フラフラとしていた。

だけど決定的に違うこと。
それはきちんとした彼のエスコート。

彼女が転ばないよう、細心の注意を払っていた。

なるほど。

彼の愛情はそこかしこに転がっている。

あの日、複雑な顔を見せていたのは、妻が自分の側を離れていたからなのね。

思わず笑いたくなった。

なんて不器用な人!!

私は大きく背伸びをし、ポーンとハイヒールを飛ばす。

今日はこのままで自宅へ帰ろう。

地に足をつけたら、心の痛みが幾分か軽くなる気がした。