飲みきったカフェオレのグラスを見つめながら、もう一杯お代わりしようかと迷っていた時、
隣の席に座っていたカップルの女がいきなり立ち上がり、彼氏であろう目の前の男へ水を浴びせかけた。瞬間、悠理の目は大きく見開かれる。
男の前髪は垂れ下がったまま、雫がポタリポタリとテーブルに落ち、小さな水溜まりを作る。
女は憤りをぶつけた後、ようやく気が済んだのか鞄を引っ提げ立ち上がると、カツカツとヒールを鳴らしながら出口を目指し、一度も振り返ることはなかった。
悠理は残された男を窺い見る。
隠された目元以外のパーツは悪くない、ような気がする。
年は若く感じたが、着ている服がラフなアメリカンカジュアルだったからそう感じただけで、本当は少し上なのかもしれない。
彼らのやり取りを耳にしたわけでもないし、男女の修羅場など見慣れたものだったが、悠理は何故か少しだけこの男に興味が湧いた。
そう、たったそれだけのことだったのに・・。
「ほいよ。おしぼり。」
遠くにいる店員には今のやり取りは目に入っていなかったらしい。
悠理はまだ使っていないおしぼりを差し出すと、口元を緩めた。
男はゆっくりと顔を上げ、差し出したそれには目もくれず、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
濃い灰青色の瞳。
純粋な日本人でないと解り、悠理は一瞬だけ身を引いた。
「ありがとう。」
透明感のある心地よい声。
決して悪くない声だ。
おしぼりを広げ、その男はゆっくりと丁寧に髪の滴を拭い始める。
染めていると思っていた明るい茶髪はどうやら生まれつきらしい。
根元まで同じ色だった。
暫くの間、ぼーーっと男の動きを眺めていたが、突如として耳に飛び込んできた着信音にハッと我に返る。
それは恋人からのメール連絡。
時間に几帳面な男が珍しく20分ほど遅れるとのことだった。
ふ、と溜め息を洩らし、お代わりすることを決めた悠理は『すいませーーーん!』と手を上げる。
店員はようやくこちらに視線を向けると、襟をただしながらやって来た。
だが、辿り着いた瞬間、隣の男の濡れそぼった姿を目に留め、戸惑った様子を見せる。
「あ、こっち優先してやって?んでもってカフェオレ二つ追加。」
目配せと同時に促す。
焦った店員の仕事は恐ろしく早く、タオル代わりの二本のおしぼりと二杯のカフェオレは、あっという間に提供された。
悠理はその一つを啜りながら、横目で男を窺う。
―――美童で見慣れているとは故、改めて見ると、なかなか綺麗な顔立ちをしている。
高い鼻梁を挟んだ瞳は切れ長で、先程それに見つめられた悠理は、一瞬ドキッとしたことを思い出した。
決して好みのタイプではないというのに・・・。
こんな些細な事すら浮気心だというのなら、黙っておくに限る。
嫉妬深い恋人を思い描きながら、悠理は二つあるグラスの内、一つを男へ差し出すと「おごり!」と言葉少なに告げた。
「え?」
「ほら薄まっちゃうから、さっさと飲めよ。」
「同情?」
「は?」
「それとも、俺に惚れちゃった?」
「はあ?」
美童並みの自惚れを見せつけられ、悠理の開いた口が塞がらない。
一瞬にしてカフェオレが惜しくなってしまう。
「いいよ。君、美人だし付き合ってあげても・・・・。」
随分と上から目線な誘い方にムッとしつつ、
「いや、あたいのタイプじゃない。それに恋人いるから。」
・・・と、即答する。
一気にバカらしくなった悠理は、グラス片手に窓の外へ視線を移すと、自惚れ男から距離を取る。
確かに多少気の毒に思い、思い付いたままに行動したが、それを履き違えられては元も子もない。
『無視無視!』
そう心を引き締め、男に背を向けた状態で、カフェオレをズズズと勢いよく啜った。
・・・・・やはり二杯目が惜しい。
外はそろそろ夕暮れ時。
行き交う人々はどこか急ぎ足だ。
――清四郎、おせーな。
今日は映画デートの日。
待たされる事に慣れていない悠理は、小さくぼやくと時計を見遣った。
もうそろそろ15分は経つだろうか。
いまだ現れない男を少しだけ恋しく思ってしまう。
ただでさえ不愉快な思いをしたのだ。
今日はいっぱい甘えてやる!と心に決めた。
ガジガジとストローを噛みながら外の景色に意識を奪われていた悠理は、ふと、背後に気配を感じ、くるりと振り向いた。
そこには隣席から移動してきた男が目前にまで迫っており、あまりの驚きに反射的に後退る。
「な、なんだよ?」
「御礼・・・するから。」
「へ?」
一瞬で顎を掴まれ、無理矢理角度をつけられる。
男の行動は素早く、俊敏さが取り柄なはずの悠理も、顔を背ける暇すら無かった。
重ね合わされた唇は、同じカフェオレの香りを纏う。
忍び込もうとする舌を寸での所で封じていたが、耳元を擽るように触られると「あっ」と声にならない声をあげてしまい、とうとう誰とも知らぬ男を迎え入れてしまった。
「んっ!!んんっ!!!」
有り得ない現実。
悠理は目を見開いたまま、好き勝手に口内を貪る男を見つめる。
―――逃げなきゃ!
噛みついて、突き飛ばして、殴って、蹴りあげて・・・
しかし男の執拗なキスは悠理の思考を微睡ませてゆく。
―――清四郎!
こんな場面を見られることこそが大きな問題だというのに、悠理はいつもの様に心の中で恋人の名を呼んだ。
―――やだ、やだ、やだ・・・!!!
なめくじの様に口の中を犯され、悠理の頬を涙が伝う。
ギュッと握りしめた拳。
それを振り上げようとした矢先―――
「何をしてるんだ!!?」
地を這うような・・・しかし悲鳴にも似た声が店内に響き渡る。
その直後、口は解放され、男はあっさりと引き剥がされた。
無論、清四郎の手によって。
脱力し、思うように話せない状態の悠理は、恋人の鬼気迫った顔を見上げる。
「せ・・・・しろ・・・・」
「何された!?」
清四郎はすぐさま悠理の側に座ると、くったりした体を抱き寄せた。
だからといってすぐに何も答えられず、悠理は赤くなった顔で俯く。
「‘何’って、ちょっとした御礼だよ。物欲しそうな顔してたからさ。カフェオレもご馳走になったしね。」
欠伸でもしそうな男は、二人の背後で詰まらなさそうに呟くと、椅子から立ち上がり悠理たちを一瞥する。
「俺、キス上手いでしょ?よく言われるんだ。暫く腰立たないかもしれないけど、ごめんね。」
悪びれない口調。
男の無神経な言葉を耳にした清四郎は、その黒い瞳を大きく見開く。
怒りがこみ上げる。
男として、悠理の恋人として、エベレスト級に聳(そび)える高いプライドが容赦なく刺激されたからだ。
無論、怒りの矛先は決まっている。
「表に出ろ。」
「なぜ?」
「とてもじゃないが、見過ごせない。」
「キスぐらいで?」
「彼女はおまえが触れてきた女達とは違う。」
「女なんて、どれも同じだよ?」
『馬鹿馬鹿しい』・・と鼻で嗤う男を、清四郎はギリギリと奥歯を鳴らしながら見つめた。
普段、滅多に出さないはずの殺気が全身を漲っている。
拳法家として、むやみな暴力は禁止されているが、しかし今はその掟に逆らってもいいと感じていた。
目の前の男に殺意すら湧いているのだ。
誰も止められない・・・。
そう、和尚でさえも・・・。
清四郎の殺気が相手をのみ込もうとしていた・・・その時。
「・・っざけんな!!!」
それは、一瞬だった。
清四郎の腕から抜け出した細い身体が軽やかにテーブルを越え、長い脚が空を舞う。
悠理は見事な蹴りを男に喰らわせると、パンパンと手を叩き、いつもの様にふんぞり返った。
「ヘタクソ!巧いキスってのはこういうのを言うんだ!」
そう言って清四郎を振り返ると、首に腕を絡ませ、初めから激しいキスを強請った。
瞬時にして意図を読み取った清四郎は、それに応えるべく本気のキスを始める。
すぐに洩れ出す、切なくも甘い吐息。
積極的な口付けは絶え間ない湿音を辺りに響かせる。
女の身体からは次第に艶めいた色気が溢れ出し、清四郎は悠理の頭を優しく搔き抱きながら、ひたすら感じさせようとした。
合わせた唇だけではない。
片方の指は悠理のうなじから耳朶を捉え、そこを絶妙に擽る。
何度も何度も絡め合う舌。
馴染んだその舌を余すことなく啜り合う。
恍惚とした表情を見せながら、悠理の身体がもじもじと揺れ始める。
それは深く感じ始めている証拠。
互いだけの世界を味わう二人は、周りを圧倒するほどの色気を纏わせていた。
そんな情熱的なキスは数分にも及び、床に座り込んだ色男を含む店員数名も、目を白黒させて事の成り行きを見守る。
唇から伸びた透明な糸を、舌先で絡めとりながらゆったりと身を任せる女は、まるでエクスタシーを感じた後のよう・・・。
「せぇしろぉ・・・」
蕩けるような声を出す恋人に、清四郎は官能的に微笑む。
「映画の予定は変更ですね。」
「ん・・・」
砕けきった腰を支えられながら、悠理は床に座る男を一瞥もせず、カフェを後にする。
ショックを受けた様子の色男の背中を、店員たちは少しの間だけ心配そうに見つめていたが、とうとう最後まで声をかけることはしなかった。
~おまけ~
「まったく、他の男にキスを許すなんて、有り得ませんよ!」
「ごめん。」
清四郎は不満を隠さない様子で、悠理の身体に舌を這わす。
「気が緩んでる証拠です。今夜は覚悟しなさい。」
「んぁ・・・なんでも言うこと聞くからぁ~!」
先程のキスですっかり出来上がってしまった悠理もまた、持て余した欲情をぶつけ、懇願した。
「もう、欲しいのか?」
コクコクと涙目で頷けば、清四郎は満足そうに笑う。
悠理の身体をとことん仕込んできた男にとって、今回の事態は確かに許しがたいものであったが、
結果的に言えば他の男に堕ちる事がないと判明したわけで―――
「悠理。」
「なに?」
むずむずした身体を揺らしながら、欲に塗れた瞳を見せる。
「可愛いな、おまえは。」
「そ、そう?」
「今回の件はチャラにしてあげましょう。その代わり・・・・」
「う、うん。」
「今夜はそう簡単に寝かせませんよ?」
―――ぞくっとする申し出に対し、頷く権利だけが与えられている悠理。
むしろそれは彼女にとって御褒美であり・・・・そこでようやく清四郎がご機嫌であることを知る。
その夜の交歓は狂熱的なものだった。
あまりの激しさに呆気なく気絶させられるが、その都度起こされ、何度となく狂おしい愛を注ぎ込まれる。
男の言葉通り・・・眠りにつくことが出来たのは、太陽がすっかり昇ってからのことである。