第十二話

日曜はやはり快晴だった。

清四郎はいつも通りの朝を迎えている。
腕の中でムニャムニャ言いながらも、なかなか起きようとしない若き恋人を濃厚なキスで目覚めさせ、シャワーへと促し、その間に二人分の朝食を作る。
献立は日々違うが、基本は和食。
しかしコーヒーだけは毎朝欠かさない。
こだわりの豆を丁寧に挽く事で、気持ちが引き締まり、一日分の活力が漲るからだ。

立ち込める薫りに、シャワーを終えたばかりの悠理が鼻をひくひくさせる。

「今日は、モカ?」

「当たり。」

「やたっ!じゃ、ご褒美ちょーだい。」

濡れ髪のまま清四郎に近寄ると、あーんと口を開ける。
そんな雛のような仕草に、清四郎は優しく微笑みながらイタリアのチョコを一粒放り込んだ。

「んまぁ~い!」

「よくもまあ、朝からこんな甘いものを食べれますね。」

「そ?朝は甘いもの食べた方が良いって聞いたじょ?」

「それは確かに一理ありますけど・・・」

珈琲片手にふわりと笑い、悠理の髪を指で梳く。
何度言い聞かせても乾かし方がなおざりな悠理は、実のところ清四郎にドライタオルをして欲しいが為、
意図的にそうしているのだ。
くしゃくしゃと髪をかき混ぜられる心地良さが、すっかりクセになったらしい。

「全く――手間のかかる子だ。」

それでも嬉しそうにタオルを手にする男は、悠理の望む形で髪を乾かす。
まさかこんなにも面倒見が良い男だったなんて、少し前までの清四郎には想像もつかなかったはずだ。

「今日、何時ごろお迎えが?」

「ん~と、11時くらいにマンションの下に来るよ。」

「ふむ。手土産は既に用意しているし・・・少しくらいなら勉強出来そうですね。」

「うっ・・・。」

「朝食の後、英語のヒアリングをしましょうか。」

悠理は苦笑いしながらも、仕方なく頷く。
自分がここにいる理由は、勉強をし、成績を上げること。
清四郎の立場を考えると、それを疎(おろそ)かには出来ない。
夏休み明けに行われる学力試験で少しでも良い結果を出さないと、大学部への進学にストップがかかる恐れがあるからだ。
しかし、あれほど嫌いだった勉強も、清四郎の教え方のお陰で少しずつ楽しみを感じるようになってきた悠理。
そんな自分を多少不気味に思うが、決して悪い気分ではなく、むしろ感動すら覚える。
清四郎を教師として尊敬すると共に、男として信頼に値する人間だと感じ、悠理は嬉しくなった。
彼についていけば間違いはない。
そう確信するほどに――。

「せんせ。」

「ん?」

「大学部に進んだら、せんせぇはもちろん居なくなっちゃうんだよね。」

「・・・それは、まあ。」

「寂しいけどさ。あたい頑張るから・・・・大学生になってもこうやって一緒に暮らせないかな。」

清四郎は喜びに息が詰まった。
それを誰よりも望んでいたのは自分だ。
結婚を前提とした交際を認めてもらった上で、悠理と共に暮らす。
太陽の下、堂々と手を繋ぎ、二人胸を張って歩けることをどれほど願っているか。

「それは、こちらの台詞ですよ。」

「先生・・・・」

「君を心から大事にすると誓うから、是非とも一緒に暮らしてください。」

「う、うん!!」

ああ、やはり彼女の笑顔は素晴らしい。
清四郎は決意を新たにすると共に、愛しい恋人を強く腕に抱き締めた。



予定通りの時間にやって来た迎えの車。
それは霊柩車を思わせるような出で立ちで、清四郎は一瞬目を疑った。
しかし、「名輪」と呼ばれる運転手に丁寧に促され、恐る恐る中へと乗り込む。

「初めまして、菊正宗様。旦那様も奥さまも首を長くしてお待ちです。」

「それはどうも。」

悠理は久々に会う名輪と、楽しそうに世間話をしながらも清四郎の手を離さない。
指と指を絡めたまま、どことなく緊張しているようだった。

―――母ちゃんは怖いんだぞ。

『ふむ。それはそれで楽しみですな。』

清四郎にとって恐れるものは、ただ一つだけ。
悠理の心離れだ。
それ以外の大抵のことは解決出来ると信じていたし、事実その実力を持っている。
悠理さえ側に居てくれれば、たとえどんな辺境での暮らしだろうと耐えられる。
むしろ楽しくさえ感じることだろう。
もちろん不自由をさせるつもりはない。
生きていく上での大切な光を与えてくれた悠理に、自分の全てを捧げるつもりでいるのだから。

クーラーの効いた車内。
悠理の汗ばんだ手をギュッと握り返すことで安心感を与えようとした清四郎。
それでも、その笑顔は引き攣っていたけれど・・・。



「よぉ来ただが!」

「先生、お待ちしていましたわ!」

多くのメイドが列を成し、その中央の階段(後にエレベーターと気付く)から現れたデコボコな男女。
それが剣菱万作、百合子夫妻だった。
清四郎はある程度、’剣菱家’についての前情報を引き出してはいたが、想像以上の違和感に思わず苦笑する。

「初めまして。菊正宗と申します。」

丁寧に腰を折り、挨拶をした後、再び二人を見つめる。

―――これが世界に名だたる剣菱財閥の会長か。奥方は……なるほど美しい。

悠理の美貌が母親譲りと知り、深く納得する。
しかし、このど田舎の農家風情の男が、まさか会長とは――。
ショックは大きかった。

「悠理、久しぶりね。元気そうじゃないの。」

「た、ただいま。」

「悠理!今日は精のつくもんをたんと用意しただ。どんだけでも食うて行けばええ。」

「父ちゃん……!」

久々の父娘の再会は熱い抱擁と共に・・・。
そんな二人を横目に案内された部屋は20畳ほどの和室。
真新しい畳の香りが清々しかった。
黒く塗られたの建具は金の家紋入りで、床の間に飾られた派手な掛け軸や花瓶に統一性は一切見られない。
最初は家の大きさに度肝を抜かれていた清四郎だったが、今はその個性的な内装にこそ意識を奪われている。
正直、悪趣味だと感じていた。

しかし・・・・
さすがは’剣菱’。
置かれている物全てに想像出来ないほどの金がかかっている。
百合子夫人はそんな清四郎の視線に気付いたのか、「夫のコレクションなの。変でしょう?」と小声で囁いた。

そう言ってのける彼女の趣味こそ目を疑う。
身に着けた着物から垣間見える’派手’と’奇抜さ’を兼ね備えたセンス。
その毒々しいまでに描かれた大きな百合の花は、どんな着物作家も裸足で逃げ出すような大胆な柄だ。

―――似たもの夫婦だな。

清四郎の判断は後々正しいと判る。



並べられた料理は・・・・それこそ贅を尽したものばかりだった。
伊勢エビ、蟹、アワビ、雲丹をはじめ、何故かステーキ、中華料理、はたまたフォアグラまで・・・。
雑多な、しかし高級素材が惜しげも無く並ぶ座卓に、清四郎の頬がひくつく。

「うんまい!」

気後れしている様子の恋人を気にもせず、悠理は箸を伸ばし、勢い良く料理を口の中に収めている。
久々の贅沢にストッパーが外れているようだ。

「ほら、先生もどんどん召し上がって?うちの料理長の腕前はかなりのものですのよ。」

おおよそ想像から外れた昼食会だが、清四郎は「頂きます」と丁寧に手を合わせ、箸を伸ばした。
大好きな海産物は、頬が蕩けるほど旨かった。

「ようやくお会い出来て、本当に嬉しいですわ。この馬鹿娘の相手はさぞかし大変でしょう?」

「あ・・・いえ。確かに驚かされることは多かったですが、非常に素直で良い子だと思います。」

「まあ・・・!さすがは菊正宗先生!教育者として素晴らしい資質がおありですのね。他の先生方はそうは仰いませんでしたけど・・・」

―――教育者。

耳を閉じたくなるフレーズだが、清四郎は曖昧に笑って見せる。
娘と同じ勢いで食べ進める万作にちらりと視線を投げるが、別段変わった様子も見られない。

―――やはりバレているわけではなさそうだ。

そう思い、ほっと胸を撫で下ろした。

「先生は昔から教職志望でらっしゃるの?」

「そういうわけではありません。大学院に残ることも考えていたんですが、家族の手前・・・教師の道を選びました。」

「小耳に挟んだのですけれど、大学では大変優秀な成績を収められていたんですって?ほとんど首席だったそうじゃありませんの!」

「過去の話です。」

百合子の探るような目線には、品定めの意味が込められている。
それはさすがに清四郎も読み取れた。
ただ、’教師’としてなのか、’男’としてなのか、までは解らなかったが・・・。

「ご実家を継ぐことは考えませんでしたの?」

どこまで知られているのか・・・。
この母親ならばそれもあり得るか・・・と苦笑する。

「医者の姉がいるので。僕はそこまでの情熱が無かったんですよ。」

満足そうに頷いた百合子は、次にメイドが運んできた茶碗蒸しを手に取り、そっと一匙掬った。

「本当に・・・素晴らしい運命ですわね。」

その一匙に振りかけられた金箔を見つめながら、意味深な呟きと共に妖艶な笑みを零す。
ぞっとするほどの笑顔に、清四郎は本能的に肌を粟立てた。

どうもこの女性は普通ではない、と感じる。
悠理が言っていた二面性どころか、四枚も五枚も面の皮を隠し持っていそうだ。
しかし、今のところ好意的な対応であることに間違いは無い。
清四郎はその点、不安に思うことはなかった。




一通りの食事を済ませ、次に移動した部屋は、これまたヨーロピアン調のくどくどしい洋室。
そこが百合子の大切なティールームだと知った清四郎は、ようやくチグハグな内装に納得を示した。

「先生!ほら、ここから母ちゃんのバラ園が見えるんだ。」

バルコニーから指差す、ウキウキとした様子の悠理は本当に可愛い。
なんだかんだ言っても、やはり実家が恋しかったのだろう。

「綺麗に手入れをされていますね。あちらの温室も後で拝見して良いですか?」

「もちろんですわ。珍種が揃ってますのよ。うちの庭師は優秀ですから・・・。」

「母ちゃん、後でおらの茶室にも案内するだよ。」

「あら、あの悪趣味な?・・・先生が驚かれてしまうでしょう?」

「あそこはおらの自慢の場所だがや!先生も絶対に気に入るだ。」

気に入るかどうかはさておき、目も眩むほどの金の茶室は、茶道を嗜む清四郎の価値観を真っ向から覆してしまった。

―――本当に規格外だな・・・・この家は。

そこで生まれ育った悠理。
なるほど。
まだ、まともか・・と感じる。

決して’まとも’ではないのだが、恋人の欲目からか、悠理の全てがオブラートに包まれているのだ。
淡いピンク色をしたそれに・・・・。

本格的な紅茶を楽しんでいると、悠理が意を決したように口を開いた。

「母ちゃん。」

「なぁに?」

「あたい、ちゃんと大学部に行くよ。でも・・・・母ちゃんの望むような結婚は出来ない。」

百合子はティーカップを静かに置いた。

「―――なら、貴女は何の為に大学へ?」

「自分の目できちんと選びたいんだ。進路の事も、結婚相手の事も。」

「進路?悠理、貴女まさか仕事に就くつもりなの?」

「・・・・うん。多分、そうなると思う。」

そんな母娘のやり取りを、息をひそめて見守る清四郎。
悠理自ら話を切り出すとは思っても居なかった為、緊張が走る。

「母ちゃん・・・」

万作は不安そうに百合子を窺った。
しかし百合子は何かを考えた様子で、置かれたカップを静かに見つめる。

その間、約30秒。
4人の前に沈黙が横たわった。


そしてようやく百合子の口元が緩み、溜息が洩れる。
彼女はおもむろに掛け衿の隙間から茶色い封筒を取り出すと、悠理達の前に差し出した。

「何?これ・・・」

「開けてご覧なさい。」

悠理は恐る恐る、封筒の中身を取り出す。
それは・・・・・茶色をした一枚の薄い紙。
紛れもない婚姻届であった。

悠理の横でそれを目にした清四郎が、息を詰める。
一瞬で、冷や汗が背中を流れ落ちた。

「貴女たちにはきちんとけじめを付けて貰います。よろしいわね?先生。」

「・・・・・んだ。そこにはおら達の名前も記入済みだがや。後はおめーらの名前を書け。」

「か、か、母ちゃん・・・これって・・・」

「先生、一つ条件があります。」

パニックに陥ったままの悠理を遮り、百合子は清四郎に真正面から向き合う。
その眼光はまさに蛇神そのもの。
逆らう者を決して許さない、強い光を湛えている。

「なん・・・・でしょう。」

清四郎は乾いた口からようやく言葉を捻り出すと、気を落ち着かせるため静かに息を吐いた。

「悠理が高等部を卒業したら、貴方には剣菱の為に働いて頂きます。」

「え?」

「うちの娘を本気で好きだと言うのなら、このくらいの条件、飲み込んで頂けるんでしょう?」

「・・・・・承知、しました。」

「母ちゃん!!!」

悲鳴にも似た怒号を聞き流し、百合子は清四郎を真顔で見つめたままだ。
慌てて立ち上がった悠理は清四郎の首にしがみつく。

――――こんな・・・こんなことって!

「先生!!いいの?それで!あたいの為に・・・こんな犠牲払わなくても・・・!」

「犠牲?犠牲じゃありませんよ、悠理。僕たちは祝福されているんです。」

「え・・・?」

「解りませんか?ご両親に祝福されているんですよ。」

悠理は驚いた。
緊張で強張っていた清四郎の表情が、ゆっくりと和らいでいく。
心底嬉しそうな笑顔へと変わる事で、それが真実だと伝えていた。

「先生の仰る通りよ。馬鹿な娘を大事にしてくれるというのなら、親としてこの上ない喜びだわ。美童ちゃんからもその辺りのこと聞いていてよ。」

「・・・・美童?」

何がなんだか解らない様子で首を傾げる悠理に百合子は苦笑する。

「美童ちゃんはわたくしのサロンのお客様なの。」

「ま、まじでぇ・・・?」

「だって、彼がサロンに顔を出すと、とても華やいだ雰囲気になるんですもの。ね、あなた。」

「わしゃ・・その辺りのことは知らねーだ。」

苦虫を噛んだような万作とは対照的に、晴れやかに笑う百合子。
清四郎は、呆然としたままの悠理の身体をギュッと抱き寄せ、小さく囁いた。

「愛してますよ。幸せになりましょう。」

「・・・・・せんせぇ!」

抱き合う二人を見つめる万作達の視線はとても穏やかで・・・・
その後、早速結婚式の日取りについてあれやこれやと話し合われたが、結局、高校卒業後の6月ということで話は落ち着いた。
百合子の壮大すぎる計画の一端を知った清四郎。
あまりの豪華さに身が竦む思いであったが、悠理の幸せそうなドレス姿を思い描くと、そんな些末なことはどうでも良いと感じた。

「いつから・・・・僕たちの関係をご存知だったんですか?」

「ほほほ、そんなこと。悠理が先生のお宅に厄介になるようになってすぐですわ。」

「え!!?なんで!?」

「貴女が懐くくらいの男性ですもの。遅かれ早かれ特別な感情が生まれるだろうと思っていましたよ。」

清四郎は唖然としながらも尋ねる。

「それを承知の上で・・・お嬢さんを預けられたんですか?」

「わたくしはこう見えても悠理の母です。この子の人を見る目を信用していますわ。」

「母ちゃん・・・・」

感動で涙を零した悠理は両親の側に駆け寄ると、思い切り手を広げ抱きついた。

「二人とも大好き!」

そこに広がる幸せな風景。
清四郎は彼らの絆の強さを思い知り、その一員に加わることを誇らしく思った。

「先生。」

万作がようやく清四郎に声をかける。

「おらの娘をよろしく頼むだ。」

「こちらこそ。どうか僕にお嬢さんを任せてください。」

「んだ。」

こうして大団円で終わった昼食会。

マンションに帰った二人は熱いキスと共に、幸せな未来を思い描く。

「思っていたよりも豪気なご両親でした。」

「・・・・うん。」

「お母さんも懐深い方じゃありませんか。」

「先生、母ちゃんのこと気に入った?」

「ええ、とても。さすがは剣菱の奥方だと思いましたよ。」

「なら良かった。昔、兄ちゃんが少しだけ付き合った見合い相手が居てさ。だけど母ちゃんを見て速攻で逃げ出したんだ。」

清四郎は思わず笑う。
確かに普通のお嬢様では太刀打ち出来ないだろうな・・・。

「お兄さんは今何歳?」

「ん?30だよ。」

「今度、うちの姉と見合いでもさせてみますか?」

「え?」

「姉の方が少し上ですが同じ世代ですし、上手くいけば・・・ね。」

それはただ単に清四郎の軽い思いつきだったのだが・・・。

後に・・・・・
百合子に大層気に入られた清四郎の姉・和子は、悠理の兄・豊作とトントン拍子に結婚が決まってしまう。
更に、豊作は菊正宗家へと婿入りし、病院の経営に携わることとなった為、清四郎は剣菱の跡取りになることを余儀なくされた。
百合子にとっては万々歳の結果である。

ともあれ、悠理と清四郎の二人は、婚姻届に互いの名前を書き添えた上で提出日をクリスマスと定め、引き出しの中へと大切にしまい込んだ。

彼らの未来に一筋の光が真っ直ぐに伸びていた。