「せぇしろってさ……」
一戦(正確には立て続けに三回)終えた後の心地よい微睡みの中、僕の胸にしっとりと抱かれながら妻は言う。
「もし、あん時結婚してたら今ごろ浮気しまくってたのかな。」
一気に目が醒めるような一言を………。剣菱姓を名乗るようになって半年。
慣れないのはその文字ばかりで、剣菱邸での生活は殊の外快適だった。
‘財閥令嬢をとうとうモノにした’
などといった下卑た噂も気にならない。
彼女の生まれ育った環境や家族を想像出来ない奴等に僻まれたとて、少しも腹は痛まないからだ。
一年の婚約期間を経て、正式なやり取りを交わし、とうとう手に入れた後継者の座。
とはいっても長男である豊作氏の存在は無視出来るはずもなく――結局のところ共同経営という形をとることになるだろう。
それもまあいい。
彼は僕とは全く違ったタイプで、ああ見えて色々気が利く人間なのだから。
悠理とは、大学に入学してからも変わらぬ友人関係だった為、暫くは色恋に発展することもなかった。
相変わらずトラブルに巻き込まれる体質で、驚くほど手間をかけさせられていたが、それもまあ楽しい思い出と言えなくもない。
彼女は水を得た魚のように日々を遊び、僕は更なる知識を得る為に大学生活を謳歌した。
恋など、到底している暇はなかった。
それは可憐や野梨子の指摘通り、僕の性格から来るものなのだろうと自覚させられたが、別段困ってもいなかった。
恋などしなくとも、いずれは結婚するだろうと感じていたし、それはあくまでも人生設計の一つだったのだ。
しかし‘恋’という非効率な事象は、突如として目の前に飛び込んでくる。
その相手が悠理であることは後々も大いに悩んだが、僕の優秀な頭脳は同じ結果を何百回と弾き出す。
――悠理を好きになってしまった。
恵まれた人生の中で、これほど不遇に感じたことはあっただろうか?
よりによって、こんな女を好きになるなんて・・・。
それも元婚約者。
見た目は良いが、下品で無鉄砲。
九割方は野生猿、残り一割は幼稚な子供。
好きになる要素は一体どこにあるというのだ?
しかし、あの日。
大学構内で見たあの光景は、僕の彼女に対する認識の全てを覆し、恋への自覚を促した。
悠理が、あの、男に間違われることの多い悠理が、
どこの馬の骨ともつかない男に抱き寄せられているところを見た時、
脳の細い血管がプツンと音を立てて切れた。
僕は医者の息子だ。
それくらいのことは解る。
彼女はその細い体を、図体だけは立派な男に預けていた。
顔はその辺の、可もなく不可もなくといったレベルで、さほど知性を感じさせない風貌だった。
太い筋肉質の腕が、悠理の背中と腰にへばりついている。
その汚ならしい股間が、悠理の下腹部と重なっている。
息がかかるほどの距離。
見ていて吐き気がする光景。
目頭が急に熱を持ち、周りの音が一瞬にして消え去った。
今すぐにでも二人を引き離し、あの男はその辺の窓から放り投げて、そして彼女を救わなくては――
そんな怒りに任せた衝動が湧き起こる。
しかし足が張り付いたように動かない。
当然だ。
僕にその権利は与えられていないのだから。
恋人でもなくただの友人。
それも男女の意識を伴わない、稀有な関係。
それなのに――――
脳が沸騰するほど腹立たしい。
男にも、そして何故か悠理にも・・・・。
おまえの身体に触れる男は僕だけだ。
百歩譲って魅録は許そう。
だが、美童ですら軽々しく触れてほしくない。
そんな理不尽な感情に埋め尽くされ、喉がぎりっと締め付けられる。
―――動け!清四郎!
自分を叱咤し、ようやく動き出した足。
あっという間に二人へと辿り着き、思い描いていた行動に移ろうとした。
しかし―――
「あ!せいしろー!」
彼女は男の腕の中から満面の笑みを見せる。
そして、あっさりと抜け出し、僕の胸へと飛び込んできたのだ。
「えへへ。」
虚を突かれ、言葉を無くしていると・・・
悠理は腕を絡めながら、立ち尽くす男を振り返った。
「ごめん。こいつがあたいの好きなヤツなんだ。」
「うん、菊正宗君だよね。有名人だから知ってる。」
男は薄く微笑み、それでも名残惜しそうに自分の腕を擦っていた。
「ありがとう、僕の我儘を聞いてくれて。」
「良いってば!チューとかだと嫌だったけど、ハグくらいなら別に。」
なるほど。
事態が読めてきたぞ。
悠理に懸想したこの男があっさり断られ、せめてもの願いにと、抱擁を求めたんだな。
そう結論付けたとて、‘ああ、そうですか’と、納得いくはずもなく、それより何より先程の悠理の台詞が脳内を駆け巡り、僕から冷静さを追い払ってしまっていた。
「ハグどころか、指一本触れさせるな!」
………と言ったのは、不穏な気配を察知した男がすたこらと逃げ去った後。
悠理はパシパシと目を瞬かせながら見上げて来る。
「さっきの言葉は本当ですか?それともその場しのぎの嘘?」
カァっと頬を赤くした彼女がその答えだけれども、僕は敢えてもう一度請うた。
「ほ、ほんと。」
詳しく聞けば、半年も前から想っていたと言う。
よくもまあ、今まで黙っていられたものだ。
彼女の性格を考えたらその苦労が窺い知れる。
「好きなんだ、清四郎が。」
「ええ。」
「イヤなら………諦めるけど。」
「さっきの台詞、聞いてなかったんですか?」
こういうコトには鈍感な悠理。
ん?と首を傾げ、曇り無き表情を見せつける。
「残念なことに僕は今さっき気付いたばかりなんですよ。自分でも驚くほど独占欲が強いことも――」
「どくせん………よく?」
「なので覚悟してもらいましょう。」
腕の中に飛び込んできた彼女を、二度と他の男に触れされるものか。
その決意を伝えるべく、僕は抱き締める腕に力を込めた。
・
・
・
「あの時―――とは、高校時代のことですか?」
「そ!」
決して神妙な顔つきではなく、どこか茶化した様な雰囲気を漂わせる。
僕の汗ばんだ胸を指で弄りながら………。
「あたいのこと、好きじゃなかったろ?なのにおまえってば、結婚しようとしてたんだよな。てことは、他で適当に遊ぼうと思ってた?」
確かに、
確かにあの時の僕は、悠理への気持ちを必要としていなかった。
容姿はともかく、性格は我儘でハチャメチャ。
気が遠くなる様な馬鹿で、とんでもないトラブルメーカー。
女として、魅力ある要素は全くなかった。
もちろん人間としては面白いと感じていた。
いつもいつも驚かされる。
決闘を申し込まれた時も、悠理らしいと感じた。
負ける気はさらさらなかったが、ここは実力を見せつけねばと、普段は滅多に出すことのない闘志をみなぎらせた。
彼女はいつも僕を点火させる。
あの燃え盛るような情熱に、沈み込んでいる何かが発掘され、それに身を任せることがとても楽しい。
そう、彼女と居ることは楽しいのだ。
他の誰よりも、心を浮き立たせる。
うんざりしながらも、悠理の我儘をどう叶えてやろうか考えれば、自然と頬が緩んでくる。
―――僕にとって、悠理は、必要不可欠な存在。
僕の人生を彩ることが出来る、唯一の人間。
それは恋よりも愛よりも、大きな価値があると思う。
「僕はね、悠理。」
「ん?」
「おまえを本気で泣かせる事など、昔も今も出来ませんよ。」
「え?」
「だから、あの時に結婚していても、きっとおまえだけを大切にしました。」
見つめてくる瞳がどんどんと潤む。
感情の昂りが見てとれる。
「ほ、ほんとぉ?」
「ええ。だいたいおまえの方が浮気していそうだ。僕のことをあれほど嫌がってたんですから。」
しかし悠理は首を振る。
大きく横に……。
「しない!あたいはしない。」
「何故、そう言いきれるんです?」
もじもじと肩を小さくする姿が可愛くて、もう一度「何故?」と聞いてみた。
「あ、あたい……あん時もし結婚してても、いつか清四郎のこと好きになってたと思う。」
「あんな余裕のない僕を?」
「だってさ、結婚したら、いずれこんなコトしただろ?」
「は?」
「せぇしろうとのエッチ・・・すごく気持ちいいんだもん。」
――――こらこら。何を言い出すんです、この獣は。
「なるほど。僕のセックスはそこまでの価値があるわけだ。」
「う、うん。」
ビシッ!
悠理のおでこを弾く。
ちょっと強めに。
「イデ!!何すんだよぉ!」
「馬鹿ですねぇ、相変わらず。」
「なんで!?」
「おまえを愛しているからこそセックスに熱が入るんです。感情を伴わないセックスなど排泄行為と同じだ。」
「は、排泄!?」
「おまえを感じさせたくて仕方ないのは、愛があるからに決まっているでしょう?そうじゃなければ、自分の快楽にのみ耽りますよ。」
パチクリ開いた目がようやく理解を示し、とろんと艶を帯びる。
「清四郎が、あたいを愛してるから気持ちいいんだ。」
「そう。そしておまえも僕を求めているから、二人に大いなる快楽が生まれるんです。」
何を今さら――とは思えなかった。
悠理の顔がまるで大輪の薔薇のようにほころんだから。
「あたい、清四郎と結婚してよかった!」
「僕も、毎日そう思ってますよ。」
「えへへ。」
何という純粋な可愛さを示すのだろう。
僕の心を揺り動かす、世界で一人だけの女。
感動のままに、本日二度目(正確には四度目)の愛を確かめ合うべく、彼女をシーツに押し付けたのは、至極当然のことであった。