「うぅ~………いてぇ」
放課後の部室。
いつもなら、おやつに心奪われ、軽やかなステップを踏みながら、ご機嫌な様子でやって来るはずの悠理。
今日は部屋に入るなり、倒れこむよう椅子に座ると、テーブルに顎を乗せ呻き始めた。
彼女の両腕は腹部を覆い隠すように重ねられている。
「どうしたんです?また何か食べ過ぎましたか?」
一人居残り予算報告書に目を通していた清四郎は、学習能力のないお馬鹿な友人を白い目で、しかし心配そうに見つめる。
「おまえなぁ。あたいの腹痛の原因全部が食い過ぎだと思うなよ。あたいにだってなぁ・・・イテテテ、あぁ、くそぉ、いてぇー!何だよもう!」
余程痛むらしい。
痛みにすら悪態を吐き始めた。
「・・・あぁ、月のものですね。しかし珍しくありませんか?おまえがそこまで痛がっている姿など見たことありませんよ。」
「うう・・・、普段は軽い方だかんな。けど一年に一回、スゲー痛くなるんだ。いつもは夏休みに当たるのに、今回ずれ込んじゃってさ。ひでーのなんのって。」
清四郎はふむと顎に手を当て立ち上がると、薬品棚へと真っ直ぐに向かう。
そこには、風邪薬や睡眠薬、高校生にはあるまじき二日酔いの薬や、怪しげな海外の秘薬まで並んでいた。
何に使うかは謎だが、それらのほとんどが清四郎の手製だ。
その中から迷わず取り出したのは赤い包装紙に包まれた痛み止め。
清四郎は水と共にそれを差し出した。
「ほら、これを飲みなさい。」
「ん~。」
目を細めた悠理が机から顔を離し、ゆっくり身体を起こした瞬間、清四郎の良く利く鼻に微かな血の匂いが伝わる。
それは驚くほど甘く、脳髄を痺れさせるもので・・・
彼女がのろのろとした動きで薬を受け取り水を飲み始めても、清四郎はピクリとも動けなかった。
『なんだ?この香りは・・・お菓子などとは違う・・・これは・・・・』
女らしさの欠片も無い、むしろ女に生まれてきたことが何かの間違いだったんだと、常々気の毒に思ってきた清四郎。
しかし今、この何とも言えぬ甘い香りを振り撒いているのは、そんな女とも思えないはずの悠理だった。
今まで血の匂いになど甘いと感じたことはない。
・・・・・僕の鼻がおかしくなったのか?はたまたフェロモンの類いか?
清四郎は珍しく混乱していた。
脳裏に浮かぶは月の満ち欠け。
毎月産み落とされるであろう、彼女の健康的で美しい卵子。
それを包み込むはずの寝床は剥がれ落ち、さらりと流れて行く。
奇跡的に精子が到達せねば、その虚しいサイクルは幾度となく繰り返され、女は毎月血を流す。
行き場の無い男の精と果たしてどちらが虚しいのだろうか。
「悠理。香水か何か、付け始めましたか?」
ようやくそう問えるだけの意識を取り戻す。
「香水ぃ?んなもんつけてないぞ?鼻がひん曲がっちゃうだろ!」
悠理はぶっきらぼうに答えた。
「ですよね。」
となると、やはりこれは彼女の体内から発する香り。
なんと興味深い!
清四郎は辺りを見回し、ソファに掛けてあったブランケットを手に取ると、ふわりと悠理の身体を包んだ。
「冷やしてはいけませんからね。今日は早めに迎えに来てもらいなさい。」
「ん、そーする。・・・・・・・・あんがと。」
思わずブランケットごと抱き締め、温めてやりたくなる。
肩を細めた悠理はいつになく華奢に見え、痛みに耐える苦悶した表情が胸を絞るほど痛々しい。
・・・女、なんですね。やはり。
当たり前の事を今初めて気づいたかのように、目を瞠る。
そう、悠理の身体はもう既に子供を作る準備が整っているのだ。
どれだけ粗雑で子供っぽく見えても、女らしくなくても、その気になれば母親にだってなれる。
清四郎はここまで考えて、ようやく苦笑した。
誰が悠理にそんな気を起こすというのか。
馬鹿馬鹿しい。
しかし・・・・・
彼女も年頃になれば、男が寄ってくるかもしれない。
今は色気の欠片すら見当たらないが、あと数年も経てば美しさに拍車がかかり、目をつける輩が現れないとも限らない。
そしてもし万が一、恋をしたら。
彼女がその男を受け入れたら。
その男だけが彼女の卵子に辿り着くことを許されるのだ。
そう考えた瞬間、清四郎はゾッとした。
悠理の華奢な抱き寄せ、身体を開き、思う存分責め立てる男を想像すれば、吐き気がこみ上げてくる。
なんだ?この不快感は!
瞼に浮かぶは、白い脚の間から流れる、赤く細い筋。
それは月のモノなどではない。
たった一度の破瓜の証。
ゾッとする。
到底我慢など出来ない憤りが胸に湧く。
自分以外の誰かが、悠理に触れるなんて事・・・・許せるはずがない。
嫌悪感と共に、その感情の糸口を恐る恐る探れば、それは呆気ないほど簡単に見つかった。
「嫉妬・・・・ですか。」
思い掛けず、声に出してしまうほどの衝撃。
清四郎は口元を手で覆い、その衝撃に耐えた。
その意味はさすがにもう、理解出来ている。
「なに、嫉妬?」
悠理は腹を押さえたまま振り返り、清四郎の言葉を訝しげに聞き返す。
「悠理・・・・」
「ん?」
「僕の恋人になりませんか?」
「・・・・・・・はぁ?」
目を見開いた直後、悠理の身体は大きな腕に包まれていた。
温かくて頑丈なその中で、清潔感漂う香りが広がる。
「ちょ、何してんの!?」
「悠理・・・・僕は、どうやらおまえが好きみたいです。」
その声は聞いたことが無いほど甘く、身震いするほど優しかった。
「・・・・好きぃ??」
「おまえを誰にもやりたくない。僕のものになってくれ。」
不可解な言動をする男の胸で、悠理は混乱したまま硬直する。
「ちょ、ちょっと待て!よく解んないってば。つか・・・痛くて・・・それどころじゃ・・」
「温めてやりましょう。」
清四郎は悠理を椅子から立たせると、あっという間に抱え上げソファへと向かった。
「こ、こら、離せ・・・・・馬鹿!」
「ほら、暴れると余計に痛みが増しますよ。」
「誰のせいだとっ!」
どれだけ暴れても無駄なことは解っている。
二人してソファに座り込んだ後も、膝に抱かれた状態の悠理は、痛みが遠退いていく感覚にホッと一息吐いた。
ただ単に薬が効いてきたのかもしれないが・・・。
清四郎の熱い体温と息が首元にかかる。
ブランケットで包み込まれていると、そのまま眠りに入っていきたくなる。
「’好き’・・・ってほんとに?」
「ええ。」
「おまえ・・・嘘つきだからなぁ・・・。」
ウトウトと船を漕ぎ出す悠理の耳に、優しい声が忍び込む。
「大丈夫。これから時間をかけて・・・・おまえの心に刻みこんでやりますよ。」
『ふ・・・ん。ま、いっか。今はこんなにも気持ちいいし・・・それに、こいつもなんでか優しいし・・・。』
難しいことは後回しで良い。
清四郎の懐で甘える心地良さは折り紙付きなのだから・・・。
瞼を閉じれば、悠理はようやく全ての苦痛から静かに解放されていった。