「ねぇ、おじさん。あたしを10万で買わない?」
ネオン輝く銀座の街角。
彼が思わず立ち止まったのは、その金額に驚いたからではない。
まだ幼さを残す少女が、どことなく若かりし頃の妻の面差しに似ていたからだ。
背伸びするように履いた、ピンヒールのサンダル。
足の指には濃いピンク色のペディキュア。
太股が露なミニワンピは、自信があるのだろう形良い脚をこれでもかと見せつけていた。
色素の薄い瞳とカラーリングしたばかりの茶色い髪。
目鼻立ちの通った美少女だが、勿論清四郎の雄をそそるものではない。
今頃、久々のデートのために洋服選びを苦戦しているだろう彼の妻は、その辺の女では太刀打ち出来ないほどの美貌の持ち主。
きっと、ワクワクしながら、期待に頬を染めていることだろう。
思い浮かべるだけで、ギュッと抱き締めたくなる。
「何故僕に声をかけたんです?」
「だって、おじさん、すごーくお金持ちそうだったから。10万って金額にも驚かないってことは、あたしの読み、当たってたでしょ?」
「ほう。」
なるほど、見かけによらず洞察力に優れているらしい。
清四郎は感心した様子で、顎を撫でた。
彼女が見抜いた通り、彼は日本でも桁違いの金持ちだ。
ここ10年で急成長し、今や世界で一、二を争うようになった剣菱財閥。
その次期会長候補である清四郎が、裕福そうに見えるのは当然である。
10万単位の金など取るに足らない。
フルオーダーのスーツで身を整えた彼はブルーダイヤのタイピンをキラリ、輝かせる。
それは先月迎えた35の誕生日に愛妻からプレゼントされたとっておきの品。
彼女のセンスも年を追う毎に磨かれていく。
「で?君の言う‘10万’の根拠とは?もちろんそれだけの商品価値があると言いたいんでしょう?」
「うん!だってあたし処女だもん!」
「・・・・・・。」
清四郎は思わず絶句してしまう。
遊郭で水揚げされる遊女達の方がよほど慎みがあったことだろう。
今目の前に立つ、決して生活に困ってなさそうな少女よりかは、よほど━━━━
「なるほど。君にとってそれが一番の価値なんですね?」
「え、違う?おじさんはあたしみたいな若くて可愛い女の子の’初めて’欲しいと思わない?」
「思いませんね。」
清々しいほどきっぱりと言い切られ、少女は目を瞠る。
それは何か不穏な空気が漂い始めた予感。
まるで学校にいるうるさ型の教師のように、彼の目が細められた。
「そんなものに一体何の価値があるんです?手管も話術ない、ただマグロのように転がった未成熟な身体に興奮する男は童貞かロリコンのどちらかですよ。10万という金額を提示するのなら、それなりに相手を楽しませる術を持って然りです。それに……………」
コホンと咳払いし、清四郎は続ける。
「君は確かに可愛らしい顔をしているが、プライドの欠片も無い人間だ。少なくとも僕は魅力を感じない。道を歩いているだけで‘君のためになら何を投げ出しても惜しくない’、男にそう思わせる女性に成長しようと、どうして思わないんです?」
畳み掛けるような説教に唖然としたままだった少女が、ワンピースの裾を握りしめる。
震え始めた唇。
それを噛み締めることで、涙を我慢しているようにも見えた。
「し、しょうがないじゃない!あたしには誰も見向きもしないんだから!彼氏も、友達も、親だって!!皆、あたしなんか必要としてないんだもん!」
そう叫んだ少女は人目も気にせず、その場に座り込んでしまった。
あまつさえ膝を抱えて泣き始める。
これには清四郎も流石にマズイと思い始めたらしい。
慌てて膝を折り、立つように促す。
このままでは善良な都民が警察を呼んでしまうかもしれない。
もちろん疚しい事は何もないが………外聞の悪さは極めつけだ。
特に今夜は悠理との待ち合わせが控えている。
子供抜きのお泊まりデートは半年ぶり。
誰の目も気にせず、たっぷり一晩かけて、彼女を味わい尽くすつもりなのだから。
清四郎は自らの足で選んだプレゼントの紙袋を強く握った。
「と、とにかく、あそこへ移動しましょう。」
指差した先は都内でもトップクラスの外資系ホテル。
先々月、剣菱と資本を出し合ってオープンしたばかりのラグジュアリーホテルである。
恐る恐る顔を上げた少女は「やっぱしたいんじゃん」と呟いたが、清四郎は即座に否定する。
「泣かせたお詫びに紅茶を奢るだけですよ」
そう告げて。
・
・
・
「剣菱様、ようこそ。」
「こんばんは、高遠たかとうさん。少しは落ち着きましたか?」
「ええ、おかげさまで。まだまだ課題は山積みですが・・・と、おや、お宅のお嬢様………ではございませんね。」
優しい笑顔の下、鋭く指摘するジェネラルマネージャーの彼は、清四郎の古くからの知人でもある。
「ええ。彼女とはちょっとした偶然で知り合ったんです。僕は珈琲、彼女にはとっておきの紅茶………」
「パフェも食べたい。」
「・・・・・と、パフェを。」
モノトーンの家具が並べられたロビーラウンジの一角。
生い茂る南国の観葉植物に隠れたL字型のソファに二人は座り、ある一定の緊張と共に、しばらくの間沈黙を貫いていた。
薫り高い珈琲と厳選された茶葉で淹れられた紅茶が届けられ、ようやく気持ちが和らぐ。
清四郎は彼女がこんな雰囲気に居ても物怖じしていない事を見留め、想定していたよりも上流家庭の子供であるだろうと思い至った。
枝毛一つ無いサラサラのロングヘア。
ワンピースや靴は渋谷などで手に入るいかにもなブランドだが、耳を飾るピアスだけは紛う事なき本物のルビー。
それも上質だ。
家族からのプレゼント、かもしれない。
「で?年はいくつなんです?」
「・・・・・。」
「背伸びしていると考えて、16・・・いや、15か?」
「16!!高校生だよ!」
不貞腐れて見せる表情は年相応で、薄い化粧の下に隠された肌はまだまだ子供のそれだろう、と清四郎は思った。
タイミング良く運ばれてきたパフェは、これまたフルーツが山のように盛られた豪華な一皿。
お腹が空いていたのか、はたまたパフェに目がないのか、少女は目を輝かせスプーンを握った。
「いただきまーす!」
━━━━さっきまで泣いていた烏が………
まるで昔の悠理を見ているようで心がほんわりと温もる。
「おじさんって、ほんとに大金持ちっぽいね。さっきの人、このホテルの偉い人でしょ?わざわざ挨拶にくるなんてよっぽどだよ。」
「君も随分と場馴れしてるじゃないですか。それに一通りの作法を叩き込まれていますね?ソファの座り方も、紅茶の飲み方も、教育された痕跡がそこかしこに見えますよ。」
少女はスプーンを持つ手を止め、清四郎の目を見つめる。
まだ会って間もない男。
しかし、こんなにも注意深く、自分を観察してくれた人間は果たして居ただろうか?
親ですら、透明なガラスのような扱いをしていた。
小さなひび割れを見逃して、表面だけを磨き上げる滑稽さ。
年頃の娘がどんな生活を送っているのかなど、興味もないのだろう。
日々のお小遣いだけを手渡し、食事すら一緒にとろうとはしない。
「おじさん。」
「なんです?」
「やっぱ、おじさんがいい。お金なんて要らないから………あたしの初めての人になって?」
「お断りします。」
「それって、あたしに魅力がないから?」
「もちろんそれもありますが………僕は好きな女しか抱けないので。」
「………………奥さん?」
男の左手に光るプラチナの輪。
他人のものである証に少女の心がさざなみを立てる。
「それ………一晩外してよ。」
「出来ません。」
「おじさんが言ったんじゃん!女として成長しろって!なら最初の一歩くらい手伝ってくれてもいいでしょ!?」
「手伝う義理がありますか?」
突きつけられた正論が胸を抉る。
少女は震える手を握りしめながら、下唇を噛み締めた。
どうしたら彼の心を動かせるのか…………
まだ子供の殻を破ることが出来ない彼女は、答えを導き出せない。
けれど目の前の、端正な顔で毒を吐く男の手が、今は欲しくて仕方なかった。
「一人でも大丈夫なように、力を貸してほしいの。」
「孤独なのは君自身の責任です。友人も、家族も、恋人も、全ては正しく望めば手に入るものばかりなんですよ。それに君はまだ若い。一体何を諦めることがあるんです?」
またしても正論をぶつけられ、少女は項垂れる。
パフェの受け皿に涙が一滴零れ落ちたのを見て、清四郎はふと自分の発言を振り返った。
何故ここまで構う?
適当にあしらえば良かっただけの話じゃないか?
顔立ちは悠理とほんの少しだけ似ているけれど、だからといって梃子入れしたくなるほどの魅力はない。
彼女と同じ年頃だった悠理は、誰も寄せ付けないほどのパワーと魅力を兼ね備えていた。
自分など恋していることにも気付かなかったくらい、’剣菱悠理’という人間に心奪われていたのだから・・・・。
「そんなにも………………奥さんが好き?」
「心から愛してます。」
「どんな人?」
「二人といない女性ですよ。個性的で美しくて、太陽そのものの輝きを持っている。僕は彼女を裏切る真似だけは絶対に出来ません。」
「奥さんが羨ましいな。私なんて初めて付き合った彼氏に三股かけられてて、それも自分が三番目。クラスメイトも全員知ってたのに、誰一人として教えてくれなかった。きっと陰で笑ってたんだろうね。」
自虐的な言葉が止まらない。
少女はとうとうスプーンを置き、涙を流す顔を両手で覆った。
清四郎はじっとその様子を見つめている。
声を押し殺し泣く姿はあまりにも痛々しくて、思わず手を伸ばし柔らかい頭を撫でた。
━━━━━彼女はまだ子供なのだ。
大人になる過程で選ぶべき扉を見失っている。
だが、それを導いてやるには、彼女自身、心が前を向いていなければ意味がない。
孤独と寂しさに雁字搦めにされているようでは話にならない。
「僕の友人にとても優しい女性がいます。彼女を見倣ってみてはどうですか?」
「友人?」
「気立ての良い、魅力ある美人です。きっと良い話し相手になりますよ。」
清四郎は内ポケットの携帯電話を手に取り、素早くメールを打つ。
昔から年下の女性に支持されている彼女だからこそ、この少女の拠り所になれるのではないか。
そう思ったからだ。
「僕はこれから予定があります。なので今からここにやって来る女性が代わりに話を聞いてくれるでしょう。存分に甘えたらいいですよ。可憐は包容力のある人ですから。」
「え、おじさんは居てくれないの?」
不安そうに尋ねる彼女へ、清四郎は首を振り両手を肩まで上げる。
「タイムリミットです。これ以上はさすがに、ね。妻の不興を買ってしまう。」
「誰の不興を買うって?」
声がする方向へと二人同時に振り向く。
そこには━━━━
一見、モデルかと見紛うほどの美女が観葉植物の間に仁王立ちしていた。
薄く透けた茶色い髪が肩へと降りかかる。
細い肩から伸びる長い手。
胸は大きくないものの、均整の取れた身体。
ゴールドのラメを散らしたカシュクールにタイトな黒革のミニスカート。
傷一つ無い美しい脚は、レースアップのロングブーツが良く似合う。
「悠理!」
「何、油売ってんだよ。」
仏頂面で尋ねれば、夫は慌てて立ち上がる。
「今、レストランに向かうところでした。」
「早くいこーぜ。腹減ってんだ。」
「フレンチよりも鉄板焼きが良かったんですよね?」
「そ。肉がガツンと食いたいんだ。」
少女は突如現れた悠理に目が釘付けになったままだ。
(この人が、彼の奥さん・・・・・確かに美人だけど・・・・・・・・・)
「で?こいつ、誰?」
「ああ・・・・・・・・今知り合ったばかりの高校生です。道端で僕とぶつかって転んでしまったんですよ。お詫びにお茶を・・・。」
「ふ~ん。」
悠理がこの手のウソに騙されてはくれないことを知っているが、かといって援交を持ちかけられたとはさすがに言えない。
清四郎は精一杯の作り笑顔で妻と対峙した。
「ま、いいや。さ!行こ。」
夫に腕を絡めた悠理は強引に方向転換させると、本来の目的地である最上階のレストランを目指した。
清四郎もまた、少女を振り向いたりはしない。
どれほど切ない視線を背中に感じていようとも・・・・・・・。
直通エレベーターに乗り込んだ瞬間、悠理の両手が清四郎の身体を四隅の角に押し付ける。
野生じみた瞳がギラリと輝き、それに思わず見惚れていると、いきなり噛みつくようなキスをされた。
いや、実際噛みつかれたのだ・・・・・。
「っつ・・・!」
「反射神経の良いおまえがぶつかったって?あの子に?」
「・・・・・・・事故のようなものです。」
「どんなだよ。」
真実を言おうかどうかを迷っていると、再びキスと言う名の攻撃を与えてくる。
「・・・・っ・・・ゆう・・・・り・・・・僕は潔白ですよ。」
「あほ・・・!潔白だろうが何だろうが、あたいの男があんなホテルの隅っこで若い女としゃべってること事態おかしいんだよ。許せないんだ!」
メラメラと立ち上る嫉妬に清四郎の胸が焼ける。
「そうですね・・・・・・・つい・・・・。」
「’つい’?」
「昔のおまえと少し似ていたので、つい・・・・優しくしてしまいました。」
「似てた?あたいと?」
驚異的な視力を持つ悠理の目は、しかしちっともそうは捉えていなかった。
相手はどう見ても乳臭い高校生のガキ。
雑誌を切り抜いたような服装に、ちっとも似合っていない化粧。
そんな若い女と並んで座る夫を見て、頭が燃えるようにいきり立ったのだ。
「ちっとも似てないやい!」
息巻く悠理。
「そうですね。野生猿とはいえ、昔のおまえの方がよほど美人でした。」
「野生猿って・・・・・・・・・もう!蒸し返すなよ。」
過去の自分が恥ずかしいのか、途端にモジモジし始める可愛らしい妻。
とても30半ばとは思えぬ純情さだ。
清四郎は横目でさりげなく残りの回数を目に留め、彼女の腰に腕を回した。
「今はもう誰が見ても・・・・・・・・極上のマダムですけどね。」
「あ・・・・っ!」
軽やかな音が到着の合図を知らせるまで、彼らは重なり合ったままキスに耽る。
小さなわだかまりも、こうすればあっという間に消えていく二人。
結婚10年目を迎える今日。
清四郎の手にはとっておきの指輪が入った紙袋が一つ。
そして目眩く夜を楽しむスイートルームには、色とりどりの花と世界一のパティシエが用意したケーキが並べられているはずだ。
「悠理、愛していますよ。」
「・・・・・あたいも・・・・・・・・・・・・愛してる・・・・。」
濃厚なキスに力が抜け、自然と胸に寄りかかってくる悠理を、彼は優しい抱擁で応える。
願わくば、あの傷ついた彼女にも運命の出会いが訪れる事を祈って・・・・・。