New Voyage

 

「シャンパンを一人で飲むのは寂しいんでね。付き合ってくれるでしょう?」

仄かなナイトスタンドに照らされた男は、グラスを二つ手にする。
ワインクーラーに沈みこんだままの黄金のクリュッグはピノ・ノワールのヴィンテージもの。
一般人ではなかなか手に入らないそれを、いとも簡単に開け放ち光の水を注ぐ。
細かい泡は上質の証。
悠理は差し出されたグラスを手に取ると、乾杯もせずに飲み干した。

二人は今、とある外資系ホテルのスイートに居る。
150平米の広い部屋に二人きり。
そう、二人きりなのだ。

長年、比較的良好な友人関係を築いてきた彼ら。
傍目には決して相性が良いとは言えない二人だったが、かといってその関係を断ち切る理由も見当たらない。
腐れ縁よろしく、つるんでいた。
大学も卒業間近。
清四郎の進路はアメリカの大学院へと決まっている。
悠理は、自由の国で楽しもうとする清四郎を羨ましく感じ、結局は金持ち娘の道楽で一緒に渡米することが決まっていた。
決して働くつもりはないらしい。
しかし名目は海外にある剣菱企業の視察、ということになっているのだから、彼女はやはり生まれながらにして勝者なのだろう。

―――いったい何の視察やら。
それを聞いた仲間たちは、一斉に溜め息を吐いたという。

そんな二人が何故、ホテルに?

事の発端は剣菱にかかってきた一本の脅迫電話。
‘犯人’は剣菱が処女航海させたばかりの豪華客船‘キングリリー’号を遠隔操作で爆破すると予告した。
使用されるは弾道ミサイル。
しかし果たしてその爆弾が、何処のどの国に設置されているか、どういった経路で手に入れたのか、全ては謎に包まれている。

―――もしかしてただの脅しでは?

電話を受け取った剣菱万作はそう思った。
彼も数多くの修羅場を潜り抜けてきた猛者なのだからして。
しかしその時、客船はハワイ沖を航海中で、300人いる乗客の多くは富裕層。
中には大物政治家や芸能人、スポーツ選手や資産家もお忍びで乗船していた。
無論、万作の友人も多く含まれている。
その上、‘犯人’の要求はなかなかに無理のあるもので、剣菱側から出す妥協案は悉く断られていた。
相手が提示してきた要求。
それはUSドルで約10億円を期日までに指定された口座に支払うこと。
少しでも警察に洩らせば、ミサイルのゴーサインを出すと言う。

万作にとってこの処女航海は、大切な友人達へのプレゼントでもあった。
万が一、彼らに何かあったら申し訳がたたない。
ヘリや救命ボートでこっそり救おうと考えたが、犯人はそれを見透かしているのか、先手先手を打って連絡をいれてくる。
少しでも不穏な動きをすれば、コードを入力し、すぐに発射すると脅してくるのだ。

犯人像が見えてこず、焦った万作はとうとう悠理を通し清四郎に泣きついた。
当然の如く、清四郎は親身になってくれるはずだった。
誰よりも頼りになることは、万作も百合子も嫌と言うほど知っている。
勿論、悠理も・・・。

「清四郎、父ちゃんは絶対に乗客の命優先なんだ。わかるだろ?」

「当然です。おじさんの親友が何人も乗船してるんですから。」

「警察にも言っちゃダメだし。でもおまえと魅録なら何とかしてくれるかなって。」

「今回、魅録には伝えていません。」

「え?」

「忘れたんですか?彼は来年、警察官僚の道を目指すんですよ?こんな事に巻き込まれたら大変でしょう?」

「で、でも時宗のおっちゃんの息子なら何とでもなりそうだけど?」

「だからこそ余計に厳しい目で注目されるんです。」

「ふ~ん。」

お馬鹿な悠理はその辺りの複雑な事情が解らない。
いついかなる時も、超法規的な手段で守られてきた女だ。
大概の事は力づくで解決出来ると信じて止まない。

「僕がなんとかします。」

「あ、うん。頼む。」

「しかし、条件がある。」

「え?条件?」

男のそんな言葉は初めて耳にする。
悠理はポカンと清四郎を見つめた。
真っ直ぐな視線に射抜かれながら、次の言葉を待つ。

「おまえが、欲しい。」

――――おまえがほしい?

唐突として告げられた言葉が、なかなか脳に到達せず、悠理は真顔で清四郎を見つめ続けた。
そんな様子に清四郎は再び口を開く。

「無事このトラブルを解決させることが出来たら、おまえの全てを僕にください。」

「す、全てって?」

「文字通り‘全て’、ですよ。おまえの体も、心も、未来も。全て僕にください。」

ゆっくりと伸ばされた指は、悠理の頬を優しく撫でる。
それはついぞされたことの無い繊細な触れ方だった。

「この艶やかな頬や綺麗な瞳、甘そうな唇にキスする権利を。そして、誰も触れていないだろうこの身体を、僕のモノで啼かせる権利を下さい。」

「な、な、なにいってんだ、おまえ!い、一体どーしちゃったんだよ!?」

「本気ですよ。無理だと言うのなら、この話はここで終わりです。」

悠理は混乱する。
それも当然だ。
長年、仲間と信じて来た男。
誰よりも好奇心旺盛で、どんな困難をも乗りきる知恵を持つ男だ。
いくら腹黒いからとは故、こんな風に交換条件を出すなんてこと、今まで一度たりともなかった。
しかし、清四郎の瞳は真摯に光る。

「悠理。必ずおじさんや皆を助ける。だから条件をのんでくれ。僕はおまえに怖いことをするわけじゃないんだ。」

「な、なんで?なんでそんなこと・・・。」

「ただ、おまえが欲しいだけだ。」

そんな情熱的な台詞を言われた覚えはない。
悠理の胸は打ち震え、体温が急上昇する。

そして気付けば、コクンと頷いていた。
交換条件をのんだというよりは、清四郎の熱意に絆されたと言ったほうが正しいのかもしれない。

「本当にいいんですね?」

「う、うん。」

そうして、悠理は清四郎の手に落ちた。
あまりにも呆気なく・・・・

それからの清四郎の行動は速かった。
電話に残された通話記録から発信元を探り、あっさりと犯人の手がかりを見つける。
そこは港町にある廃墟と化した倉庫街。
その一角に、‘あじと’と思わしき痕跡を見つけた。
最低限のパソコンシステム。
だがその中の複雑なプログラムを目にした清四郎は眉間にシワを寄せた。

「解除コードは、三回入力に失敗すると永遠に解けない仕組みになっている。」

「んなもん・・・・わかんのかよ!?」

「これ以上の手がかりはありませんからね。」

顎に手を当て、思案げに指を伸ばす。
打ち込んだコードは今居る倉庫の番号だった。
しかし無情にもエラー音が響き渡る。

「あと、二回だぞ?」

「ええ。慎重に考えます。」

「清四郎・・・・」

「なんです?」

「おまえなら出来るよ。」

「ふ。良いんですか?成功したらおまえは有無も言わさず僕のものですよ?」

「・・・・わぁってる。」

「悠理・・・」

清四郎は深く息を吐くと、次のコードを打ち込んだ。
それは着信履歴から得た番号。
下四桁を入力する。
だが再び耳障りなエラー音が鳴る。

「ほ、他に番号!なんか分かりやすくて目立つ数字だよな!」

「そうですね・・・この計画を決断した時に思いついた番号でしょうから・・・・」

暫く沈黙していた二人が、同時にふと思い当たった数字。
それは‘キングリリー’号の船体に書かれた番号だった。

「父ちゃんの船!?すぐに聞いてみる!」

悠理は万作の携帯電話へとかける。

「×××‐1130だって!」

「間違いありませんか?」

「うん!これ母ちゃんの誕生日なんだ!」

「了解です。」

清四郎は躊躇わずにそのコードを入力する。
息を呑んで見守っていると、ピピ、と電子音がしてミサイルの発射システムが解除されたことが解った。

しかし・・・

「悠理、逃げますよ!」

「え!なんで?」

「解除コードを入力した後、この倉庫の爆破システムが起動してしまいました。さすがにそのコードまでは解りません!」

「ば、爆破!!?」

清四郎は悠理の腕を掴み、全速力で倉庫から飛び出すと、目の前に広がる湾へとまっすぐにダイブした。
その直後、大きな爆発音が海の中にまで響く。
水面に顔を出した二人は互いに見つめ合い、危機一髪、難を逃れたことに喜びを示し抱き合った。

そうしてこの事件は一件落着・・のはずだったのだが。

悠理はグラスを乱暴に置くと、清四郎のネクタイをグイッと引き寄せた。

「おまえ、何考えてんだ!?」

「と言いますと?」

「あの脅迫事件、犯人はおまえだろ?それも証拠隠滅の為に爆破までしやがって!」

「おや、よく解りましたね。」

驚いた様子も見せず、首を竦める。

「あんな嘘まで吐いて、何がしたかったんだよ!」

「決まっているでしょう?」

「何!?」

「言いましたよね?おまえが欲しいと。」

「まさか・・・・それだけのために??」

「ええ。そしておまえはそれに頷いた。言質は取らせて貰いましたよ。」

清四郎は、人の悪い笑みを浮かべるとネクタイを掴んだままの悠理の手をそっと引き寄せる。

「愛してます。悠理。」

それはあまりにも切ない響き。
悠理は口ごもった様子で、しかし責めるような目を見せた。

「なら、あんなことしなくても良かった!!あたいは、あたいは、おまえだったら・・・」

「僕が素直に告白したら受け入れてくれたと?」

「そ、それは・・・」

「ふ、そんな想像したこともないな。」

「清四郎!!」

糾弾するかのように叫んだ悠理は、あっという間に抱きすくめられてしまう。

「一緒に堕ちてくださいよ。僕と。」

「え?」

「おまえとならどんな世界でもきっと楽しい。たとえ、地獄でも、ね。」

心臓の真上で呟く男の声は、まるで火を焼(く)べられたように全身を熱くさせてゆく。

「清四郎・・・そんなにあたいが欲しいのか?」

「ええ、ほら?もう半分狂っているでしょう?毎晩魘されるんですよ。おまえを求めすぎて悪夢を見るんです。手に入れるまでこんな夢が続くのかと思えば、我が身を地獄へ突き落としたくなるな。」

悠理は目を覆いたくなった。
自分に晒している『らしくない清四郎』から、目を背けたくなったのだ。

「僕を見捨てますか?」

――――見捨てる?

そんな事、考えたこともない。
いつも仲間を助けようと、最後まで必死で足掻いてくれる男を、見捨てるなんて出来やしない。
それに結局は、同じ穴の狢(むじな)なのだ。
自分達だって犯罪ギリギリの事をしでかしてきた。
今さらこんな事で動じるはずもない。

だから、だから・・・・

「清四郎、真っ直ぐこっちを見ろ!」

「悠理?」

「素直に言え!あたいが好きなんだろ?」

「え・・・」

「何ひねくれてんだ?あたいが欲しいんじゃないのか?」

戸惑いながら視線を彷徨わせる男の頭を、悠理は掻き抱いた。

「あんなことしなくても・・・・応えてやったのに。馬鹿だな、おまえって・・・。」

「馬鹿ですね・・・確かに。」

囁くように呟いた清四郎は、ようやく全身から力を抜き、その肩を落とす。
そんな男の様子を見て、悠理もまたホッと溜め息を吐いた。

「罪深い事をしました。」

清四郎の声は殊の外沈み込んでいる。

「ん?まぁ、いんじゃない?実害ないんだし!」

「・・・・それがそうでもないんです。実は・・・・おじさんが指定された口座に10億円振り込んでしまったんですよ。」

「は!?マジで!?」

暫く考え込んでいた悠理は、すぐさま何かを思い付いたように笑顔を見せた。

「へへ!あたいたち来年にはアメリカ行くだろ?どうせならパアッと使っちゃおうぜ?」

「は?10億をですか?」

「懐かしいな!カジノでも行くか?あいつらも誘って!」

――なるほど、それも悪くない。

『なんにせよ、根っからの犯罪者気質なんだな、僕たちは・・・・。』

クスッと笑みを溢した男は、愛する女の提案に乗った。

「悠理。」

「ん?」

「向こうに渡ったら結婚しますよ!」

「け、けっこーーん?」

「だって、僕たちは死ぬまでいいコンビだと思いませんか?」

悠理もまた、そんな男のワクワクする台詞に便乗することを決める。

「わぁったよ。ったく・・・・この確信犯め!」

「なら、乾杯しましょう。」

旅立ちを彩る金色の泡は、いつまでも弾けながら二人を優しく包み込んだ。