「うわっ!!」
階段を踏み外した悠理を踊り場で受け止めたのは金髪の美青年だった。
真っ暗闇だった視界に、まるで天使が羽を広げたように登場した彼は、長身であるはずの悠理を軽々と抱きとめる。
その腕は決してひ弱なものではなく、何かスポーツをしているな、と悠理は直感した。
「あっぶないなあ・・・気をつけなきゃ。」
「ご、ごめん・・・なさい。」
咄嗟に謝ったものの、ふと見かけない顔だと気付く。
金髪と青い瞳から、彼が異国の血を引いていることは明確だったが、しかし一体・・・。
悠理の顔に描かれた疑問に、男はサラリと答えた。
「理事長の息子で美童って言うんだ。よろしく、剣菱のお嬢様。」
「え?あたいのこと、知ってんの?」
「うちへの寄付金ダントツトップでしょ?当然知ってるよ。」
「あ、そーいうこと。」
ようやく体勢を整えた悠理は美童から少し離れ、もう一度上から下までを眺める。
清四郎よりも少し背が高い。
細身ながらも均整のとれた身体つきをしている。
「理事長の息子がなんでここに?」
「ちょっと野暮用でね。それに僕個人の別荘がここから10分ほどのところにあるんだ。様子見がてらってわけ。」
「ふ~ん・・・」
不思議と興味が湧いたが、決して心のもやもやが消えたわけではない。
先ほどのショックの所為で、いまだ胸の痛みは取れないでいた。
「どうしたの?泣きそうな顔して。どこか痛めたのかい?」
本気で心配をしてくる初対面の男に、悠理はホロリと心を開く。
「痛い・・・んだ。ココが・・・」
握りしめた手は心臓の真上に置かれ、苦しそうに顔を歪める。
ズキンズキン・・・
音を鳴らして痛む心。
美童はその手を両手で包み込み、何を思ったのか優しく誘いかけた。
「美味しいケーキがあるんだけど、僕の別荘に来る?」
「え?」
「甘いものを食べたらきっと元気になるよ。とっておきの紅茶も淹れようか。」
微笑む姿は神々しさすらあり、悠理はとき解れていく心のままに、こくりと頷く。
まるでモルヒネを打たれたように痛みが和らいだ。
「行く。あ、でも野暮用は?」
「それはいつでも。夕方、君を送り届ける時でいいさ。」
「・・・そか。」
促されるまま美童に肩を抱かれ、足を踏み出す。
最後に振り返った無機質な階段。
誰も追いかけてなど来ない。
悠理の胸はやはりしくりと痛んだが、結局は大きく首を振り、再び前を向き歩き始めた。
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清四郎が教室に戻った時、授業の残り時間は僅か10分だった。
自習していた生徒達は、既にそわそわし出していた。
「悠理の姿」が見当たらない。
不審に思い、目を細める。
ーーーどこへ行ったんだ?
ここのところ真面目に授業を受け、解らないながらも眠ることすらしなかった彼女が、一体どこへ。
一番前の席に居た生徒に聞くが、あやふやな返答しか得られない。
必要以上に追及も出来ず、授業のまとめと課題について話す為、再び教壇に立った。
視線はもちろん悠理の座席にのみそそがれていたが・・。
僅かな休憩時間も生徒達の質問で潰れ、ようやく教員控え室に辿り着いた時、教諭の一人が声をかけてきた。
「菊正宗先生、丁度良かった。お電話が入ってます。」
「あ、はい。」
清四郎は座ったばかりの椅子から腰を上げ受話器を受け取ると、すぐにご機嫌な声が耳へと響いてくる。
少々耳障りな甲高い声。
悠理の母・百合子であった。
強化合宿に参加させることは前もって五代とやらに報告済みだ。
まさか電話までしてくるとは思わなかったが・・・・・。
一通りの挨拶のあと、本題へと移る。
「センセ。うちの子、真面目に勉強していますかしら?」
「ええ、すごく頑張っていますよ。」
「まあ、あの子が!?きっと先生の授業が素晴らしいからですわね。」
「彼女のやる気によるものです。」
悠理の言う通り、よほど’教育熱心’なのだろう。
娘の体調やその他の心配には一切触れず、話は続いた。
「ね、先生。今度我が家に来て下さいな。御礼を兼ねて食事会をしようと思ってますの。」
「食事会?」
「ええ。主人も是非会いたいと申しておりますし。」
「はあ。」
一体どんな顔で会えば良いのやら。
さすがの清四郎も返答に窮した。
「わたくしも先生のお顔を拝見したいですわ。ね、是非。次の日曜日にでも如何です?」
ここは素直に言うことを聞いておくに限るな。
決して悪印象を与えてはいけないという算段の下、決断する。
「解りました。お言葉に甘えてお邪魔致します。」
「ふふ、お待ちしておりますわ。」
百合子の強引な一面を知り、将来の不安をヒシヒシと感じる清四郎であった。
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クリーム色の壁、洒落たインテリア。
至る所に名のある作家の家具が並ぶその部屋で、悠理はホッと一息吐いていた。
連れてこられた別荘は車で10分ほど離れた場所にあり、こんもりとした森に覆われていた。
秋には紅葉した落葉樹がさぞ美しいことだろう。
館の周りは綺麗に芝が敷かれ、その真ん中を真っ白な石畳が続く。
案内された場所はダイニングルーム。
大きな窓からは広い庭を見渡すことが出来、薄いレースのカーテンが吹き込む風でなびいていた。
「どうぞ、座って。」
十人ほど座れる白木のダイニングテーブルの真ん中には、黄色の薔薇が飾られていて、その淡い香りを振りまいている。
この家の持ち主は金髪碧眼。
あまりにも似合ったその風貌に、悠理はくすっと笑った。
「なに?」
「あ、なんかさ。ここが日本じゃないみたいに感じる。」
「そう?」
美童は紅茶を乗せたトレーを運びながら、首を傾げた。
「君も日本人離れした顔立ちだと思うけどなあ。」
「あたいは生粋の日本人だぞ?」
紅茶は仄かなリンゴの香りがして、次いで出されたケーキはアップルパイ。
悠理はごくりと唾を飲み込んだ。
どんな時でも食欲が衰えない事を、自慢すべきか嘆くべきか・・・。
「・・・・で?何故泣きそうな顔してたの?」
美童は紅茶の香りを愉しみながら切り出した。
目だけは興味深そうに、ケーキを頬張る悠理を捉えている。
「あたい・・・・・そんなにも泣きそうな顔してた?」
「うん。僕が居なかったら、すぐにでも泣きたかったんじゃないの?」
「・・・・。」
図星ではあるが、その理由を言うわけにもいかず、悠理はケーキ皿を見つめ俯いた。
だが空気を読んだように美童は首を振る。
「無理に聞き出そうとは思ってないけどね。ただし、あんな表情してたらつけ込まれるよ?」
「つけ込まれる?」
「そ。悪い男につけ込まれる。」
「あたいが?」
思わず笑ってしまうのも無理はない。
生まれてこの方、そんな風に心配されたことなど一度もない。
女だと自覚して間もない悠理にとって、美童の認識は不思議で仕方なかった。
「それともすでに、悪い男の手に落ちちゃってるのかな?」
探ろうとする目。
悠理はぴくりと肩を震わす。
『先生が悪い男なわけない。』
白鹿からあんな風に脅されたら、ああ言うしかなくて・・・。
決して先生の本意なんかじゃないんだ。
解ってる・・・。
でも、嫌だと思ってしまうのは仕方ない。
他の女と話してるだけでももやもやするのに、触れるなんて考えたら怖気が走る。
だから結局、逃げ出すしかなかった。
見たくない物から目を背けるしかなかった。
自分らしくない一面を発見して、悠理は心の中で自嘲した。
あたいが生徒じゃなかったら・・・こんな事にならなかった。
先生が教師じゃなかったら・・・こんな思いをせずに済んだ。
でも、出会ってしまった。
想いを自覚してしまった。
身体から始まった関係は、あっさりと心に結びつき、今はもう・・先生しか見えない。
たとえ目の前の男が言う通り『悪い男』だとしても、諦められるはずがないんだ。
「君たちみたいな年頃の子達にとって、悪い男ほど魅力的に感じるからねえ。」
「―――悪い男でもいいよ。」
「え?」
悠理の瞳は、美童を真っ直ぐに射抜く。
「悪い男でも良い。泣かされても好きなもんは好きだから。」
それは自分に言い聞かせるような言葉だったが、心がすっきりと晴れ渡っていく気がした。
初めて自覚した恋なのだ。
泣かされても、壊されても、後悔なんかしない。
リスクだって承知の上。
あとは二人で前へ突き進むしかないのだから・・・。
「へぇ・・・・強いんだな、君は。」
訝しげだった視線が、感心のそれへと徐々に変わっていく。
「喧嘩は強いじょ?」
「いや・・それは噂を聞いて知ってる。僕が言ってるのはココ。」
指で示された場所は心臓の真上。
美童は満足そうに微笑んだ。
「いいかい?君がどんな恋をしてようと、僕は君を応援しよう。困ったことがあれば相談にも乗るから、遠慮無く連絡しておいで?」
そう言ってメモにサラリと連絡先を書く。
悠理はメモと美童を交互に見つめ、ニカッと笑った。
「あんがと。いい奴だな、美童は。」
「よく言われるよ。さ、ケーキのお代わりはどう?」
「食う!!」
大きな口を開けて頬張りながらも、悠理は美童との出会いを感謝していた。
あのまま一人だったら、自分はきっと奈落へと向かうしかなかった。
全てを男の所為にして逃げる事しか出来なかった。
もちろん胸が痛まないわけじゃない。
もし、白鹿野梨子をその腕に抱いていたら・・それは確かに絶望への一歩。
でも、信じたいと願う気持ちは炎の様に燃え盛っている。
まだこの恋に終止符を打ちたくない。
そう、心が嘆いている。
奪われたら、奪い返すのみ。
そんな簡単に先生は譲れない。
そして先生もきっと・・・・
ホールケーキのほとんどを胃に収めた悠理は、晴れ晴れとした顔で決意を固めた。
「そろそろ送ってくれる?」
辺りはすっかり夕暮れ時。
悠理は手土産に持たされたクッキーと共に合宿所へと戻っていった。
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その日の夜・・・・
悠理は食堂での夕食の後、自室には戻らず、すぐに清四郎の部屋を目指した。
食事中、可憐からの追及を誤魔化すのに苦労したが、それよりも野梨子が気になった。
特に目も合わせず、何か変化した様子もなかったが、確実にバレているワケなのだから、気にならないはずがない。
かといって、自分から何かを尋ねるわけにもいかなかった。
尋ねたとて、答えるような性格の持ち主でもなさそうだが・・・・。
コンコン・・・
―――もしかしたら不在かもしれない
そう思いながらも扉を叩く。
この時間、教師達は別室で遅めの夕食中だ。
もちろん清四郎もその輪の中に居るはずなのだが・・・。
これは一つの賭けだった。
数秒後、扉は静かに開いた。
悠理の胸が飛び跳ねる。
「先生・・・」
清四郎は慌てて廊下を見回し、すぐに悠理を引き入れた。
扉を閉じると同時に鍵をかけ、声を押し殺しながら悠理の肩を両手で掴む。
「こんな時間に・・・・一体何を考えてるんです?教師のフロアをうろつくのは御法度でしょう?だいたい昼間はどこに・・・」
「先生!」
悠理は言葉を遮ると、ゆっくり息を整えた。
「・・・・・なんです?」
「先生は・・・・あたいが好きなんだよね?」
「もちろんです。」
「・・・・・白鹿のお願い・・・・聞いてあげた?」
清四郎は、顔を強張らせると同時、全てを悟ったように溜息を吐く。
「なるほど・・・・。それで午後から居なかったわけだ。どこまで聞いていたのやら・・・」
そして、ゆっくり肩から手を離すと、悠理に背を向けた。
「そうだ、と言ったらどうするんです?」
「・・・・・・・。」
「逃げ出しますか?」
表情を見せないまま問いかける男の背中。
悠理はそこへとしがみついた。
「嫌だ!あたい言っただろ?先生のこと取られたくないって!白鹿にだって、他の誰にだって取られたくない。
だから・・・先生があたいの事考えて行動したなら・・・・それについては諦めるって決めたんだ。」
「・・・・・理由があるのなら、他の女性を抱いてもいいと?」
直接的な言葉に一旦は口ごもるが、それでも大きく頷いた悠理。
清四郎は再び深い溜息を吐くと、ようやく悠理へと身体を回転させた。
「なんとまあ寛大な恋人なんでしょうねぇ・・・。感動しましたよ。」
抑揚のない声。
そこで初めて清四郎が不機嫌であることを知る。
「せ、せんせ・・・・?」
「成績が悪いのは仕方ないにしても、倫理観まで馬鹿だと救いようがありませんよ?」
「へ?」
清四郎は悠理のおでこに容赦ないデコピンを落とした。
「いっでぇーーー!」
「でしょうね。これは教育的指導です。」
「なんで!?」
「分かりませんか?」
涙目で頷く悠理は、促されるようにベッドへと座り、清四郎の視線を真正面から受け止める。
「僕たちは確かに社会的倫理に反した関係にある。教師と生徒なんですから当然です。それは分かりますね?」
「うん。」
「男女関係にも最低限のモラルは必要です。互いを傷つけないよう、思い遣りをもった関係でなくてはいけません。’浮気’はマナー違反の一つです。そうでしょう?」
「・・・・・うん。」
「僕は君の事を大切な恋人だと認識しています。それなのに他の女性を抱くということはマナー違反を犯すという意味です。世の中に対する責任よりも、僕は君に対する責任に重きを感じている。いいですか?」
コクリコクリと聞いてはいるが、結局は何が言いたいのだろう、と悠理は首を傾げた。
「君を裏切る行為だけは絶対にしません。そのくらい理解していると思っていましたが・・・・甘かったか。」
「・・・・・・えと、それって・・・・」
「無論、彼女を抱いてなどいません。だいたいこの僕がそんなリスクを冒すわけがないでしょう。」
羽の生えた大きな漬け物石が、悠理の胸から飛び去っていく。
ドロドロとした姿の疑心暗鬼と共に・・・・。
「ふぇ・・・・・よ、よがっだぁ・・・・・」
ようやく出てきた涙は想像以上に熱く、心の滓を全て洗い流してくれる。
「せんせぇ・・・・!!!大好き!!」
飛び込んだ胸は盤石で、悠理はそこから半時間もの間、泣き続けた。
・
・
・
ぐしっ・・・・ぐすっ・・・・
「少しは落ち着きましたか?」
清四郎のシャツはすっかり水浸し。
大量の涙は、その下に着ている肌着にすら染み込んでいた。
「悠理は泣き虫なんですね。意外な発見だったな。」
「・・・・普段はこんなことないもん。」
「ああ・・・そういえば、僕に抱かれている時はよく泣いてるな。」
「!!!」
真っ赤な頬を更に染めて、悠理はキスを強請った。
「・・・・こんな時間から誘ってくるなんて、悪い子ですね。」
「だ、だってぇ・・・・」
「したいのは山々ですがもう少し我慢しなさい。今夜は見回り当番なんですよ。」
頬にキスを落とした清四郎は立ち上がる。
「ここに居てもいい?」
「裸で待ってますか?」
「・・・・・いいよ。」
「冗談です。シャワーは勝手に使いなさい。あと・・・・」
何かを思い当たったかのように振り返る。
「白鹿さんの事は気にしなくてもいいですよ。折り合いはつきましたから。」
「折り合い?」
「ええ。むしろ、君と彼女は良い友達になれると思いますけどね。」
「???」
―――先生がそう言うのなら、そうなのだろう。
清四郎が立ち去った後、悠理はベッドにゴロンと転がり、くふふと笑った。
憂いが消え去った事で、心地よい睡魔がやって来る。
このまま朝を迎えるのは勿体ない気がするけれど―――。
しかし悠理は幸せな気持ちのまま、夢の世界へとあっさり飛び込んでいった。