第八話

保健室は基本、静かだ。
暑さを遮るための二重サッシが功を奏しているのかもしれない。
空調は穏やかに効いてはいるが、決して涼しすぎるわけでもなく比較的快適だった。

簡素なベッドとはいえ、枕もシーツもきれいに整えられている。
運動部の合宿ともなると熱中症で倒れる生徒が後を絶たないため、ベッドの数が足りなくなることもしばしばあった。

とはいえ、現段階での雰囲気は悪くない。
二人は密室いる。
教師と生徒。
男は優秀な頭脳を持つ冷徹な教師で、女は学園一と謳われる美少女。
二人はもの静かな性格で、普段滅多に感情を露にしない。
どこか似た者同士な二人。
今は、お互いの黒い瞳だけを見つめ合っていた。

ベッドに腰掛けたままの野梨子は身動ぐことすらしない。
距離を縮めた清四郎はゆっくりとその腕を取る。
白い手首は容易く折れそうなほど細く、青い血管すら浮き出ていた。
しかし、宝石の様な光を湛えた瞳には、強い意思と共に憤りにも似た何かが燃え滾っている。
そう、何かが―――

清四郎はふ、と息を洩らし、その手を放した。

「先生?」

瞬きすらせず窺う姿は、まさしく日本人形。
陶器のような肌に赤い唇が恐ろしく映える。

「君のその演技力は、演劇部で培われたものですか?白鹿野梨子さん。」

「―――え?」

瞬間、凝視していた瞳は、ここに来て初めて戸惑いの色を見せた。
清四郎は何かを得たとばかりに目を細めると、窓を覆っていたカーテンを開け、清々しい外気を取り入れた。
その後、再び射抜く様に見つめる。

「君の目は恋する人間のものではない。となると、何かしらの事情があって僕に近付いたんでしょう?」

確信的な言葉で尋ねる清四郎に、暫く口を閉じていた野梨子は柔らかく微笑んだ。

それはもうぞっとするほど美しく・・・。

「ふふ、流石ですわね。わたくしが演劇部員であったこと、ご存知でしたの?」

「君が二年生の頃、『演劇部の花』と称えられていたこともね。退部したのは受験の為ですか?」

野梨子はベッドから立ち上がると、清四郎の隣に歩み寄る。
窓から入る風は、思いの外ひんやりしていた。

「ええ、そんなところですわ。」

艶のある黒髪がさらりと揺れる。
それは誰しもが見惚れる美貌であった。
しかし微塵の興味も示さない清四郎は、本題に入ろうと口を開く。

「で、何故こんな罠を仕掛けるようなことをしたんです?」

くるりと振り向いた少女の顔は、先ほどまでの真摯さもなく、どちらかというと悪戯めいた子供っぽい表情を浮かべていた。

「試しましたの。」

「試した?」

「先生が剣菱さんに相応しいかどうかを。」

「・・・・。」

清四郎はその鋭い目線で真意を見抜こうとする。

「君は剣菱さんを好きなんですか?」

「ええ!お友達になりたいくらい。でもなかなか難しくて・・・声をかけるのも躊躇してしまいますの。」

とてもそうは思えないが、清四郎は敢えて口を閉ざした。
野梨子は続ける。

「先生はこの学園に言い伝わる’禁断のカップル’をご存知?」

「禁断のカップル?」

「教師と生徒のラブロマンス、ですわ。」

「あぁ、確か卒業後に結婚した二人が居たそうですね。」

それは生徒達が密やかに囁いていた噂。
その頃は有り得ないと素通りした話なのだが―――。

「その女生徒は演劇部の先輩でした。二つ年上のとても美しい方。」

「ほう・・・。」

野梨子はうっとりとした顔で記憶を手繰り寄せる。
それはもう恋する乙女にも似た表情だった。

「お相手の英語教諭は演劇部の顧問でした。いつしか先輩と恋仲になり、しばらくは秘密の逢瀬を楽しんでらっしゃったんです。私は一度だけその場面を見て、なんて美しいお二人なんだろうと感激したこと、覚えていますわ。」

清四郎は驚く。
そこまで開けっぴろげに学園の中で逢瀬を楽しむなんて・・・。
少し羨ましくもある。

「それで?」

「先輩は卒業間近でしたから、短いながらも幸せそうな学園生活を送ってらっしゃいました。そして卒業後、二人は無事ご結婚なさったんです。」

そこまでは噂通り。
しかし、禁断の愛とやらが実を結ぶことは珍しい。
感心していると・・・

「けれど・・・・」

野梨子の表情が一変する。

「先生は・・・あの男は・・変わりました。」

「というと?」

「結婚して半年も経たない内に、新しく入った部員に手を出したんですの。それも二人を、半ば無理矢理に・・・。」

忌々しいとばかりに野梨子の可憐な口元が歪んだ。

「あの男は・・ただの恥知らずでした。その内、噂が学園を駆け巡り、当然OBである先輩の耳にも入ったのです。」

「・・・・。」

「先輩はショックのあまり・・・流産なさいました。」

「それは・・・・・・酷いですね。」

不実な男だ。
花を手折るならばそれなりの覚悟が必要だというのに・・。

「学園の不祥事です。部員全員に箝口令が敷かれ、あの男は免職となり、もちろん先輩とも離婚したと噂に聞きました。警察沙汰にならなかったのは男の実家が名家であった為、力尽くで揉み消したからです。」

「なぜ、君がそこまで知っているんです?」

清四郎は首を傾げた。
一介の生徒が知り得る話ではないはず。

野梨子は迷った様子だったが、何かを覚悟したように告げた。

「私は・・・この学園の理事長の息子と結婚の約束を交わしていますの。もちろん内緒ですけれど。」

「それはそれは・・。」

瓢箪から駒な話に思わず口を覆う。

「彼から先生を見張れと言いつかっておりました。先生はあまりにもおモテになるから、目立ったのでしょう。これ以上の不祥事はさすがに学園側としても困りますから・・・・・。」

「なるほど。で・・・こんな罠を仕掛けた、と。」

野梨子は少しだけバツの悪い顔をした。

「剣菱さんは憧れの存在ですし、あれほど授業に興味を示さなかった彼女がここのところ、先生のお顔を真剣に見つめている姿を見て、何となく気になったのが切っ掛けですわ。まさかお二人がそういう関係だとは思いも寄りませんでしたけど。」

「どういう関係だと思ってるんです?」

「・・・恋仲、なのでしょう?」

「それは正しい。で、僕は理事長に突き出されるんですか?それとも以前のように見逃して貰えるのかな?」

たおやかな印象の野梨子は、華奢な手を口に当てて「ホホホ」と笑う。

「わたくしに不埒な事をしなかった先生を突き出すなんて事は致しません。剣菱さんをこれからも大事になさるのなら、もちろん見逃しますわ。」

清四郎はポーカーフェイスを保ったまま、それでも胸を撫で下ろしていた。
野梨子は自身の秘密も暴露している。
決して脅そう、などといった思惑を持っていないだろう。

しかし・・・

「僕は彼女が卒業するまで隠し通そうとしています。もし、少しでもそういった噂が立ったなら、原因は全て君だと考えますが如何です?」

「あら、怖い。でもそれならば、もう少し慎重に逢瀬を楽しんだ方がよろしいのではなくて?」

「・・・肝に銘じますよ。」

清四郎はようやく窓を閉め、カーテンをひいた。

「しかし随分大胆な手を使いますね。何故、この合宿期間中に?」

「たとえ先生が不祥事を起こしても、夏休みの間に全て片付いた方がよろしいでしょ?」

「なるほど。でも、もし僕が君に手をかけていたらどうしたんです?」

「ふふ・・・これがありますもの。」

野梨子がポケットから取り出したのは痴漢撃退スプレー。
一撃必殺の痛みを与える人気商品だ。

「はは・・・・恐ろしいな。」

「うちの学園の女子ならほぼ全員が持っていますわ。剣菱さんくらいじゃないかしら。」

「彼女はそんなもの無くても充分闘えるでしょうからね。」

むしろこれを持たせた方が相手の被害が少ないのでは・・と思う清四郎であった。

「さて、僕はそろそろ授業に戻りますよ。君は体調不良というよりも寝不足でしょう?顔色が悪い。」

「ええ。少し休ませて貰いますわ。あ、先生・・・」

「はい?」

「剣菱さんを大切にしてあげてくださいね。」

清四郎は小さく頷くと、間仕切りの白いカーテンを引き、保健室を後にした。
自ずと溜息が出る。
野梨子とのやり取りで、それほどまでに緊張していたのかと気付いたが、心は幾分か軽い。

「’禁断の愛’・・・ねぇ。」

呟きは無人の廊下に溶け込んでいった。