第七話

その日の一限目の授業は、つまらないと評判の英語。
それに続いて地理と世界史・・・。
寝不足+退屈だった悠理の欠伸は、当然数を増やしていく。

清四郎の授業は午後から。
それまでの間、教科書を立てた状態で眠りにつこうとしていた悠理だったが、邪魔する人間が一人・・・。
ポン!
何かが頭に当たったと感じ、手元を見れば、そこには小さく折り畳まれた紙が転がっていた。
広げてみると綺麗な文字で『お昼一緒に食べましょ。可憐』と書かれてある。
そっと視線を上げれば、斜め前の席に座る美女が、魅力あるウインクをしてきた。
男を惑わすその仕草。
悠理はくっと笑みを零す。
さぞ彼女のファンは羨ましがることだろう。

親指を立てOKの合図を送ると、悠理は再び教科書の陰に隠れる。
ランチに思いを馳せながら・・・。
悠理にとってご飯は何よりの楽しみでもあり、そしてこの合宿で出される料理は格別に旨かった。

食堂はシンプルな造りだが、50人が一斉に食べることが出来る広さだ。
日替わりランチに加え、麺類のラインナップも豊富。
大食漢の悠理はいつもの調子でランチと麺類の両方を食べていた。

「そういえば・・・」

可憐はうどんを啜る手を止め、意味ありげな視線を投げかける。

「菊正宗先生に告白した女の子。もう10人ほどいるらしいわよ。」

ぶはっ!

「ちょ、ちょっと・・汚いわね!」

「ご、ごめん。」

うどんを吹き出した悠理は、慌てて台拭きを差し出す。
可憐は自分のポケットにあったティッシュを使い綺麗に拭き取ると、訝しげに悠理を見た。

「ねえ、やっぱり悠理って、先生のこと・・・」

「ち、違う!違うってば・・・・!」

「ふ~ん。ま、いいわ。実は私も告白しようと思ってたんだけど、聞くところによれば、皆、玉砕しまくってんのよね。」

「あ・・そう。そりゃ、相手は教師だかんな。」

チッチッチッ・・
可憐は得意げに人差し指を振る。

「知らないの?この学園で以前にも’教師と生徒の禁断の恋’があったって。」

「え?嘘だろ。」

思わず箸を止め、可憐の言葉に反応する。

「そのカップルはなんと、卒業してから結婚までしたっていうじゃない。だから可能性としては0%じゃないわけ。」

「ひぇえ!そうなんだ・・・。」

悠理は自分の置かれた立場も忘れて感心した。
清四郎とて、同じ企みを抱いているというのに・・・。

「菊正宗先生はかなりの高物件よねえ。ほら、この学園、世間知らずのお嬢様が多いじゃない?先生みたいな頼り甲斐のありそうな男性に惹かれる女子が多いのよ。」

「き・・可憐も同じだろ?」

「あたし?」

余裕たっぷりに微笑む可憐は、悠理の耳元に近付くとそっと小声で暴露した。

「あたしは他にもめぼしい男がいるのよ。何人も、ね。」

「え?何人も?」

細い人差し指を唇に当て「しぃ・・」と悪戯めいて笑う。
そんな可憐をとても魅力的に感じ、悠理は思わず見惚れた。

「だから、別に先生一筋ってワケじゃないのよ。もちろんちゃんと落とすつもりでは居るけど、決して焦ってなんかいないわ。」

「ふ~ん。」

これが恋愛に長けた者の余裕なのだろうか。
悠理は感心しながら、マジマジと可憐の全身を見つめる。
綺麗にカールされた髪は背中まで届き、肌は美容員真っ青の滑らかさ。
長い睫毛と眉は綺麗に整えられ、唇はつるんとしていて新鮮な果実を彷彿とさせる。
白い指を彩る、仄かな桃色のネイル。
どこもかしこも抜かりない、完璧な「女」を見せつけていた。

「可憐って・・・すげーな。」

「あら・・今頃気付いたの?」

得意げな表情を見せ、悠理をねっとりと観察する。

「悠理も磨けばすっごく綺麗になると思うわ。今度一緒に買い物やエステに行きましょ?」

「あ、あたいがエステ!?」

「ほら、いついかなる時でも身体のお手入れは必要よ?好きな人には綺麗な自分を見せたいじゃない?」

「そ、そんなもんなのか・・。」

圧倒された悠理は取り敢えずコクリと頷き、手を止めていたランチを食べ始めた。

『先生もやっぱり・・綺麗な方が良いんだろうな。』

そんな殊勝な考えを胸に抱きながら・・・。

午後の授業はやはりワクワクする。
たとえ独り占め出来なくても、清四郎が教壇に立ち、時折目が合うだけでも胸が疼く。
恋愛に興味が無かった自分に、まさかこんな感情が訪れるなんて・・・。
悠理はコロコロと転がる恋心に、すっかり振り回されていた。

数学は一時間×二本。
授業の合間の休憩時間には質問する生徒が殺到する。
その中には下心満載の輩も多いのだろうが、もちろん質問を目的とする生徒も少なからず居た。

そんな様子を、顎の下で指を組み、ぼーっと見つめる悠理。
自分の好きな男があんな風にモテるのは嬉しい反面、正直困る。
これから先も、こんな厄介なモヤモヤに心が埋め尽くされるのは堪らない。
それはたとえ卒業して、正式に恋人同士になったとしても、自分を襲うであろう嫉妬心だった。
信じたい気持ちと、猜疑心が交互に訪れるなんて・・・。
恋をしたことのない悠理にとって、重すぎる課題である。

二時間目の数学はちょっと高度な内容で、さすがにチンプンカンプンだったが、
悠理は清四郎の声を聞いているだけでも幸せを感じていた。
そんな幸福感に満たされ、ぼんやりしていた悠理の耳に、「キャッ」と悲鳴が届く。

「先生!白鹿さんが・・・」

それは突然の出来事だった。
白鹿野梨子が質問の手を挙げた途端、椅子の上からふらりと床に倒れ込んだのだ。
覗いてみれば、なるほど真っ青な顔をしている。

「貧血かしら・・」

そんな憶測が飛び交う中、清四郎は素早く駆け寄り、脈を測る。
そして何か質問した後、納得したように頷くと、立てない様子の野梨子を軽く抱え上げ、辺りを見回した。

「保健室に連れて行きます。残りの時間は自習していてください。先ほど説いた問題はとても重要ですから何度も繰り返すように。」

足早に去って行く清四郎を見送った女生徒達は「きゃあ!!」と雄叫びをあげ、男子生徒は「あ~あ」と溜息を吐く。
誰もが憧れる’姫抱き’に、当然ながら女子達は胸を焦がす。
なにぶん、二人は見目麗しい男女。
まるで映画のようなワンシーンだったと褒め称える。

そんな喧噪の中、悠理は無意識に立ち上がっていた。
誰にも気付かれぬよう教室から抜け出し、向かう先はもちろん保健室。
そこはこの合宿所に到着して、まず最初に教えられた場所だった。
建物の中でも一番静かで奥まった位置にある。

早足で歩く悠理の胸がざわめく。

彼女は貧血で倒れたのだから仕方ない。
それは解る。

清四郎が抱きかかえたのも仕方ない。
だって真っ青な顔をしていたんだから。

しかし、悠理の直感が警告音を鳴らしていた。
今朝の遣り取りから、野梨子の思惑が見え隠れする。

『まさか・・・』

歩く速度がどんどんと速まる。

『先生!』

焦る気持ちが膨れあがり、悠理はくしゃりと顔を歪めた。
いつもなら呼吸一つ乱れぬ距離なのに、保健室に到着した時、悠理は汗をかいていた。
息を詰めた状態で駆けつけたからにほかならない。

そっと扉の前に立つ。
よくよく考えれば「保健室」と言っても「保健教諭」は不在だ。
たった3日の為に連れてくるとは思えない。
必然的に二人きりなのだろうと予測でき、悠理は息を止めて扉を静かに開けた。
ほんの少しの隙間から白いカーテンと簡素なベッドが見える。
二人の姿こそカーテンに隠れて見えないが、それでも小さな声が聞こえてきた。

「先生をお慕いしております。」

紛れもない野梨子の声。
いつもの冷たさを感じさせない、温かみのある声だった。
悠理の鼓動が激しさを増す。

「ありがとう。その気持ちは嬉しいが、もちろん応えることは出来ません。」

感情を表に出さない清四郎の声が、悠理の耳を心地よくすり抜ける。

『先生はいつもこんな風に断ってるんだ!』

大きな安堵と共に、膝が崩れそうになった。
しかし次に聞こえてきた言葉は、想定外の衝撃を悠理に与える。

「剣菱さんにはお応えになったんでしょう?なのにわたくしは駄目ですの?」

『やっぱりバレてたのか!!』

血の気が引くと共に、背中を悪寒が走る。

「何のことです?」

しかし清四郎は先ほどのトーンと変わらぬ声のまま、惚けた。

「夕べ、はしたないと思いましたけど、剣菱さんの後を付けましたの。305号室・・あの部屋は先生のお部屋でしょう?」

「・・・・なるほど。」

「はじめは信じられませんでしたわ。でも・・10分経っても扉は開かず、そのまま朝まで。先生は剣菱さんとそういうご関係なんですわね?」

追及の色合いが濃くなってきた野梨子の口調。
悠理の背中にはびっしょりと汗がはりついている。

「それで?何が望みです?僕と交際することですか?」

相変わらず清四郎の声には動揺が見られず、悠理はゆっくりと唾を飲み込んだ。

「・・・お恥ずかしながら、わたくしこの年まで殿方と手を繋いだこともありませんの。怖くて・・・気持ち悪くて。」

「ほう。深窓の令嬢という噂は本当なんですね。」

「そんな良いものではありませんわ。ただの世間知らずです。でも・・・わたくしが初めて先生のお顔を拝見した時、この方なら怖くない、気持ち悪くない。そう感じたんです。」

野梨子の告白はきっと真実なのだろう。
興奮のためか、声は微かに震えていた。

「それは光栄ですな。」

「わたくしはこの先きっと、他の殿方に身も心も許すことが出来ません。それならば・・・先生、どうぞわたくしの望みを叶えてくださいませ。」

「・・・・といいますと?」

「一度きりで結構です。わたくしの想いを・・・どうか・・。」

「僕に・・君を抱けと?」

「・・・・・はい。そうすれば剣菱さんとの事、口外など一切致しません。誓います。」

あの少女が!
大和撫子と謳われる少女が、こんなにも大胆に清四郎を誘うだなんて・・・。
悠理が受けたショックは想像を遙かに超えていた。
今すぐにでも飛び出し、二人の間に入って、「やめろ!」と喚き散らしたい!
そんな衝動がじりじりと襲う。
しかし、それよりも清四郎の出方が気になった。
『きっと断ってくれるはず!』
そう確信しながらも、聞き耳を立てることを止められない。

「・・・なるほど。なかなかに面白い交換条件ですね。」

「わたくしは一度の事で付きまとったりは致しません。安心してくださいな。」

「ははは。とてもじゃないが、君たちの世代が言う台詞じゃありませんよ。」

「約束する、と申し上げているのです。」

「もし、僕が・・・酷い男だったらどうするんです?」

「あり得ませんわ。わたくし、こう見えて人を見る目は持っていますもの。剣菱さんが懐くくらいの方です。先生はきっと悪い方じゃありません。」

悠理はドキリとした。
決してよく思われていないだろうと確信していたのに、野梨子の台詞はむしろ真逆の印象を与える。

「いやはや。君は面白い女性ですね。勉強が出来るだけでなく、とても賢い。」

「気に入っていただけたのなら良かったですわ。」

本気で面白がっている清四郎の声。
それにホッとした様子の野梨子。
二人の間に張り詰めていた緊張が一つ解れたのだと、悠理は思った。

「で?君は初体験をこんな場所で済ますつもりですか?それとも別の場所で?」

何の躊躇いもなく告げた清四郎の言葉は、まさしく鋭いナイフ。
悠理の心をざっくりと傷つけた。

「わ・・・わたくしはどこでも構いませんの。先生のよろしいように・・・。」

「・・・・解りました。」

目を塞ぎ、
耳を閉じ、
息を殺す。

悠理は静かにその場から離れた。
身体はゆらりゆらりと揺れながら、無意識の内に教室へ戻ろうとする。
抜け殻となった心は、それでも何かを求めて彷徨い始める。

『先生・・・どうして?』

涙も出ない。
だって目を塞いでいるから。
嗚咽も洩れない。
だって息を殺しているから。

悠理は視界を遮られたまま歩き続けた。
足元の階段を踏み外した時も・・・彼女の視界は真っ暗に閉ざされたままだったのだ。