第四話

甘い店内に残された悠理は、呆然と目の前にある皿を見つめていた。
清四郎が残したパンケーキを食べるべきかどうかを迷っていたからだ。
唐突に席を立ち上がりその場から立ち去った意味を想像する事もなく。

「なんだ?あいつ………」

皿の端で固まり始めたチョコレートを砕きながら悠理はぼやく。
折角の楽しい気分が今は明らかに目減りしている。
あいつが誘ってくれたこと自体、不思議で仕方なかったけれど、それでもウキウキしたのは決してパンケーキだけの所為じゃなかったはずだ。

飲みかけの珈琲とチョコパンケーキ。
周りの楽しそうな声が、今は煩わしい。
結局悠理は清四郎の皿をそのままにし、自分の分だけを食べきった。
喉にトゲのようなモノが刺さっている気もするが、何度も水で流し込む内、気にならないレベルにまで落ち着いた。
よく見れば、いつの間にかテーブルにあった伝票が消えている。

────ったく、律儀な男だよな。

悠理はそうぼやきながら店を後にした。

夜七時。
源早太との約束場所は、既に賑わいを見せていた。
“CLUBクワトロ”は時折芸能人もお忍びでやってくると評判で、いつも着飾った女たちがひしめき合っている。
美童や可憐も常連客だが、もちろん悠理もその派手な場所に出入りすることが多くあった。

「悠理!」

早太はいつもの革ジャンにダメージジーンズ姿で出入り口に立つ。
魅録ほどではないにしろ、ワイルドな目つきとファッションは、通りかかる女たちの視線を集めた。

悠理は真っ白なジャケットに目の覚めるようなオレンジ色のスキニーパンツを履き、大振りのアクセサリーでコーディネートしている。
誰もが一度は振り返るほどの派手っぷり。
だがこれぞまさしく悠理の夜遊びスタイルなのだ。

「よっ。」

軽く手を挙げると、早太がすかさずその手を掴んだ。
引き寄せ、腰に腕を回し、嬉しそうに顔をのぞき込む。

「な、なんだよ……おい!」

「今夜はえらくべっぴんだな。」

「はぁ?」

「俺がこんなにも綺麗なおまえを独占出来るって思ったら、すげぇ興奮してきたぜ。」

一人盛り上がる早太から、悠理は慌てて距離を置いた。
この立ち位置はさすがに慣れない。
相手の気持ちを知ってなお、早太の腕におとなしく収まることなど悠理には出来なかった。

「やめろよ………柄じゃねぇだろ。お互い。」

「そうか?………もうガキじゃねーんだし、普通だろ?」

「あ、あたいは……………」

あたいは───の続きをどう伝えたらいいのか解らない。
悠理は早太より先に歩き始めると、真っ赤な扉を開け、喧騒の世界へと飛び込んでいった。
皆が騒がしい洋楽に合わせ踊っている。
今時流行らないモヒカン男やボディコン女。
それでもそれぞれが楽しそうに音楽に乗り、自由気ままに身体を動かしているのだ。

悠理はいつもこう居たかった。
好きなように踊り、好きなように酒を飲み、好きな仲間たちと下らない話で盛り上がる。
時に刺激的な事件を乗り越え、絆を深める。
これこそが彼女の望む世界であったのに。

魅録が恋に落ち、その相手はなんと野梨子。
可憐や美童も恋愛に勤しんでいて、大人のステップを駆け上がり続けている。
清四郎は相変わらず忙しくて………
悠理は取り残された気分にならざるを得なかった。
寂しさよりも不自然さ。
それはいつまでも子供で居たいと願う、心の葛藤だった。

普段以上に激しいダンスを繰り広げた悠理は、カウンターテーブルで待つ早太の元へのろのろと近付いていった。
用意された酒は氷たっぷりのジントニック。
一気に飲み干すと、すっと汗が引く感じがした。

「踊らねぇの?」

煙草をふかす男を見て、問いかける。

「俺、魅録ほど上手くないからさ。」

「そだっけ?」

いつも隣にいた魅録は悠理と同じテンションでステップを踏んでくれた。
楽しくて、愉しくて────
彼のように居心地の良い友人は何処を探しても居ない。

「別にヘタでもいいだろ?こんなのノリなんだし。」

「あいつと比べられんのはヤだ。」

「はぁ?」

拗ねたように口を尖らせ、煙草を燻らせる。
仕事もして、仲間内ではかなりしっかりした部類の早太がこんな一面を見せるなんて………悠理は思わず吹き出してしまった。

「ぷっ!おまえ………そんなキャラだっけか?」

「悠理の前で気取ってても、振り向いてもらえないってわかったからな。これからは素を出すことにするよ。」

そう言って早太は悠理の手を引き、小さな爪の先にフッと息を吹きかけた。
うっすらとメンソールの香りが漂う。
突然の煙に目を細めていると、次の瞬間、彼の唇が指先を優しく食んでいた。

「あっ…………!」

「おまえの心が手に入るなら、俺は何でもしてやる。」

情熱的な目だった。
燃え盛る情念のようなものを孕んだ目。
悠理が初めて対峙する類の視線に、心が初めて震えた。

ふりほどくことの出来ない手を早太は更に優しく舐める。
もはや友人とは呼べない男の顔はこの上なく真剣で、ぞくっとするほどの色気があった。

「だからさ。……これからもずっと、側にいてくれよ。」

答えようのない熱意に悠理の胸がざわめき始める。

酒に酔ったわけではない。
恋を感じたわけでもない。
恋が何かもわかっちゃいない。

ただ“これからずっと側にいてくれる男”に、身を委ねるのも悪くないと思ったのだ。

夜が深まる。
騒がしい音楽が鳴り響く中、悠理は早太の傍らに腰掛け、紡がれる口説き文句にただただ浸っていた。

胸の片隅にチクリと痛みを感じながら。