第六話

僅かに感じる腕の重み――
微かに鼻を擽る汗の香り――
それ以上に甘く存在する悠理の肢体。
清四郎はアラームが鳴る二分ほど前に自然と目覚めた。
カーテンの隙間から差し込む、青い朝の光。
その光は悠理の白い肌に透明感を与え、さらに儚く感じさせる。
目を閉じていたら、まるで生気を感じさせない西洋人形のよう。
整った顔立ちに思わず見惚れてしまう。

昼間はあんなにも溌剌としているのに――夜の大胆さはまるで妖婦。
そのギャップに驚かされる度、胸が滾る。

「悠理、朝ですよ。起きなさい。」

言いたくない台詞だが、言わざるを得ない。
何度目かの呼び掛けに、悠理は「ん~~」と伸びをしながら緩慢に振り向いた。

「せんせ・・・おはよ。」

とろんと落ちた瞼から、ゆっくりと現れる瞳。
そこにすら口付けて、舐め取って、欲望を注ぎ込みたくなる。
そう考えて、清四郎は思わず苦笑した。
底無しに歪んだ己のソレに―――。

「そろそろ部屋に戻らないと。後できちんとシャワーを浴びるんですよ?」

「ん・・・」

ぼぅっとしながらも起き上がり、腹を掻きながら薄いシャツを伸ばす。
くせ毛のせいで寝癖もひどいが、それがまた可愛くて、清四郎はよしよしと梳くように撫でた。

「今夜も同じ時間に待ってます。」

そう小さく耳打ちすれば、悠理はポッと頬を赤くさせる。
そんな解りやすい反応をするのだから、きっと自分のことを悪くは思っていないはずだ。
清四郎の期待は否が応にも高まる。
だからといって、焦ったように返事を強要したくはない。

ゆっくりと、
じっくりと、
僕の愛に絡め取られていけばいい。

しかし、そんな悪魔めいた男の策略には気付かず、悠理は無垢な笑顔で擦り寄った。

「あ、あのさ。」

「ん?」

可愛い笑顔に釣られ、清四郎も微笑む。

「あたい―――せんせぇのこと・・・」

「僕のこと?」

「・・・・すごく、好き。」

「えっ・・・」

直後、止まった思考。
微笑んだまま固まった表情。
清四郎の一切の時間が停止する。

「あたい、解ったんだ。他の誰にも先生を取られたくないって。せんせ、モテるし、でもあたいは馬鹿だし・・・・
いつか心変わりされちゃうかもだけど、今、ちゃんと言っとかなきゃ・・って思って、―――あの・・せんせ?」

悠理は反応の無い清四郎の顔を覗きこみ、その瞳に映ろうとした。
当然、映ってはいるのだが・・・

「先生……どったの?」

「・・・・・。」

清四郎は、現実的ではない歓びに身を委ねてよいものかどうかを迷っていた。
悠理の告白は待ち望んでいたものに違いなく、だからといってこんなにも早く与えられるとは思ってもいなかったのだ。

―――僕を好き?

このくらいの年頃は簡単に人を好きになると、経験上知っている。
前に勤めていた学校でもそうだった。
何度となく告白され、その都度、傷つけぬよう細心の注意を払いながら断ってきた。
大人に対する憧れもあるのだろう。
彼女達(中には彼達)の想いは、まさに麻疹のようなものなのだから。

しかし、悠理だけは違うと信じたい。
一過性のものでないと、信じこみたい。
それは自分自身、彼女を求めているから。
魂の奥底で、彼女だけを強く欲しているからこそ、そう願うのだ。

「ほ、本当ですか?」

乾いた声が上滑りする。

「あたい、こんなことで嘘吐かないぞ。」

悠理は拗ねたように口を尖らせた。

「―――本当に?」

「だーから、ホントだってば!せんせ、嬉しくないの?」

『愚かな質問だ』
・・・と清四郎は思う。
‘嬉しい’なんてものじゃ済まされないほど、複雑な歓喜が全身を覆い尽くす。

気付けば、悠理の唇を深く、強く貪っていた。
一つになりたくても今はなれない。
その焦れた衝動を、このキスに込めて。

「んっ・・・んぅ!」

互いの唇を開いて、唾液を飲み込みながらの苦しいキスを交わせば、直ぐに思考が微睡み始める。
唇を、舌を激しく奪い合いながら、身体はその先を求めてしまう。

―――無茶苦茶にしたい。

しかし―――
その強い欲求に打ち勝ったのは、やはり清四郎だった。
引き剥がすように悠理から離れ、深い溜め息を吐く。

「―――これ以上はダメだ。もう、戻らないと。」

「う、うん・・・」

そう言われてもなかなか去り難く、悠理はのろりと立ち上がる。
欲望を掘り起こされたキスですっかり下半身を濡らしていたが、確かにタイムリミットは近付いていた。

「悠理。」

扉のノブに手をかけた時、清四郎の声が届く。

「ありがとう。」

それが精一杯の返事。
僅かに震えた声が、男の感動をまざまざと伝えていた。
悠理はそっと振り返り、照れたように笑う。

そして声には出さず、
「またね」
と口を象(かたど)った。

そんな凶器的ともいえる可愛さに、敢えなくノックアウトされた男。
悠理が去った後、額に手をやり微かに身悶える。
その姿はまるで、初恋が成就したばかりの思春期の少年のようであった。



「どこへ出掛けていたんですの?」

部屋に入るなり冷ややかな声が悠理を包む。
まだ薄暗い部屋の中、ベッドの上できちんと正座した野梨子が、冷たい視線で射抜いてきた。
寝巻きである自前の浴衣は一切乱れていない。

「び、ビックリしたぁ。ち、ちょっとジョギングしてたんだよ。」

ヒュッと息を呑んだ後、辛うじて声をひそめる。

「―――陸上部でもありませんのに、随分と朝早くから走りこむんですのね。」

その詰問めいた問いかけに、悠理は口ごもった。
何もかもを見透かしたような視線が、痛いほど突き刺さる。
ふと、助けを求めて可憐のベッドを見遣るが、いまだ寝息を立てながら微動だにしない。

「ほ、ほら、ベッドが固くてさ、なんか寝苦しいじゃん?だから、目ぇ覚めちゃって。」

コキコキと肩を鳴らしながら悠理は自分のベッドへ潜り込む。
ひんやりとしたシーツが、やけに冷たく感じた。
さっきまでの温もりがふと、恋しくなる。

「あまり勝手な行動は慎みませんと。この合宿も授業の一貫なのですし。」

「わぁったってば。あたいもう一眠りするから・・・おやすみ!」

野梨子の視線を振り切るように背を向ける。
嘘は得意ではないのだ。
暫くそうしていると、小さな溜め息と共に、静かに布団を擦る音が聞こえてきた。
ようやく胸を撫で下ろした悠理だったが内心では、何か勘付かれたのだろうかとビクビクしている。

『こいつ、なんか怖いんだよなぁ。』

ただでさえ清四郎に恋している女。
鈍感なはずの自分ですら気付くほど、彼女からは恋のオーラが滲み出ている。
軽口を叩く可憐とは違い、真面目一直線な野梨子はどことなく重い恋をしている気がした。

だからと言って譲れない。
清四郎はもう誰にも譲れない。
元来、我儘な悠理のこと。
一度決めたら梃子でも動かない性格を持つ。

けれど・・・
手強い相手だと薄々は感じてはいた。

野梨子は頭が良い。
当然だ。
そんな女に本気になられたら・・・お馬鹿な自分は果たして太刀打ち出来るのだろうか?

『先生が野梨子の一途さを愛おしく思い始めたらどうしよう・・・・。』

気付いたばかりの想いを抱えたまま、悠理は堂々巡りの思考迷路に陥っていく。

『せんせぇが好き・・・』

それだけが正解で・・・
それだけが真実で・・・
あとは清四郎の心だけを信じるしかないのだけれど・・・。

身体がひやりと冷える中、悠理は気付かされる。
それは決してクーラーの空気が寒いからではない。

清四郎の包み込む腕がないからだ。
あの情熱に燃えたような身体が側に居ないからだ。
そしてもう・・・それに耐えられそうにない自分に気付き・・・悠理は心が震えた。

布団をギュッと握りしめ、目を閉じても・・・結局は寝付けないまま、空はとうとう白み始める。

清四郎の香りを纏ったまま・・・
シャワーなど浴びずに・・・・・

悠理は固く身を縮めた。