第二話

あれから一週間。
悠理はあの夜の返事を保留にし、もちろん告白されたことを魅録に伝えたりもしなかった。

男女交際なんて柄じゃない。
それも相手から告られるなんて……

早太に抱かれた肩は別れた後も震え、鳥肌はなかなか引かなかった。
気心の知れたダチとの触れ合いは珍しくも何ともないはずなのに……意識が違うだけでこんなにも反応が変わってしまうものなのか、と驚かざるを得ない。

自宅に帰ってから、ふと魅録へメールを送ってみた。
他愛のない話をするために。
20分後に返事は来たけれど、そこには案の定、「寝ちまったよ。………クラシックは子守歌にしかならねぇ。」とのぼやきが呟かれていた。
彼の背後に野梨子の気配を感じ、結局そのまま「おやすみ」と返信したが、モヤモヤとした胸の内は今日この日まで続いている。

誰にも言いたくない。
でも誰かに聞いて欲しい。

そんなジレンマが悠理のテンションをとことん落ち込ませていた。



突然、准教授の体調不良で休講となり、午後からの予定はスッカラカン。
仲間内しか集まらないアジトへと向かう道すがら、ちょうど清四郎が後を追いかけてきた。

初夏の日射しが白いシャツに透ける。
黒髪は風になびかぬほどきっちり固められているのに、どことなく爽やかだ。
そしていつもの穏やかな笑顔。
何故か一瞬ドキッとさせられたが、理由までも解らず、悠理は慌てて頭を振った。

「よぉ。」

「その調子だと、悠理も休講ですか?」

「そ。あのクソハゲ、食中毒にかかったんだと。」

「なるほど。ものが傷みやすくなる時期ですからね。」

「どうせならもっと早く連絡してくれたら良かったのに。午後から暇じゃんか。」

「そういう時こそ遅れを取り戻すべく、自習などすべきでしょうに。」

「け!やなこった。」

どうやら清四郎の講義も休講になったらしい。
隣を歩く男を見上げ、悠理は目を細めた。
こんな絡み合いも久しぶりに感じる。
清四郎の隣はいつも、居心地の良さ半分、悪さ半分といったところだ。

「んで、おまえは今からどーすんの?」

「渋谷の古本屋へ………と思いましたが、たまには悠理に付き合うとしますか。」

「え?」

「カラオケでも、食べ放題でもお好きなように。最近元気なかったでしょう?ずいぶんとフラストレーションが溜まってるんじゃないですか?」

それは彼にしては珍しい台詞。
しかし悠理の気持ちを浮上させるに充分なものだった。

「じ、じゃあさ!パンケーキの店、付き合ってくれる?」

「いいですよ。」

「やたっ!あの店、カップルで行くとドリンクが飲み放題になるんだ!」

「ほぉ。“カップル”───ねぇ?」

含みある視線で悠理を見下ろすも、彼女の頭はパンケーキのことでいっぱいなのだろう。
ウキウキと弾む心と同じ、フワフワの癖毛が揺れていた。
清四郎は苦笑する。

─────花より団子。色気より食い気。分かり切っていることですがね。

周りは皆、春を謳歌しようと色めきたっているが、自分たちはどうもその輪から一歩外に居る感じがする。

恋とは無縁。
しかしそれについて困ったことはない。
程良い距離感と友情は今の自分たちには丁度良い。
煩わしい感情さえ抱かなければ、いつまでも仲良く過ごせる。
稚拙かもしれないが、清四郎はそう信じていた。

ただ………

時折、無性に目の前の女を手に入れてしまいたくなる。
生命力に溢れるその身を全てこの腕の中に閉じこめてしまいたくなる。

これは一体どういう感情なのだろう。
可愛らしいペットを独占するような、はたまた特別なオモチャをとことん弄ぶような───何とも言い難い衝動。

女としての魅力に乏しいはずの悠理を、自分のモノとして扱い、自分だけに従順な生き物へと変貌させたい。
彼女に隠された別の顔を引き出し、独り占めしたい。

以前にも似たような感情を抱いたことはあるが、その時よりも輪郭がはっきりとしている。
もちろん日常的に感じるわけではなく、ふとした時──────
そう………例えば物憂げな横顔を目にした時など、清四郎は胸に渦巻く形容しがたい思いに戸惑うことが多かった。

もし………悠理が他の誰かと恋に落ちたら?

想像し辛いものだが、有り得なくはない。
色気は無くとも見た目は麗人の域。
頭は飛び抜けて悪いが、情の深い性格は一定の評価ができるだろう。
大食らいで乱暴者。
下品で向こう見ず。
しかし気っ風の良さと土壇場のクソ度胸には、過去何度も感心させられている。

友人ならば─────
必要以上に心騒ぐこともなかったはず。
彼女とはいつまでも仲良く居たい。
それは中学の時から変わらぬ思い………

清四郎は軽く頭を振ると、襟元を正した。
まだこの思いに名前をつけたいわけではないのだ。
子供じみた稚拙な独占欲で充分。
悠理が悠理らしくあれば、それで充分。

「清四郎?」

一粒たりとも余計な感情の見あたらぬその目に、清四郎の複雑な思いは霧散する。

「腹を壊さない程度に楽しむんですよ。」

「うん!!」

色気より食い気。
それでいい。

だが清四郎はまだ知らない。
否が応でも自覚させられるその瞬間を。
悠理に近付くその男に、かつてないほどの焦燥を味あわされることを

──────彼はまだ知らない