今日もまた雨。
どんよりとした雲と、時折木々を揺らすほどの強い風。
美しく切り揃えられた芝生が水を弾く中、悠理は窓の桟に浅く腰掛け、人気のない中庭を見下ろしていた。
「最近、雨…………多いよなぁ」
誰へともない呟きを拾ったのは魅録だ。
放課後の部室は、皆思い思いの趣味に没頭している。
野梨子は推理小説を。
可憐は湿気で崩れたヘアスタイルを元に戻そうと躍起になっている。
生憎の天気で、美童はデートをキャンセルされたらしい。
次の候補者を探すため、携帯電話に目を凝らしていた。
無線機の修理をしていた魅録は、ただ単に悠理の“ぼやき”に同意したかっただけなのかもしれない。
「そうだな。ツーリングも出来ねぇし、おまえだって詰まんねぇだろ。」
────詰まらない
昔なら確かにそう思ったはずの雨。
何よりも晴れた空が好きな少女は、しかし自らの変化に驚かされていた。
今は違う。
夕べのことを思い出せば、“雨”はこそばゆい記憶とともに心を温め、彼の制服の香りを蘇らせる。
ドキドキと高まる胸の音。
幸せな抱擁はけして夢ではなかったのだと、リアルに確信出来る。
あの時、清四郎は悠理の告白を聞き漏らしはしなかった。
「…………本当に?雰囲気に流されてませんか?」
「あのなぁ、あたいがそんな女に見えんの?」
「見えませんが………オツムが軽すぎて判断能力に一抹の不安が………」
「なんだとぉ!?」
「はは、冗談です。…………本当は……すごく嬉しい………」
清四郎の長い腕が薄い背中をそっと包み込んだ時、悠理は生まれて初めて、彼を“男”と意識したのかもしれない。
湿気た制服なのにこの上ない温かみを感じ、思わず何度も頬を擦り寄せた。
「好きだよ…………たぶん………ちょっと前から、おまえのこと、気になってた。」
「僕の想いが……無意識に伝わったのかもしれませんね。」
違う───
あの女の所為だ。
悠理は不快な噂と現場を思い出し、慌てて首を振った。
「悠理?」
「な………何でもない。」
清四郎の気持ちはもう悠理のものだ。
この腕も、抱擁も、その先のことだって絶対に譲る気はない。
あの臨時教師だけじゃなく───ほかの誰にも。
「帰りましょうか………送ります。」
「え、あ、うん。」
その決断は悠理にほんの少し、いやかなりの寂しさを与えたが、彼女は反論することなく頷いた。
素直な思いを言葉にするにはまだ照れくさい。
二人は一つ傘の下で、決して短くはない帰路を歩く。
次第に雨は小降りになり、剣菱邸に着く頃にはすっかり止んでいたが、清四郎は傘を閉じようとしなかった。
傘の下なら、密着できる。
互いの体温を感じられる。
悠理もまた、同じ考えだった。
もう、友逹の距離には戻れない。
彼の隣は………野梨子じゃなく自分のものだ。
「あんがと。コーヒーでも……飲んでく?」
「……………………いえ、今日はもう遅いので………」
いつも奔放な彼らに門限はおろか、ありきたりの礼儀作法すらない。
しかし清四郎はその時、名残惜しさを噛み殺しながら、悠理に背を向けたのだ。
彼女の部屋で、
二人きりで、
珈琲なんて飲んでしまったら────
その先、悠理の身の保障など何処にもない。
「じゃ、また学校で。」
「あ、うん。おやすみ。」
傘の下から離れた瞬間、悠理の肌は震えるほど寒く感じた。
小さくなっていく背中に、追いかけてしがみつきたいほど、胸が痛む。
想いを告げられ、そして想いを告げたことで、せき止められていた何かが決壊したのかもしれない。
ずっと───
もしかすると、
あたいもずっと、あいつのことが───
その夜、悠理は珍しく明け方まで眠れなかった。
瞼に浮かぶ清四郎の顔や、耳の残る告白。
そして触れた唇の質感に悩まされる。
───意外と、気持ち………良かったな
思い出すだけで穴に入りたくなるほど恥ずかしいが、それでも反芻してしまうのは、喜び故のこと。
「清四郎とキスするなんて…………」
考えてもみなかった。
自分たちの関係が変化することも。
悠理は買ったばかりのアルバムを手に取ったが、それを聴く気にはなれずにいた。
遂にはサイドテーブルに放り投げる始末。
───今は清四郎のことしか考えられない
雀が軽やかな鳴き声で朝を告げる頃、ようやく眠りについた悠理。
メイドが起こしに来た時には、大きなイビキを掻きながら枕に涎を垂らし、いつもの間抜けな寝顔を晒していた為、彼女が恋する乙女に変化したことは誰にも分からなかった。
「そういや、清四郎は?」
魅録が辺りを見回し、初めてその不在に気付く。
「呼び出されているらしいですわ。例の女教師に。」
「あら、またぁ?」
その会話に悠理はピクリと耳をそばだてた。
「やあねぇ?いくら若くて美人だからって、うちの生徒会長に手、出さないで欲しいわぁ。」
茶化す可憐に便乗したのは美童だ。
「意外と清四郎も喜んでたりしてね。あいつほら、むっつりだからさ。」
「はは、言えてんな。」
不快な会話。
不愉快な邪推。
悠理は桟から腰を下ろすと、自分でも予期しなかった台詞を叫んだ。
「んなわけねーだろ!!あいつはあたいのことが好きなんだから!!!」
シーーーン
水を打ったように静まりかえる部室。
皆が悠理を一斉に見つめている。目をまあるくして。
それでも悠理は言葉を撤回しなかった。
「あいつは………あたいのことが、好きなんだ。あんな女教師のことなんて、何とも思ってないんだぞ!」
口火を切ったのは野梨子だ。
「いったい、どうしましたの?悠理…………」
「どういうこった?」
魅録もまた追随せざるを得ない。
しかし答えを聞く前に可憐が口を挟んだ。
「清四郎が悠理を好きなのは……そういう意味じゃないでしょ?」
「ち、ちが………」
「確かにあたしたちみんな、あんたのことが好きよ?友達ですからね。」
「ちがうもん!!」
誰もその真実を受け入れようとしてはくれない。
徐々に恥ずかしくなってきた悠理は、髪を逆立たまま萎んでいった。
しかし、何かを勘づいた美童だけは助け船を出す。
「もしかして悠理、清四郎に何か言われたの?」
「「「え?」」」
「告白されたとか?」
真っ赤な顔で俯きながら、悠理はコクンと頷いた。
これ以上ない羞恥。
しかし全てが否定できない事実だ。
そこへ───
「あまり苛めないでくださいよ。」
「「「清四郎!」」」
「せぇしろ…………」
両手に荷物を抱えながら現れた男は、テーブルにそれらを放り投げ、皆の元へとやってくる。
そして見上げる悠理を微笑ましく見つめながら、取り出したハンカチで滲んだ涙を拭い、よしよしといつもの仕草で慰めた。
「悠理の言う通りです。夕べ、僕が告白をしました。」
「「えええ!?」」
「あんた……まさか…………本気なの?からかったわけじゃないでしょうね。」
可憐の追及は皆にとっても当然のものだ。
清四郎が悠理をからかうのは日常茶飯事。
しかしこれだけは万が一にも冗談では済まされない。
「失敬な。本気ですよ。それに………悠理からも気持ちを頂きましたしね。」
「「「え!??」」」
「僕たちは要するに………もう、友人同士ではないということです。」
驚愕の事実。
お釈迦様と孫悟空の恋愛話など、誰も想像し得なかったこと。
恐らくは昔の婚約話の時ですら。
「さ。報告も終わったことだし、悠理、今日も相合い傘で帰りましょうか。」
「………………。」
「悠理?」
「…………あの臨時教師は?」
どれだけ強気の啖呵を切っても、結局は気になっていた悠理。
今聞いておかないと心から笑えない気がして────醜い嫉妬だと分かっていても、尋ねずには居れなかった。
「あぁ、用は済みました。実は彼女の弟がESP研究会の一員でして、色々と悩み相談に乗っていたんですよ。ここだけの話、二人とも特殊能力の持ち主でね。まあ、何の役に立つかと言われれば難しいんですが。」
「へ、へぇ。そなんだ。」
無事、悠理の嫉妬が解決しても、ほかのメンバーはなかなか現実に戻ってこれない。ぽかんと口を開けたまま、言葉を失っていた。
「ということで、皆さんも早めにご帰宅を。これから更に雨足が強くなるみたいですよ。」
悠理の肩をごく自然に抱き寄せ、清四郎は二つの鞄を手に部室の扉を開けた。
残された四人のことなど、目にも入っていないのだろう。
「もしかして嫉妬したんですか?」
「だって…………」
「ふふ。なかなか可愛いところもありますねぇ。」
「清四郎!」
小さくなっていく会話は聞いていてあまりにも恥ずかしい。
「なんだ、あれ。」
「知らないわよ!」
「夢では………ありませんのね。」
「いいじゃない。これであいつらもようやく“人並み”なんだから。」
人並み?
あの清四郎と悠理が人並みであるはずがない。
この先、傍迷惑に繰り広げられる恋人同士の甘い雰囲気は、日に日にその濃度を濃くしてをいくのだが、さすがの美童も今の段階では予想も出来ず…………
雨は、清四郎の宣言通り強さを増し、相変わらず一つの傘を使う初々しいカップルは近くのカフェを目指し寄り添って歩いていた。
「よーし、今日はパフェ食おうっと!」
「はいはい。」
「あ、別に奢ったりしなくていいぞ?おまえ、破産しちゃう。」
「…………心配されずとも、そこそこの蓄えはありますよ。」
「昔、人にパソコン買わせたくせにぃ………」
「ふふ。あれはペナルティーです。次、また僕に黙って“オイタ”をしたら…………」
「し、しない、しないってば!」
「よろしい。」
そうそう直ぐには変わらないけれど、繋いだ手は離れぬまま。
たとえ雨でも嵐でも、二人一緒ならずっと楽しい。
これまでも。
これからも。
変わらぬ幸せは永遠に続いてゆく───