雨雲は重く蔓延る。
日も暮れ落ち、辺りはすっかりネオンが瞬いているが、天気の所為か人の気配は少ない。
悠理は濡れた制服を紙袋に入れた。
飛び込んだブティックはサービスが手厚く、
水を吸い込んだ鞄も丁寧に拭き上げ、すっかり元通りの姿にしてくれた。
購入した服の金額に見合った心遣いともいえるが………それでも悠理の心は満足した。
大切な中身もかろうじて無事。
しかし今、彼女の頭を占めているのは──それではない。
傘で遮られた小さな空間で、清四郎の唇は悠理の濡れた頬を何度も滑った。
その慈しみに満ちた行為は、時を忘れさせ、そこが雑踏のど真ん中であることも脳裏から消し去る。
夢のような現実。
だが、冷たい雨よりもずっとリアルに感じた。
至近距離で生暖かい吐息が触れ、清四郎の制服が鼻に香る。
悠理はそっと尋ねた。
「なんで……………唇じゃないんだ?」
清四郎は答える。
「まだ………おまえの気持ちを聞いていませんから。」
───気持ち
悠理には恋が分からない。
もちろん概念は知っているが、それが今の気持ちに当てはまるかどうかまでは分からないのだ。
清四郎に対する思い。
甘えて、
頼って、
信じて、
共に走り抜ける。
それは友人としての彼だ。
意地悪な男を、“大嫌い”と言い切ったのはいつだったか?
心からの憤りをぶつけたのはいつだったか?
それでも離れられない友人。
それでも離したくない仲間。
魅録が相手なら、きっと素直に好きと言えただろう。
たとえ恋じゃなくても、彼は悠理と価値観が似ているし、一緒にいて楽しい男だ。
裏表のない性格や、男気溢れる誠実さ。
共に過ごす時間は喜びに満たされている。
清四郎は違う。
いつもいたぶられ、泣かされる。
知的なイヤミは悠理を惑わし、落ち込ませる。
それでも────
本当は優しい男だと知っている。
隠された情熱も、
友達思いな性格と行動も、
惜しまぬ努力も。
清四郎の背中は温かい。
いつも、いつも、彼の側にいれば心から安心出来る。
強い男だ。
自分よりもずっと───
それもわかっている。
「ぶぇっくしょい!」
「おっと………」
シリアスな場面は大きなくしゃみで終わりを迎え、悠理は気まずそうに鼻を啜った。
どうも体が冷えてきているようだ。
「このままでは風邪をひく。さっさと服を買って、飯を食いましょう。」
清四郎は悠理の肩を抱き寄せたまま、大きな商業施設へと向かった。
高級ブティックの一つに目をつけ、悠理は飛び込む。
サイケな模様が気に入ったからだ。
ゆったりとしたシャツとワイドパンツ。
もちろん靴も購入した。
大きな紙袋を持って店を出た悠理は、ベンチに座り文庫本を読む清四郎に、声をかけようとして戸惑う。
───さっきのは夢?雨が見せた幻?
そんなわけないと分かっている。
彼の唇になぞられた頬は、未だ熱い感触を覚えているのだから。
「お待たせ。」
「おや。なかなか派手ですな。」
「へへ。だろ?」
清四郎は悠理の手からスマートに大荷物を抜き取った。
そんなサービス、された記憶は一度もない。
くすぐったい気持ちがわきあがる。
「も、持つよ!自分で!」
「いいんですよ。」
スタスタと歩き出す男の背中はいつもより大きく見えた。
せめて傘だけでも、と悠理はその腕にしがみつく。
「………これ、持つから。」
「ふ………どうしたんです?いつものおまえなら『ラッキー』と喜ぶだけでしょうに。」
「でも…………」
「これはデートなんです。恋人に大きな荷物を持たせて平気な男はいませんよ。」
「デート…………」
いつになく優しい笑顔を見せる男は、女の扱いに慣れているらしい。
悠理は複雑な感情にとらわれそうになったが、首を振り、敢えて考えないことにした。
「さあ、何が食べたい?」
「……………えと…………トンカツ?」
「OK。雨、ですしね。揚げ物は良い。」
手ぶらで清四郎の後をついて行くことになったものの、胸の中がドキドキと五月蠅い。
これは恋?
それとも、慣れない男に感じる一般的な現象?
悠理には分からない。
分かることはただ一つ。
ずっと───彼の背中を見続けたい。
それだけ。