七
使い慣れた無線機をいつものように弄っていると、これまた馴染みの仲間がコンタクトをとってきた。
深夜一時の出来事。
“魅録さん………ちょっと気になることが………”
相手がいつになく躊躇った感じで話すため、魅録もまた意識を傾けるほかない。
暴走族の中でも古株の彼が、おどおどと話すその内容。
巷のワルを統べる男にとって、それは到底聞き流せるものではなかった。
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初七日で出会った女は突拍子もない提案で魅録を驚かせた。
───私と結婚して『武富組』を継いで欲しいの。
菊翁の秘蔵っ子と評されていた魅録が、そのような対象に見られることは何ら不思議ではない。
事実、よその組からも冗談か本気か解らない調子で打診されたこともある。
しかし今回………武富組の娘は結婚を持ち出してきた。
それも本人自ら。
────有り得ないだろう。
自分と同じ年頃の女が、組(家)のために結婚を決めるだなんて………いくら何でも時代錯誤過ぎる。
魅録は一笑に付した。
だが彼女はそれを笑いで返したりしなかった。
真顔で近付き、炎のような瞳を輝かせる。
───貴方じゃなきゃイヤ。貴方以外に考えられないわ。
迫力ある美女など、自分の母親を含め、多く見てきているつもりだったが、どうしても彼女からは歪な気配しか感じ取れない。
産毛が逆立つような嫌悪感。
本能が教える危機感とでもいうのか。
思わず後退り、距離をとった。
───何の冗談か知らねぇが、俺にやくざ家業は無理だよ。諦めてくんな。
そう言ってその場を締めくくったが、とても諦めるようなタマには見えない。
背中に突き刺さる痛いほどの視線。
それを無理矢理振り切ると、魅録は足早に彼女の元から立ち去った。
「面倒なことにならなきゃいいがな………」
数多くの修羅場をくぐってきた彼でさえ、ヤクザの世界のややこしさを敬遠している。
よほどのことがない限り、近付きたくはないものだ。
しかし此度の菊扇の他界は、一介の高校生を容赦なく巻き込み、とぐろ巻く闇の世界へ誘おうとしていた。
あらゆる方向から伸びてくる手。
多くの男に慕われる彼も、さすがに困惑せざるを得ない。
「親父っさん………えらい置き土産を遺していってくれたな。」
そう愚痴ったとて、魅録を取り巻く環境がマシになるわけがないのだ。
頭を抱える中、族仲間からの報告に耳を傾ける。
「ちょっと言いにくいんですが………」
「いいから早く言えよ。」
「実は………お友達の“白鹿野梨子嬢”についてなんですが………」
魅録は当然ドキッとした。
何せ恋心を抱いている相手の話である。
慎重にならざるを得ない。
しかし、純粋培養された彼女と夜の世界に蔓延る彼らに、一体どんな接点があるというのか?
魅録が先を促すと、彼は重い口を開き、驚愕の内容を告げた。
「実は、俺の弟分と車を走らせてる時、ヤバい奴らと一緒のところを見かけたんです。あれは間違いなくヤクザで………ハマ(横浜)では名の通った”女衒業”を営む男達でした。彼女目立つから直ぐに判ったんですが…………奴らと連む理由が解らなくて。」
「野梨子が?………見間違いじゃねぇのか?」
「いや、あのおかっぱ頭は間違いないっす。顔も……そんじょそこらにいる美人じゃないんで。」
「……………………。」
魅録は黙り込んだ。
彼の頭をもってしても、意味がわからない。
「あいつら、ハマだけじゃなく、最近は六本木界隈にまで手を伸ばしていて、二ヶ月前、ちょっとしたトラブル起こしてました。ほんと厄介な連中なんですよ。」
「わぁった。俺が確かめてみる。ちなみに何処で………」
「港区の……わりと有名なシティホテル前です。」
「ホテル?」
嫌な予感がする。
点滅するシグナルに魅録は息を詰めた。
野梨子が何故、そんな男たちと?
接点などゼロに近いはず。
無線を切る魅録の指は、自分でも気付かぬほど小刻みに震えていた。
イヤな予感ほど当たるものだ。
過去の様々な経験が魅録へ警鐘を鳴らす。
「野梨子………」
どんな理由があっても、彼女への危害は許さない。
守りたいと思う気持ちは清四郎よりも強く、激しい。
魅録は時間をチラリ確認すると、携帯電話を手に取り、とある人物へと発信した。
これは慎重に調べなくてはならない。
そんな覚悟を持って。
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気怠い腰。
汗と体液にまみれた身体。
乱れたシーツに俯せとなったまま、放心状態の野梨子は涙すら流れぬ自分をあざ笑った。
男………神川 賢介は煙草を吹かしながら、窓の外の夜景を眺めている。
神川の気分は最高だった。
無垢だった女を手籠めにする快感は、薬物よりも遙かに興奮させてくれる。
世間知らずのお嬢様は、約束を信じてホテルにやってきた。
そしてまんまと獣に蹂躙され、汚され尽くし、今、真っ青な顔で横たわっている。
以前よりも激しい行為に、噛みしめた唇からは血が流れ、必死に声を押し殺す。
そんな高貴な姿にこそ興奮する男は少なくないというのに………
「愚かだな……」
男は小さく嗤った。
「金は?」
目的の一つを口にすると、のろり起きあがった野梨子はサイドテーブルにある小さなハンドバッグを引き寄せた。
取り出した白い封筒はそれなりの厚みがあり、約束通りの金額が納まっていると判る。
「約束ですわ。………データを、渡して下さいな。」
震える語尾。
美しいが故、その憎しみに満ちた顔はより鮮烈に映る。
「わかってるよ。ほら……これだ。」
小さなメディアカードを放り投げた男は野梨子の手から封筒を奪い取り、その中身を確かめた。
律儀にも全て新札で揃えられている。
「確かに。」
ぺろっと舌なめずりした神川はそれを懐に収め、満足そうに笑った。
不愉快な表情に野梨子の怒りが増幅する。
「約束ですわ!もう………私と関わらないでください!二度と私を………」
「“剣菱悠理”…………だったよな。あんたのお友達は。」
突如として言葉を遮られ、目を瞠る。
あの健康的な仲間の名はこの地獄に似つかわしくない。
屈託のない笑顔。晴れやかなランチタイム。
清浄な学園生活のヒトコマを思い出した野梨子は、喉を締めつけられるような痛みを感じた。
「な、それがなんだというんですの?一体………貴方は………」
「元々は“そいつ”がターゲットだった。とある人の命令でね。あんたはただ、“とばっちり”を受けただけのことさ。」
「とばっちり…………」
野梨子は呆然と呟いた。
何となく解ってはいたが、その中身までもは窺いしれない。
男達の真の目的は何なのだろう。
これほどの事をしでかす理由は?
「あんたの猥褻動画を売られたくなけりゃ、次は剣菱悠理をここに呼びつけてもらおうか。」
「──────え?」
言葉の意味が分からない。
野梨子の黒く輝く目はさらに見開かれた。
「今日の痴態はなかなかマニア受けすると思うんだよなぁ。聖プレジデントのお嬢様がこんなに汚されちまってよ。笑えるほど高値が付くぜ。」
絶望とはこういうことを云うのか。
にやり、下卑た笑みをたたえる男がテレビの背後から取り出したのは……家庭用の小型ビデオカメラだった。
「よしよし。なかなかよく撮れてる。ほら観てみるか?あんたの綺麗な体が俺に犯されてるところを。」
「卑怯者!!!」
咄嗟に鞄を投げつけるも、男はそれをヒョイとかわし、嗤った。
もはや殺意しかない。
こみ上げる怒りは過去に経験したことがないほど澱みきっていた。
「なーに。剣菱悠理を連れてきてくれさえすれば、あんたは解放される。このビデオも売ったりはしないさ。」
嘘
うそ
ウソだ!!
この男の言うことは全て嘘だ!
野梨子にはわかっていた。
きっとどんな手を使っても、悠理を陥れるつもりであろうことを。
もちろん自分も、陽の当たる場所を歩けないほど陵辱されるだろうことを。
大事な友人をそんな目に遭わせるくらいなら、今ここで自決してやる!
もちろんこの獣をきっちり始末してから。
「どうして………悠理を?」
震える声を必死に絞り出すと、男は
「そりゃあ、“松竹梅魅録”とやらの恋人だからだろ?」
と事も無げに答えた。
「悠理…………が?」
そんな気配は全く伝わってこなかった。
確かに仲の良い二人だけど、まるで兄妹のようで……ただの親友だと思っていたのに。
「そんなこと………ありえませんわ。」
「ふん。ま、俺にとっちゃどうでもいいがな。ただ“とある人”にとっては、邪魔な存在だってことなんだよ。俺らは依頼されただけ。ちょっとした手違いはあったが、結果オーライってか。ははは!」
男の嘲笑に、野梨子の怒りはむしろ氷河のように冷え切った。
生きる価値すら見あたらない最下層の男。
もはや躊躇う必要も無い。
握りしめた拳は手のひらに爪痕を残す。奥歯をギリギリ噛みしめると血の味は口全体に広がった。
「喉が………渇きましたわ。」
「あん?………水でいいのか?」
屈んだ男が冷蔵庫を覗く。
野梨子はその背中を見つめながら、自らの腰に巻いていたベルトを手に覚悟を決めた。
この悪魔を抹殺するため、躊躇ってはいけない。
それでも震える手に力を込め、一歩、また一歩と踏み出す。
悪夢のような生活はこれでおしまい。
そして楽しかった人生もまた………
蒼白した野梨子の美しい瞳から、ようやく一筋の涙が零れた。