本編~第五話~

魅録は黒づくめの男に囲まれていた。
初七日なのだから当然といえば当然。
自身も礼服に身を包み、ご仏前を差し出したばかりだ。
剣菱百合子は顔馴染みの幹部に分厚い其れを渡していた。
姉御よりも姉御らしい風格は周りの者を圧倒する。

屈強な男たちもまた頭を深く下げ、恭しく受け取っていた。

「魅録ちゃんも大変ねぇ。」

隙のない化粧の下で、美しい顔がにっこりと微笑む。
年齢を重ねても相応に美しく、剣菱万作の心を鷲掴みにしたままである理由も解らなくはない。
もちろん肝の据わった性格や、本質的な優しさも彼女の魅力ではあるが───。

「………今日を機に、出入りはしないつもりです。」

「その方がいいわね。松竹梅さんも良い顔をしないでしょうし。」

警視総監の一人息子がヤクザの、それも大親分の家に呼ばれるなんてこと、通常有り得ない。
魅録は自分の立場を重々分かっていたし、それ以上にこの世界へ引き込まれる事への危険性を感じていた。
確かに、裏社会には魅力的な輩も多くいる。
が、自分はまだ高校生で、親のスネを齧る子供でしかない。
境界線を越えてまで親しくしたい人物はさすがに居ないわけで・・・・・
菊扇に求められてきたポジションに立つなんてことは絶対に受け入れられない事態だった。「奥さん………こちらへ。」
どうやら菊扇が遺した遺品を譲り受ける約束だったらしい。

百合子は幹部の一人に付き添われ、奥座敷へと消えていった。

手持ち無沙汰になった魅録は、縁側から日本庭園を眺める。
亡くなった老人は生前、よくここに座り、愛犬と共にお茶を啜っていた。
とてもヤクザを牛耳る実力者には見えない、穏やかな笑顔を宿して。

「ちっ…どうも、感傷的になっちまうな。」

「私もよ。」

急な声がけに振り返れば、そこには濃紺のワンピースを着た同じ年頃の女が一人。
艶やかな髪から漂うジャスミンの香りが、魅録の鼻を掠めた。
豊かな胸をタイトなデザインの服が締め付けていて、より艶めかしい雰囲気を醸し出している。

大きな瞳と白い肌。
10人中10人が美人と評価するそんな女に、しかし魅録の危険を察知するアンテナは鳴り響いた。

────この女、只者じゃねぇな。

ヤクザの屋敷に出入りする輩が素人のはずはない。

ただそれ以上に感じる違和感、嫌悪感、そして産毛を逆立てる何か。

容姿とは真逆の隠された闇を、経験豊富な魅録はしっかりとキャッチしていたのだ。

「あんた…………」

「初めまして。私は武富麻雪(たけとみ まゆき)。───貴方が噂の、おじいちゃんの秘蔵っ子ね。」

秘蔵っ子────
そんな評価をされているのか。
魅録は照れたように頭を掻き、言葉を濁した。

反面、多くの情報が詰まった頭は『武富』という名字を検索し始める。

“武富”────確か横浜最大の組が、武富だったよな。

大都市を統べる組長の評判は昔から高く、ここ十数年、横浜だけは争いごとが少なかった。

見当の付いた魅録の横顔を見つめながら、麻雪はふっと頬を緩める。

「貴方も知っての通り、私の父は武富組の組長よ。おじいちゃんとは古くからの付き合いで、幼い頃から可愛がって貰っていたの。花嫁姿を見せる約束だったのに・・・残念だわ。」

話の内容はともかく、魅録は彼女が発する異様な空気感に緊張を感じていた。
何だろう。この女の近寄りがたい雰囲気は。

まるで暗殺者と対峙した時のように、鋭く、重苦しい。

「なるほどね。となると、こっちの情報はあんたの耳にもきっちり届いてるんだろうな。」

厄介な相手だと思いつつも、魅録は麻雪の思惑を覗き見ようと試みた。
危険な賭けかもしれない。
だが、得体の知れない相手と同じ空気をこれ以上吸いたくはない。

武富麻雪は一瞬目を瞠った後、屈託ない笑顔で答えた。

「ええ、もちろん。名前は松竹梅魅録。年齢は私と同じ19歳。聖プレジデント学園高等部在籍、趣味はバイクと機械いじり。お父様は警視総監でありながら、貴方自身は泣く子も黙る暴走族の元リーダー。でしょ?」

「間違ってはないな。」

「おじいちゃんが無条件て後継ぎに推した男は貴方だけってことも知ってるわ。」

「…………それで?わざわざ声をかけてきた理由は何だ?」

不愉快にも感じる麻雪の訳知り顔。
魅録は急かすように結論を尋ねた。

「私と、結婚して欲しいの。」

「…………………は?」

「もぉ!二度も言わせるの?この私と結婚して欲しいの。そしてうちの組を継いで欲しい。」

闇を秘めた瞳と赤い唇。
整った眉を顰めた後、麻雪は告げる。

それはあまりに突拍子もない提案で、かといって茶化すことは出来ない。

彼女の真剣な眼差しには一分の隙も感じられず、魅録の口は半開きのまま停止した。

これが二人のファーストコンタクト。

頭で鳴り続けるシグナルは、彼の思考をじわじわと蝕んでいった。

地獄の釜は開いたまま────

その夜、野梨子は港町に建つ倉庫に居た。

ブラウスの前を緩慢な動きであわせ、新しく刻まれた痕を隠すようボタンをきっちり留める。
横に転がる男は至福の一服とばかりに煙草を吹かしているが、下半身はまだ露出したままだ。
野梨子は吐き出される煙と男から顔を背け、歯ぎしりせんばかりに奥歯を噛み締めた。「……………50万。」

「…………え?」

「次で最後にしてやる。だから50万持ってこい。その金と画像データが交換だ。」

そう言って、男…………神川賢介(かみかわけんすけ)はニヤッと口の端を持ち上げる。
下卑た笑いに吐き気をもよおす野梨子を面白おかしく眺めるのも、この男の最低たる所以だ。

前日の夜。
野梨子の携帯を振るわせたコールは、彼女を更なる地獄へと引きずり込む一報だった。
舌なめずりする男はまたしても野梨子の身体を要求してきたのだ。
もちろんあの夜の汚らわしい画像を盾にして。
当初、野梨子は差し違えるつもりで、鞄に剪定鋏(せんていばさみ)を忍ばせた。
しかし指定された場所は真っ暗闇の倉庫街。
自宅から1時間ほどの距離にある、わりと大きな港だった。タクシーが帰った後の其処では、足元すらおぼつかない状況で、野梨子は不安に胸が押し潰されそうになる。
携帯電話の仄かな明かりを頼りに歩いていると、突如として後ろから羽交い締めにされ、またしても無理矢理開けられた口から記憶にある薬が流し込まれた。
苦い薬。
前回より多めの量だと解る。
その所為か、意識が失われるのは早かった。
次に目を開いた時、野梨子の上には獣のような男が居て、引き裂かれるような痛みと強烈に漂うタバコの香りに、またしても意識が微睡んだ。
揺れ動く影は野梨子のおよそ倍ほどはある。
男の手によって固定された腕は血流が止まっているかのように痺れていた。
気怠い身体。
抵抗しようと思っても、肩すらろくに動かない。

床に転がる小さな懐中電灯は、そこが空の倉庫であることを野梨子に知らしめた。

────死にたい。どうせなら死なせて欲しい。

湿った音と荒い息遣い。
執拗に吸われる胸が痛みをおぼえる。
舐められた顔からは男の口臭が漂い、強い吐き気がした。

背中にはマットのような物を感じたが、野梨子が普段使う布団とは似ても似つかぬ感触で、安っぽい、そして埃臭さすら感じる粗悪品だった。

「なぁ…………声、出せよ。」

出すものか。
呻き声すら出してやるものか。

このケダモノの望むような痴態は一ミリたりとも見せない。

無言で逆側に顔を背けると、男は更に激しく穿ち始めた。

痛い────

痛い────
どうして私がこんな目に────!?
清四郎、清四郎!!!
私は一体どんな理由で、誰の代わりにこんな目に遭っているの?

どうして??

魅録────
もう貴方に…………恋を告げる事も叶わない。

二度の放出を終えた男はゴロンと仰向けに転がった。

激しい鼓動がこちらにまで聞こえてくるようだ。
野梨子はのろのろと身を起こし、はぎ取られた服を手探りで探し当てる。

破かれた下着は使い物にならず、キャミソールとワンピースだけを身に着けた。

────鞄・・・鞄はどこ?

探す手を見留めた男が、クックッと低く嗤う。

「なかなか気の強いお嬢さんだ。剪定鋏なんぞ忍ばせて、俺を殺す気だったのか?」

男は肩肘をつくと、野梨子の武器を見せつけた。
鈍く光る刃物。
それを憎むように見つめる野梨子。

どんな目に遭っても彼女の気の強さは失われない。

反論しようと口を開けば、その前に男が言葉を挟んだ。

「……………50万。」

「…………え?」

「次で最後にしてやる。だから50万持ってこい。その金と画像データが交換だ。」

「50………万?」

「あんたほどのお嬢様が用意出来ないとは言わせねぇよ?それに俺も殺されちゃ割に合わねえ。次が───最後だ。」

「ほ、本当ですの?」

「ああ。」

男の指が鋏の先を確かめるように触れる。

野梨子はゴクッと唾を呑み込むと、「解りましたわ。」と短く答えた。

「明後日は昼間に会おう。俺が迎えにいく。」

「ど、どこに!?」

「………何処が良い?」

「…………来ないでくださいな!わたくしが言われた場所に……出向きます!」

震える手が口を覆い、涙を堪えるべく歯を食いしばった。

誰にも知られたくない!

家族はもちろんのこと、清四郎や仲間にだって!
特に清四郎は拙い。
万が一、この男との接触を見られたら、きっと勘付かれてしまう!

「ふ…………解ったよ。じゃまた連絡する。」

男が強く口止めするようなことは一度もなかった。

恐らく野梨子の背景を知った上で、彼女が口を割らないと信じていたのだろう。
実際、この手のスキャンダルは致命的。
無論、学園にだって居られない。

知られたが最後、彼女を待ち受けているのは『死』のみだ。

プライドと守るべき家柄。野梨子は四面楚歌の状況で、男の要求に頷いた。

立ち上がった野梨子に、男もまた続く。
そして背後から抱きしめると、耳の側で臭い息を吐きながら囁いた。

「あんたの身体、今までで一番だ。本当は惜しいんだけどよ。解放してやるさ。俺は優しいからな。」

服の上から胸を揉まれ、こみ上げる嫌悪感を必死で堪える。
突き飛ばすよう振り払った男は、しかし追いかけるようなことはしなかった。

闇雲に走る。
倉庫の扉が重いにも関わらず、野梨子は火事場の馬鹿力でそれを一気に開け放った。

涙と嗚咽にまみれながら走り、大通りまで辿り着いた時、彼女はようやく堪えていた胃液を側溝の中へと吐き出した。

……………殺してやる。次こそ、必ず。

誓いにも似た決意が流れる涙と共に生まれ、野梨子の拳を固くする。

もう、失敗しない。

たとえそこが地獄の底であろうとも必ず。