四
鏡に映った自分は、もう以前の自分ではないような気がする。
野梨子は寝間着の前を静かに開き、赤く腫れた肌をじっくりと見つめた。
障子からは否応無しに朝日が透けてくる。
鏡台に光が反射し自分を照らすけれど、野梨子にとって映るもの全てが醜く汚らしいと感じ、拳を握り締め、鏡を叩き割りたくなる衝動を必死に堪えた。
こんな思い、かつて経験したことはない。
いつも誰かに守られ、真綿にくるまれた温かな生活を送ってきたのだ。
誰一人として、これほどの痛みを彼女に与えなかった。
これほどの屈辱も────
痛む喉からは、何も言葉を発したくない。
女中には手紙を渡し、学校への連絡、そして父母への言い訳を伝えて貰った。
頭痛がひどく熱もある
喉も痛むため、人とは会えない
母がそっと差し入れてくれたのは金柑の蜂蜜漬け。
甘いそれを少しだけ口に含めば、いつもの日常は涙が出るほど優しかった。
それなのに─────
足を捕らえたままの闇は、野梨子を奈落の底へと引きずり下ろす。
身体の中心から真っ二つに引き裂かれた痛み、そして激しい嫌悪感がぶり返し、またしても吐き気を感じた。
手洗いへ行くこともなく、小さなゴミ箱に紙を敷き、吐きもどす。
あの悪夢が何度も何度も、野梨子を切りつけ、絶望へと突き落とした。
誰にも、言えない。
母も、父も、そして清四郎にも。
もちろん、優しき友人達には口が裂けても言いたくなかった。
腫れた瞼を、
切れた唇を、
一晩で痩けた頬を、
震える手で確かめる。
大きな目を塞ぐような瞼は、赤く重く醜い。
男に触れられた唇は血が滲むほど擦った。
その柔らかな皮膚が再生するまで、かなりの時間がかかるだろう。
あの汚らわしい悪魔達を、自分の手で殺してやりたい。
野梨子は本気でそう思っていた。
地獄の釜へと突き落とし、己の所業を後悔し泣き喚くまで、この闇はきっと晴れないだろう。
いや────彼らには“死”こそが相応しいのかもしれない。
毒殺?
刺殺?
そんな生温い遣り方では納得出来ない。
あの痛み
あの苦しみ
あの屈辱
男達の穢れた手が這い回る、あの感触。
全てをカメラに記憶され、車から放り出された時。
兄貴と呼ばれていた男は、何かを思い出したかのように野梨子の鞄から携帯電話を取り出した。
そしてその時に落ちた学生証を見て、彼らはようやく知ったのだ。
自分たちが犯した相手は「剣菱悠理」でないことを。
「おい───どういうことだ?」
「…………もしかして、こっちのヒヨコ頭が───剣菱悠理?」
莫迦な男達は顔を見合わせ、呆ける。
しかしそれも僅かの間。
「ちっ。しくじったな。」
「兄貴………どうしましょう?」
「知るか!」
「お嬢にバレたら………面倒ですぜ?」
呻くような吐息の後、男は野梨子の襟元を乱暴に引き寄せ、顔を確かめるように目を細めた。
細めた───ように見えるだけだ。
実際にはサングラスをしていて、男の表情までは読みとれない。
「…………解ってるよな?他言するなよ?もし下手な動きをすれば、手元にある画像、学校、名前付きでネットや近所にバラ撒いてやる。」
鬼畜───この男は鬼だと思った。
野梨子は顔面を強ばらせ、頷くばかり。
父、母、お弟子さん達。
それに学園にも迷惑がかかる。
何よりも仲間たちに知られたくなかった。
特に───魅録には。
優しい彼が心痛める事は目に見えていたから。
放り出された場所は街中から少し外れた公園の片隅。
野梨子は何とかタクシーを見つけ、それに乗り込んだ。
破られたタイツは車の中に置き去りにしてきた為、途中コンビニに立ち寄り、出来るだけ分厚いストッキングを買う。
乱れた髪を化粧室で整え、顔が痺れるほど冷水で洗った。
青ざめた肌を少しでも誤魔化す為に、安いコスメで補う。
その時、涙はもう止まっていた。
抜け殻の様に思える身体は小さく震え、生気の失われた顔は、それでも美しかった。
そして彼女は家路についた。
遅くなった言い訳を用意して。
現実と自分を切り離せば、不思議と夜は良く眠れた。
夢の方が現実よりも優しく───
目覚めた時、その事実に悲しくなる。
野梨子は徐々に壊れていく。
誰にも言えぬ不幸を抱きながら。
・
・
・
「ねぇ、もう三日経つわよ?野梨子ったら、そんなにも酷いのかしら。」
「メールの返事はもらってるぜ?人に移しちゃダメだから、長めに養生するってよ。」
「今年の風邪はタチが悪いのかもしれないよ?一学年下のユミちゃんもこの間入院しちゃってたし。」
五人が顔を付き合わせ、昼食を楽しむ時間。
欠けた一人を案じながらも、可憐が焼いた絶品ケークサレはみるみる内に消えてゆく。
言わずもがな、悠理が野梨子の分までをも胃袋に収めてしまうからであるが、そんな大食らいの少女を、清四郎はいつになく真剣に、そして温かい目で見つめていた。
この間の一件から、彼は悠理の動向をつぶさに観察している。
もし自分の期待通りならば───その先、打つ手は一つだけ。
切なる想いを告げるしかない。
しかし今はどう見積もっても清四郎に関心は無く、一切れ残ったケークサレをどう攻略しようか、うらめしそうにフォークを口に咥えていた。
「僕の分も、半分どうぞ。」
「え?マジで?」
「あら、あんた最近優しいわね。それとも食欲ないの?」
「食欲……まあ、少しくらい減ってはいますが、その原因は分かっているので心配には及びませんよ。」
清四郎は皿を悠理の前に差しだし、子犬のように尻尾を振る彼女の頭をよしよしと撫でた。
原因は言わずとしれた、恋煩い───
果たして、この食欲の権化を卒業までに落とせるのか?
そう考えれば食欲も失せようもの。
「あんがと!せぇしろちゃん!」
屈託のない笑顔は安らぎを与える。
「はいはい。」
清四郎は撫でる手を止められなかった。
柔らかな毛並み。
吹き出物一つない、滑らかな肌。
ケークサレの食べカスが口の周りを汚していても、悠理はとてつもなく可愛い。
「なら、もう一杯、紅茶は如何?」
「頂きます。」
可憐の一言で我に返ったものの、名残惜しさ故、殊更ゆっくり頭から手を離す。
そのぎこちなさにも気付かず、悠理はあっという間に完食してしまった。
「ごっそーさん。んまかった!可憐、明日はもっとたくさん焼いてきてくれる?」
「馬鹿言わないで。朝からどれだけ大変だったか、あんた知らないでしょう?」
「むぅ。だって明日は野梨子が元気に登校すっかもしんないじゃん!これっぽっちじゃ足りないよぉ。」
一見、友達思いな発言だが、本音は自分の取り分を気にしてのこと。
清四郎と可憐は呆れるほかなかった。
「あ、そうだ。今週の土曜、デザイナーに誘われたパーティがあるんだけど、皆来ない?」
空気を変えるような話題に、いの一番に手を挙げたのは悠理だ。
「行く!行く行く。ぜーったい行く!」
「あれでしょ?『Mode Michiko』の10周年パーティ。あたしもボーイフレンドに誘われたわ。パントマイムのショーが行われるのよね?」
「ほぉ、それは楽しそうだ。僕も参加させてください。」
「俺は………ちと野暮用で、パス。」
「えー、なんだよぉ、魅録!」
ノリの悪い親友を悠理はヘノ字口で睨む。
しかし魅録は手で大きく×印を作り、「親父っさんの初七日なんだよ。」と断った。
「法事にまで呼ばれてるんですか?」
「ああ。俺に直接会って話したい奴が居るんだとさ。」
「ねぇ、ほんと、“ヤクザ”なんかになっちゃわないわよね?」
可憐の心配は尤もである。
ここまで惚れ込まれるとなると、そう簡単に逃がしてはくれないんじゃないか。
何せ相手はプロ。
あの手この手で勧誘してくるに決まっている。
強引な手も辞さないほどに。
「ならねぇよ。第一、なりたい奴は五万と居るんだ。俺なんかを本気で御輿にあげようとしてたのは亡くなった親父っさんくらいさ。」
ヒラヒラと手を振り、その気がないことをアピールする魅録。
可憐も美童も顔を見合わせ、ホッと息を吐いた。
「母ちゃんも行くみたいだぞ。その初七日とやらに。」
「………おばさんは、下手な極道よりそれっぽいですからね。きっと場が引き締まるんでしょう。」
「「「言えてる。」」」
この時の彼らはまだ気付いてもいない。
裏社会に生きる人間の傲慢さと残虐性を。
そしてそんな魔の手が一人の少女を蝕み、壊していく未来を。
学園は平和だった。
平和であることが当たり前かのように。
闇に捕らわれた野梨子を置き去りにして、日常は過ぎてゆく。
・
・
「あれが………剣菱悠理、か。」
「どうします?兄貴………」
「くそっ。隙がねぇな。」
男達は車の中から、ようやく目的である人物の顔を捉えていた。
少年のような顔立ち。
スタイルは悪くないが、どうも色気に欠ける。
隣に居る男達とじゃれ合う姿に女っぽさは感じられない。
「………ちゃんと調べたんすけど、あの女、かなり喧嘩っぱやいことで有名みたいっすよ。松竹梅魅録と二人で、辺り一帯のチンピラや不良を叩きのめしたらしく………誰もビビって近付かないみたいっす。」
「………ちっ。お嬢様じゃなかったのかよ。」
「じゃじゃ馬と評判の娘です。顔は可愛いんすけどね。」
男は携帯を開くと、そこに届いていたメールをもう一度眺めた。
お嬢の命令には絶対服従。
それは暗黙のルールだった。
元は若頭直属の部下に言い渡された指示だったが、何故か巡り巡って自分たちにお鉢が回って来た。
深い理由は知らない。
ただ「松竹梅魅録」の側に居る「剣菱悠理」を脅せ。
それが指示された内容だったのだ。
勘違いが元で、別人を拉致し、暴行まで加えてしまった。
そんなことが上に知られたら───二人とも命が危うい。
白鹿野梨子──を調べてみると、なるほど生粋のお嬢様だと判明した。
少々ロリコンの気がある男は、一度味わった身体を何度も反芻し、毎夜興奮していた。
美しく、慎ましやかな反応。
適度な柔らかさと、清らかな涙。
思い出すだけで喉が熱くなり、下半身が高ぶる。
どうにかしてもう一度───
そればかりに思いを巡らせ、今や剣菱悠理の事はどうでもいいとまで思い始めていた。
手こずるじゃじゃ馬より、従順な大和撫子。
スキャンダルを隠さざるを得ない高貴な家柄は、下卑た男にとって良い獲物でしかない。
脅すネタもたんまりある。
「おい。行くぞ。」
「え?兄貴?でも………」
「あんな女、他の奴らに回しちまえ。俺らはひと稼ぎと行こうぜ。おまえにも旨い思いさせてやるからよ。」
「はぁ………」
舌なめずりする男はターゲットを野梨子に定め、車を発進させた。
まだまだ食い足りない。
あの白兎のような小娘を───ぞっとするほどの地獄へと引きずり込んでやる。
この俺に目を付けられたこと、心底後悔するほどにな。
男…………神川 賢介(かみかわ けんすけ)の目は、狩人のように鈍く光った。
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・
その夜、芝 梗太郎(しば きょうたろう)は“とあるパーティ会場”に呼び出され、早速うんざりした顔を見せていた。
愛人、曜子のわがままでエスコートする羽目になったわけだが、ヤクザがファッションブランドのパーティなど───場違いにも程がある。
自身が着ているスーツは決して悪くない物だが、かといって華美な装飾もなく、合わせたネクタイも良く言えばシック。
悪く言えば地味。
パーティには相応しくないように感じた。
芝は深い溜息を吐く。
当の本人は念入りな化粧をしているのか、10分ほど遅刻すると聞いていた。
女は何故こうもパーティーが好きなのだろう。
ヤクザの世界もそういった集まりは多いが、芝は好んで参加したことは一度もなかったし、派手な集まりに出向くことは極力避けていた。
モデルと思しき招待客が続々と集まる中、ひときわ輝く金髪を翻す男が一人。
そしてその周りには、これまた別の意味で目立つ男女が三人。
芝は、取り出した煙草を手にしたまま、その中の一人に目を奪われた。
─────あれは、もしかして『剣菱悠理』じゃないか?
個性的な美人。
自分の仕えるお嬢が一方的にライバル視している相手だ。
巨万の富を持つ剣菱財閥の令嬢と聞いた時、思わず耳を疑ったが、こうして着飾る姿を見れば、なるほど───カリスマ性がある。
隣には黒髪の男。
歩く姿に一分の隙もない。
鍛えられた体はジャケットの上からも判る。
とても素人とは思えなかった。
彼女もモデルだろうか。
グラマラスな身体をタイトなドレスで包み込み、妖艶な微笑みを見せる美女。
銀座でもなかなかお目にかかれない恵まれたボディと色気は、百戦錬磨の芝を驚かせた。男心を疼かせる容姿をしている。
どうやらご令嬢の遊び相手は恵まれた器量の持ち主が多いらしい。金にも男にも不自由せず、遊び歩いているだなんて、到底一般的な高校生の括りではないだろう。
芝は自分の生い立ちと比べ、舌打ちしたくなったが、人目を気にし、胸の中だけに留めた。
しかし───お嬢が危惧するような女には見えねぇな。“松竹梅魅録”への盲目的な恋心がフィルターとなっているのか?
芝は悠理の容姿を上から下まで眺めたが、男を咥え込むような体つきには見えなかった。
とはいえ、女は女。お嬢がやきもきする気持ちも解らないではない。
───あまり暴走されると、こっちが困るんだがな。
過去の経験を思い出した芝は深いため息を吐き、ようやく煙草を口に咥えた。
・
・
「悠理。」
清四郎が耳元でこっそり囁く。
「ん?」
「斜め後ろ、あの喫煙スペースにいる男に見覚えは?」
指摘された場所に目を配ると、どう見ても場違いな男が一人、黙々と煙草を吹かしていた。しかし見覚えはない。
「知らない。」
「そう、ですか。」
「なに?なんかあった?」
「いえ………随分と熱心におまえを見つめていたので、気になっただけです。」
「えー?何だ?もしかして“一目惚れ”されちゃったとか?」
おちゃらけて言うも、清四郎は呆れた顔で応える。
「そんな自信、一体どこから来るんです?」
「…………な、なんだよ。あたいってそこまで不細工か?」
すると暫く沈黙されてしまい、余計に傷つく。悠理とて軽口を叩いただけで、本当に自分がモテるだなんて思ってもいない。
その手の趣味の女につきまとわれる事は多いが。
「美人ですよ。………誰よりも。」
「え?」
ドキッとする台詞。まさか、清四郎の口からそんな言葉を聞かされるだなんて。
「口を開かなきゃね。」
「あ………」
片目を瞑る男はいつもの調子で悠理をからかった。だが、たとえからかわれたと解っても、ドキドキは続く。
「ちぇ。いつかもっと色っぽくなってやる。」
「………勘弁して下さいよ。」
───これ以上翻弄されてたまりますか。
清四郎の逞しい腕が、悠理の細い腰に回る。
もちろん悠理は驚き、身を固くした。
「な、なに?」
「変な男につきまとわれては困るでしょう?予防策ですよ。」
「あ、あそ。」
ドキドキ
ドキドキ
その夜、ほんの少し何かが変化した二人だった。