僕の中の火花

僕は剣菱悠丞。
中等部の最高学年となってまだ間もない。
新しいクラスメイトの顔と名前も、少しずつだけどなんとか一致するようになってきた───気がする。
先生達に至っては、間違えずによく覚えられるなって感心するよ、ほんと。

うちの学園は基本エスカレーター式。
自動的に高校生になれるから、皆はのんびりしていて、クラブ活動もギリギリまで続ける生徒が多い。
裕福な家柄の子供達はどうも危機意識が少ないんだよね。
僕を含めて────
高等部に入ったら、一気に課題も増えるし、難しくなるし、それなりに勉強していないと落ちこぼれてしまうのは当然。
いくらなんでも母さんのようにはなりたくない。

三年生になってからも、椿ちゃんは生徒会長としてバリバリ働いているし、成績は当たり前のようにトップ。
この間なんて、百人一首の全国大会で優勝して、新聞に載ってしまうような女の子なんだ。

茶道、華道、お琴に日本舞踊。
一通りの習い事を全てこなしている。
もちろんどれも一流の腕前。
今はあまり聞かなくなった、“大和撫子”って言葉が完璧に似合うんだけど、野梨子おばさんの教育が凄すぎるんだな、きっと。

そんな彼女だから、恋のアプローチは今も増え続けていて、僕なんかが許嫁で本当にいいのかな?って心配になるけど、やっぱり椿ちゃんのことが好きだから………譲れないんだよね。

いつか堂々と隣に立てるよう、毎日の勉強や護身術のカリキュラムは欠かさずこなしている。
相手が妹達だっていうのはちょっと恥ずかしいけど、父さんは強すぎるし、母さんはハチャメチャだから役に立たないし。

────── とにかく僕は、椿ちゃんを守れる男になりたいんだ。

でも───

父さんを含め、僕の周りには強い人が多すぎる気がする。
魅録おじさんも喧嘩じゃ負け知らずだったらしいし。
まあ、椿ちゃんだって普通じゃない人達の子供だから、才能だって普通じゃないのかもしれないけど。
となると僕は一体何なんだろうって落ち込む。

「・・・・くん・・・・・剣菱君。」

おっと、もう休憩時間か。
振り返れば、おさげにしたクラスメイトが僕を見下ろしていた。
どうやら何度も声をかけてくれていたようで、居心地悪そうに見つめている。
僕は慌てて立ち上がった。

「え?あ、えーと………」

「もう~。まだ名前覚えてくれてないの?二個後ろの席の“早乙女 真由”だよ。」

そういえばそんな名前だったと、気まずそうに頭を掻けば、彼女、早乙女さんはにっこり微笑んでくれた。

「校外学習のしおり係、剣菱君が担当でしょ?」

「あ、うん。」

「私も半分手伝えって………先生から言われてるの。美術部員だし、デザインは任せるからって。」

「あぁ、そうなんだ。助かるよ。」

事実、美術的センスはゼロに等しい僕だから、表紙絵に関しては誰かに頼もうと企んでいた。
渡りに船である。

「今日の放課後、居残りして二人で考えない?」

「うん。お願いするよ。」

……ん?今日?あちゃ、今日は確か椿ちゃんの家に行く約束だったな。
…………うーん、後で謝っておこう。

ただし、こういう甘え方は椿ちゃんの怒りを買うから要注意。
それはもう、長年の付き合いで解っているんだ。
かといって手伝ってくれる早乙女さんを無碍には出来ないし………うん、 ここはきちんと謝ろう。


案の定、椿ちゃんはあからさまに不機嫌顔で「わかったわ」と答えた。
そして「仕方ないもの。」と自分を納得させる言葉を紡いだ。

「ごめんね。」

楽しみにしてたもんね。
一緒にポップコーン作って、アクション映画のDVDを観る予定だったから。

申し訳ない思いで肩を落としていると───

「…………キス、してくれたら許してあげる。」

聞き間違いかと思って、顔を二度見する。
しかし決して冗談なんかじゃない、落ち着いた真顔とぶつかり、僕は一気にパニックへと陥った。

え!?
えー!?
キス!??
僕、ほっぺにチューだってしたことないけど??

「つ、つ、つ、椿ちゃん………そ、それは……っ」

「良いでしょ?私たち婚約までしてるんだから。」

そりゃそうだけど…………でもこんな学校の廊下で?
やっぱりもう少しムードのある所がいいんじゃないかな?
ほら、初めてなんだし。

シチュエーションの陳腐さにハラハラしていると、彼女の機嫌がどんどん悪くなる。
まだずっと先の事だと思っていただけに、心の準備は一ミリも出来ていなかった。

「………ここで?」

「ええ。」

傾き始めた太陽に照らされ、真珠のような彼女の頬がオレンジ色に染まる。
整った輪郭の産毛までもが黄金色に輝き、ゆっくりと閉じられた瞼がこの上なく幻想的に映った。

唇は赤い。
ふっくら柔らかそうでいて、まるでリンゴのような艶がある。

────これ、触れちゃっていいんだろうか?

僕は思わず自分の唇をそっと指で確かめた。
少しでも荒れていたら、彼女を傷つけてしまいそうで怖い。
おかげさまでそんなことはなく、心臓がバクバクとがなりたてる。

────覚悟しろ、悠丞!

自分を叱咤し、唾を飲み込んだ。

「椿ちゃん………………好きだよ。」

感極まった想いを告げ、ゆっくり、そして恐る恐る触れる。
距離感が掴めず、薄目を開けながら。

唇が到達した瞬間、痺れるような感覚が全身を襲った。
触れ合った唇同士がまるで初めからそうであったかのようにぴったりとくっつく。
感動の嵐。
柔らかくて、甘くて、胸をかきむしりたくなった。

「………ん………」

微かな鼻息すら可愛い。
僕は椿ちゃんの黒髪を指で梳き、耳たぶにそっと触れた。
そこもまた限りなく柔らかで、ドキドキする。

一旦離れた後、再び触れ合えば、更に欲深くなっていくようで怖かった。

陶酔───ってこういう事を言うのかな?

誰も居ない渡り廊下でイケナイ行為に耽る快感と、椿ちゃんの柔らかさに目眩がしそう。
これが僕のファーストキス。
もちろん椿ちゃんにとってもそうだと信じたい。

またしてもゆっくり離れると、彼女は潤んだ目でこちらを見つめて来た。
いつもは凛々しいほどの美しさなのに、今、その瞳は見たことがないほど甘い。

「悠丞君…………もっと…………」

「でも…………誰かに見られちゃうよ?」

「………いいから、早く。」

より密着する身体と身体。
椿ちゃんの体温が伝わってきて、鼓動がもう一段階跳ね上がる。

それから僕たちは三分、いや五分くらい、キスを続けた。
その間、教室で待っているだろう早乙女さんのことは頭からすっかり消えていた。



「じゃ、行くよ。」

「………頑張ってね。」

一度触れたらまた触れたくなる。
そんな現実は初めて知った。

そういえば───
父さん達が毎朝、名残惜しそうに何度もキスしているのは、これと同じ感覚なんだろうか?
もう四十前なのに恥ずかしくないのかな?って思ってたけど、なるほど、その気持ちは理解出来そうだ。

教室に戻ると、早乙女さんは手持ち無沙汰に窓の外を眺めていた。
背中を向けているので表情は解らず、もしかして怒ってる?と思い、恐々声をかける。

「ごめん、早乙女さん。………待ったよね?」

すると彼女はゆらりと振り向き、仄かに赤らんだ頬を両手で覆った。
その表情に意味を見いだせず、口を閉じたままでいる。
困ったような、怒ったような、不思議な面差し。
どうしたんだろう、ちょっと泣きそうにも見える。

「私、知らなかった。剣菱君って、生徒会長さんと付き合ってたのね。」

「えっ!?あ、えと…………それは………」

一部の人間しか知らないその事実。
いまだ、仲の良い幼なじみ止まりだと信じて疑わない生徒も多い。
彼女に恋い焦がれる男子は皆、僕という存在を無視することで、憧れのマドンナを聖域に置き続けていた。

「………うん。実はそうなんだ。」

「………キス、してたね。」

「え!?見てたの?あ、あれは…………その、ちょっといろいろあって………」

しどろもどろの答えに、早乙女さんの表情はどんどん堅く、苦しそうに歪んでゆく。
胸元を押さえる手に力がこもっている事は、明らかに見て取れた。

───どうしたんだろう?一体。

心がざわつく。

「あのね………私、剣菱君のこと好きだったの。今も、好き。………好きだから、先生に直談判してまで、しおり作りの手伝いを申し出たの………」

「そう……だったんだ。」

そんなことは初耳だ。
というか、キスを見られた恥ずかしさと、告白による衝撃で頭は混乱状態。
まともに働かない思考で次の言葉を必死に探す。

しかし────

『好き』と言われて嬉しくない男は居ないだろう。
それに早乙女さんは割と可愛い。
素直そうだし、優しそうだし、笑顔もなんとなく落ち着くし。

でも────
僕は椿ちゃんが好きだ。
彼女の凛とした視線や、僕にだけ見せる油断した笑顔。
凡人の僕なんかを本気で好きだと言ってくれる懐の深さ。
側にいると心が暖かくなるんだ。
どんなことをしてでも、彼女の隣に居続けたいと思うんだ。
他の誰にもそんな感情は湧かない。
椿ちゃんだけなんだ。

「早乙女さん………ありがとう。でも………ごめん。」

「うん………解ってる。松竹梅さんには敵わないもん…………解ってるよ。」

自分に言い聞かせるよう小さく頷いた彼女は、「今日は心の整理がつかないから、また明日ね。」と言い残し、教室から出ていった。

─────ごめんね、早乙女さん。

複雑な気持ちで窓の外を眺めると、中庭のベンチで本を読んでいる椿ちゃんを見つけた。

直感が働く。

あれは迎えの車を待っているわけじゃない。
恐らく、この僕を待っているんだ。

遅くなるかもしれないのに───
もう随分と日が落ちてきているのに。

椿ちゃんはいつも、強く純粋な想いを真っ直ぐにぶつけてくる。
その想いの中に一切の濁りは見えない。
あんなにも万能な彼女に好かれてるって現実は、時々、何かの間違いじゃないのかって思う。
果たして僕は、彼女に好かれるような存在なんだろうか、と。

視線に気付いた椿ちゃんが、こちらへと手を振った。
僕もぎこちなく、振り返す。

さっきまで触れていた唇の感触を思い出し、胸が高鳴る。

どうしよう、父さん。
これって普通なのかな?

下半身がこんなにも熱くなるなんて、初めてだ。
もちろんそれなりの知識はあるけど、ずっと遠い未来だったはず───

キスってまるで花火の導火線みたいだ。

チリチリと燃えていく火花。
その先の爆発を誘導する赤い光を瞼に感じ、僕はいつまでも美しい恋人の姿を見つめていた。