マギタ王国は地中海に浮かぶ小さな国だ。
主な資源はアレキサンドライトなどの鉱石と僅かな石炭のみ。
乾いた土地では多くの作物は育たず、ほとんどの食材を近隣諸国からの輸入に頼っていた。
人口も年々減り続けていて、今や若者はヨーロッパ大陸へ移住しつつある。
残されたのは親世代、更に年寄り世代だけだ。
経済については良質のアレキサンドライトが採掘されたことで少しはマシになったものの、それもいつ枯渇するか解らない。
王制を敷くこの国の悩みは、未だ解決の糸口を見つけられずにいた。
現在の王は80近くで、いつ倒れてもおかしくない状況。
王家直属の医師が常に側で見張っている。
後継者である第一王子は今年53歳。
もちろん若くして妻を娶ったが、残念なことに子を産まぬまま他界。
深い愛で結ばれた為、王子の絶望は口で言い表せぬほど大きなものだった。
それからは独り身を貫く孤高の王子で、継承権はそのまま、父王が逝去すれば彼がこの国の王となる。
そして───
第一王子の十ほど下に第二王子が存在する。
彼は芸術家だ。
絵を描き、音楽を奏で、詩を口ずさむ。
政治には一切興味が無く、日がな一日アトリエに籠もり、よほどのイベントが行われぬ限り、その扉から出てこない。
もちろん独身。
噂に寄れば、若き頃に恋した女性への想いを、今も胸に抱き続けているらしい。
早くして亡くなった母にそっくりで、しかし彼女も早々に結婚し、三人の子をもうけていた。
これらの事を踏まえると、二人の王子は愛に生きるタイプであると判る。
情熱的で一途な男達。
そんな中、第三王子である“ジョゼ・エンリケ・デュカリス”だけは、どちらかというとリアリストであり、結婚にも恋愛にも夢を抱かぬドライな性格の持ち主だった。
反面教師となった二人の家族とはまた別の結婚観を持ち合わせていて、本気で国の存続を危惧している。
国民の為、そして歴史あるマギタ王国の為、自分たちは正しく存在しなくてはならないと信じていた。
結婚とはやはり契約だ。
どれほど美しく魅力的な女性でも、国のためにならぬのなら、その婚姻は全くの無意味。
だからこそ世界規模の大金持ちとの繋がりに期待したのだ。
相手がたとえ年上で醜くとも構わなかった。
子を成し、そして国を援助してくれるなら誰でも───
しかし悠理の写真を見た時、ジョゼの胸に安堵が広がった。
この娘なら、期待以上の子が産まれるだろう。
少年っぽい身体つきだが、健康的で何よりも意志の強そうな目をしている。
無駄な色気も漂っておらず、男をやたら惑わすタイプではない。
ジョゼは前向きに検討したいと、剣菱百合子に伝えた。
それは、彼女の思惑を理解した上での返答だった。
しかし────
ここにきて、まさかの伏兵現る。
百合子からの電話に彼は驚かされた。
娘には想い人が居て、その上あれよあれよと両想いになってしまったと言うのだからたまらない───
ジョゼの気分は一気に下降した。
………かといって、これごときで諦めては居られないのも本当のところ。
好条件の縁談をみすみす棒に振っていては、国を救うことなど出来ないからだ。
二人はまだ互いの気持ちに気付いたばかりで、おそらくは何とでもなる。
少しつつけば綻ぶ───そんな関係だろう。
ジョゼは確信に近い思いを抱いていた。
百合子に招待された食事会を機に、何としてでも悠理との距離を近付けたい。
そしてあわよくば、とっとと既成事実を作り、退路を断ってしまえばいい。
打算で動く彼の美しい目は、ハンターのように鋭く輝いた。
・
・
その頃──────
悠理は清四郎の腕の中に居た。
夜も深まり、美しい星空が見渡せるベランダで。ビロードのカウチソファは百合子お気に入りのアンティークだ。
仲間たちに散々からかわれ、祝福された後の静寂。
ワインに火照った身体を、清四郎の胸板が隙間無く受け止めてくれている。
こんなにも近くにこの男を感じたことはなかった。
こんなにも熱い気持ちを抱きながら、彼に触れたことは無かった。
「夢みたいだな。………あたいとおまえが両想いだなんて。」
信じられないのは清四郎も同じだろう。
真実を確かめるよう、抱く力を込める。
「ええ。………でも本当のことですよ。僕の気持ちは明らかだ。」
「あたいを…………好き、なんだよね?」
照れくさそうに尋ねると、
「好きです。いつかの“戯れ言”じゃなく、きちんとおまえを手に入れたい。」
清四郎は至極真面目にそう答えた。
夢ではない。
自分たちは確実に両想いで、もはや友人に戻ることもないのだ。
彼は野梨子ではなく自分を選んだのだ。
喜びのあまり頭を擦り付ける悠理。
清四郎がその羽のように軽い髪へ口付けると、彼女は嬉しそうに肩を竦めた。
「知らなかった。」
「ん?」
「………あたいって割とグジグジする性質だったんだな。そりゃ、こんなの初めてだから、仕方ないんだろうけど…………野梨子のさっきの台詞はかなり効いたじょ。」
「きっと、発破をかけてくれたんですよ。野梨子なりのやり方で。」
「うん…………」
“幼なじみだから”という理由だけでなく、この二人は本当によく理解し合っている。
それは悠理にとって少し悩ましい事だけれど、今自分を抱きしめ、愛を伝えてくる男の想いだけは強く信じられる気がした。
「あ、そだ。母ちゃん、すっげぇ喜んでるかんな。今更、逃げらんないぞ?」
「それはむしろ好都合です。おまえこそ、絶対に逃がしませんよ?」
「へへ。馬鹿だなぁ…………逃げないってば。」
照れくさそうに呟いたその唇を、清四郎が塞いだのも当然。
腕の中にきつく抱き留めながら、万感の想いで口付けを与える。
「………ふぅ………っん………」
縮まった距離と繋がった心。
清四郎は気付かされたばかりの恋に、本能が突き動かされる事を知った。
「………好きだ、悠理。」
飾り気のない言葉にこそ真実味がある。
身体中を駆けめぐる喜びに、悠理もまた本能的に抱きついてしまう。
「好き…………せぇしろ…………」
甘い、甘い夜だった。
先ほど摘まんだチョコよりもずっと。
流れ星が一つ、また一つ流れる頃、二人はようやく各々の部屋へと戻る。
離れがたい─────
同じ思いを抱きながら……それでもまだ一つのベッドで眠ることは出来なかった。
・
・
・
“ジョゼ・エンリケ・デュカリス”が百合子の別荘に招かれた時、誰よりも目を輝かせたのは言わずもがな、可憐である。
南の国の貴公子は以前よりもずっと格式高い服装で現れ、悠然とした笑みをその美貌に湛えていた。
どんな女もノックアウト。
美童がライバル意識を激しく持つ理由も解らなくはない。
膝を折ったジョゼはまず百合子の手に恭しく挨拶をし、招待への感謝を告げた。
百合子としても申し分ない外見の王子に、自然と頬が緩む。
悠理と清四郎から交際の報告をされた時、もちろん口に言い表せない喜びを感じた。
剣菱の未来を託し、なおかつじゃじゃ馬娘をコントロールが出来る男は世界中探しても彼しかいない。
清四郎は百合子のお気に入りだ。
万作も、屋敷の皆も、彼を特別視している。
だからこそ、二人が初々しく頬を染めながらやって来たとき、この世の奇跡に感謝したのだ。
もちろん速攻で、帰国後直ぐの婚約会見の手はずを整えたのは言うまでもない。
しかし────だ。
ジョゼの容貌は百合子の“女心”を刺激した。
まるで異世界からやってきたような、美しい顔立ち。
知的な目と優雅な物腰。
引き締まった体躯を持ちながらも、見る人すべてを魅了するエレガントな着こなし。
まさにパーフェクトな男である。
肩書きも申し分なかった。
当然、彼が婚姻に求める条件も知っている。
百合子にとって一つの小国を救うことなど容易い話だ。
だから可愛い娘と結婚させようとした。
日本で共に住むという条件もクリアさせた。
パワーバランスが明確な婚姻ならば、悠理にとっても悪く働かないだろうと思ったからだ。
それなのに、まさか恋をしていたとは…………
娘の初恋を優先させるのは母親として当然である。
それもお相手は清四郎。
反対する理由もない。
ただ、みすみすジョゼを失うのも惜しいと思う。
清四郎とは前回の失敗もあり、多少不安が残っていた。
気まぐれな娘に嫌気がさせば、直ぐにまたご破算となるだろう。
それは困る。
何よりもジョゼと結ばれれば、剣菱に王族の血が交じるのだ。
生まれてくる子供はさぞや可愛いだろう。
華やかなロイヤルウェディングは、百合子の憧れでもあった。
相変わらず自分勝手な思案に耽る百合子。
そしてこの婚姻を是が非でも手に入れたいジョゼ。
幸せいっぱいの二人を余所に、話は思わぬ展開へと転がって行く。