それは、まさしく眠り姫を起こす王子そのものだった。
初夏の清々しい風がそよぐ中、ポプラ並木の一角、木陰に置かれたアイアンベンチは彼女の居眠りスポット。
講義が面白くない日はいつもそこで横たわっている。
年頃の女性とは思えない行いだが、悠理はいつもマイペース。
今さらどうこう言うつもりもなかった。
しかし━━━━━
透けるような金髪の見慣れぬ青年は、呑気に眠る悠理へと、今まさに口付けを落とそうと身を屈めている。
それを見過ごしては、さすがに友人の名が廃るだろう。
僕は足早に駆け寄り、まずは咳払い一つで注意を逸らした。
振り返った彼を見た途端、先日美童と可憐の会話に上った交換留学生であることに気付く。
たしかフランスの名門貴族に名を連ねる家柄の息子。
ヨーロッパの社交界でも指折りの見映えだ。
「イケメンなのよぉ!!」
という可憐の黄色い雄叫びが耳に甦った。
「ここはおとぎの国でなく、秩序ある大学の敷地内なんですがね。」
念の為フランス語で語りかけると、彼はフッと口元を緩め、皮肉に笑う。
「寝ている美女の唇は、僕のような男に奪われるためにあるんだよ。」
流暢な日本語。
その自信に満ち溢れた台詞は、もう一人の金髪青年を彷彿とさせる。
決して嫌いなタイプではないが、かといってそれを肯定するほど親しき仲では無い。
「貴方の国ではそうでしょうけどね。彼女は僕の友人で、同意もないまま唇を許すような女性ではないんですよ。」
「友人?…………恋人ならその意見も聞き入れてあげるけど、ただの友達というのなら、でしゃばらないでほしいな。」
その反論には流石にムッとした。
常識が通用しない相手となると少々厄介だ。
僕が、彼女自身の口から反論させるため、叩き起こそうとしたところ、
「ん~~・・・うるさいなぁ。」
丁度のタイミングで悠理が起き上がった。
「なに?せぇしろ?」
どうやら本気で熟睡していたらしい。
瞼を擦り、大きな欠伸を立て続けに繰り返す。
「年頃の娘がこんなところで寝るんじゃない!無防備過ぎますよ。」
「いつものことじゃん。………って、誰だ?こいつ。」
「眠り姫を起こそうとした‘王子’………と、本人は言っていますが?」
「はあ?」
何言ってんだ?と目を大きくする悠理。
金髪の青年をマジマジと見つめ、口をポカンと開ける。
「なんて名前?」
「アンリ・フランシス・オーベルニュと申します。」
ぶっきらぼうな問いかけにも、彼は畏まって名乗りを上げた。
「アンリ………?」
「はい。」
「ふーん………」
聞き覚えがないのか。
はたまた耳にしていても忘れたのか。
全く興味を示さない様子の悠理は、ベンチから立ち上がると勢い良く僕を振り返った。
「清四郎、腹減った!飯行こうよ。」
「良いんですか?彼は………」
「……未遂だったんだろ?なら別にいいよ。」
どうやら何をされそうになったかは、理解していたらしい。
だが特に騒ぐことも、糾弾することもなく、悠理は彼へと背中を向けた。
「あの………!」
アンリは追い縋るように悠理の手を掴もうとする。
外国人特有の長い腕。
僕は彼の手を払い除け、遮るよう、二人の間に身を滑り込ませた。
「これ以上、不躾な行為をすれば、さすがに嫌われますよ?」
「君は………彼女の騎士役か何かか?」
「親しい友人です。」
「なら、邪魔しないで欲しいな。これから彼女を口説こうとしているのに。」
僕と同じくらいの背丈だが、彼は威圧的に胸を張る。
どうやら見た目よりもかなり好戦的な性格のようだ。
「悠理。彼はこう言っていますが、話を聞きますか?」
背後に隠れたまま、いつものごとく彼女は僕を盾にした。
「ヤダ。興味ないし!」
「………とのことです。どうぞ諦めてください。」
アンリはムッと口を歪め、こちらを睨む。
剥き出しのライバル心はお門違いな気もしたが、僕が悠理を庇うよう立っていた為、彼の気持ちも解らなくはない。
明らかに感情を逆撫でる行為である。
かといって誤解されるような間柄では、決してないのだが。
「…………そう簡単に、諦めるような男に見えるのかな?」
「…………見えませんね。」
「だろ?なら今度は君の居ない時にチャレンジするよ。」
「…………しつこい男は、どの国でも嫌われますよ?」
そう発言した後、僕はハタと動きを止める。
そもそも何故、こうも彼を攻撃しているのだろう?
悠理への興味をシャットアウトさせようと必死で矢面に立つ意味はいったい何なんだ?
苛立ちと焦り。
いつもの冷静な判断が下せなくなる。
彼の視線から悠理を隠したい気持ち。
これは友人として過剰な反応ではないだろうか?
「せぇしろ!早く行こう!」
悠理は、急かすよう僕の袖をぐいぐいと引っ張った。
そんな様子を見た彼もまた苛立ち、ギラリ、美しい瞳を光らせる。
一色触発の事態。
互いの目の中に青白い炎が見え始めた頃━━━
「清四郎、何してんの?」
美童がいつものように取り巻きを引き連れ、呑気に声をかけてきた。
しかし立ち込める不穏な空気に気付くと、僕たちを交互に見つめる。
「おっと!なんか面白そうな雰囲気じゃない。どうしたの?何があった?」
彼には『騎士たちの決闘』にでも見えているのだろうか。
興味津々に目を輝かせる。
しかし、そんな期待に応えるほど酔狂ではない。
「…………何でもありませんよ。さ、悠理、行きましょうか。」
美童のお陰で戦闘意識は削がれた。
僕は悠理の手を取り、構内にあるカフェテリアを目指す。
背中に痛いほどの視線を感じたが、彼の挑発を振り切り、歩き続ける。
あれ以上対面していたら…………
立場を飛び越え、彼を力付くで諦めさせたかもしれない。
彼女に触れる権利を与えたくがない故に。
━━━━まさか・・・僕は悠理を独占したいと思っているのか?
その疑問は平常心を強く揺さぶった。
記憶にない驚きに胸が高鳴る。
隣を歩くふわふわのひよこ頭。
光に透け、揺れている。
もしかして、この綿のように軽い脳みその持ち主を、誰にも渡したくないと思ってる?
そんな現実に気付かされ、背中がぞくりと粟立った。
いや、違う。
これは恋などではない。
所有欲や支配欲。
可愛がっている愛玩動物を他人に譲りたくないと云う、ごくありふれた感情だ。
決して恋などでは━━━━
「なんだよ?」
こちらの異様な雰囲気に気付いた悠理は、不思議そうに見上げてくる。
彼女の見た目は美しいが、行動は伴わない。
下品で粗雑、意地汚い。
女らしさに至っては皆無だ。
だからこの『独占欲』は、あくまで飼い主が抱くペットへの感情と同じはず。
それに恋は一過性。
しかし動物なら一生涯かけて面倒をみなくてはいけない。
一生?
僕は一生、悠理の面倒をみたいと願っているのか?
混乱する思考のなかで、確かなことはただ一つ。
たとえこれがどんな感情であろうとも、僕はこいつを手放したくない。
誰にも触れさせたくはない。
彼女の単純さも愚かさも、それら全てを包み込める男は、自分以外認めたくないんだ。
「…………参りましたね。」
「は?」
「眠り姫を起こす役は譲れそうもないな。」
ポロリと溢れた本音を悠理は拾う。
「それってさ……………おまえがあたいにキスしたかったってこと?」
なんだ。
解っているじゃないですか。
では話は早い。
「そういうことです。」
僕は悠理の細腕を掴み、ポプラの木陰へ引きずり込む。
ポカンと見上げたままの悠理が、次に何をされるのかなど、到底理解しているとは思えないが、それでもこみ上げる衝動を堪える事は難しかった。
「王子役は…………僕だけの特権です。」
背中を強く抱き寄せ、頬へと指を滑らす。
「せ…………」
躊躇いがちに呼ぼうとした僕の名は、口の中にそっと消えた。
甘い感触の唇を吸い上げ、強く押し付ける。
アドレナリンが大量に放出されていく中、陶酔する僕はさらに強く拘束し、彼女の逃げ道を断った。
キラキラと木漏れ日が射す。
ようやく離れた後の彼女の表情は、想定していたよりも遥かに乙女で、恥じらうようそっと目線を外した。
「おまえの方があいつより………タチ悪いよ。」
「ええ………自覚しています。」
「………でも」
頬を染めながら、ゆっくり僕を見上げる彼女は、見たことがないほど愛らしい。
「そんな清四郎が………あたいは………」
好き━━━━━
悠理の告白は吹き抜ける風に掻き消された。
しかし僕の耳は他の人よりも鋭い。
ギュッと抱き締めた後、真っ赤な耳に囁く言葉。
それはきっと彼女が期待したものだったに違いない。