ザァザァ────
あぁ、雨だ。
地面を打ち付ける激しい雨。
冷えた空気と埃立つような勢いの雨粒。
そういえば、あの恋しい男と出会った時も、雨が降っていた。
みすぼらしい女を洞窟に招き入れ、僅かな食料を分け与えただけでなく、乾いた着物すら貸してくれた。
黒く光る穏やかな目。
引き締まった身体から匂う上質の香。
町や村では到底見かけぬ、気高くも美しい男だった。
当初から、妖(あやかし)である自分とはかけ離れた世界に住むと、気付いてはいた。
落ち着いた声や口調がそれを物語っている。
上品な仕草と優しい眼差しは、女を惹きつけて止まないであろう事も、勘付いていた。
天と地ほどの差が、二人の間にはある。
だから、まさかこんなにも惹かれ合うだなんて思ってもみなかった。
こんなにも恋しくなるなんて───
たった数日の旅を共に歩んだだけなのに、一度結ばれた身体は離れがたく、胎に宿る小さな命が父親を求め泣いているようで切ない。
まるでこの雨のように、我が子が泣き叫んでいる気がしてならないのだ。
魅録の家に厄介になって丸三日。
本来ならさっさと家路を急がねばならないが、居心地の良さと清四郎への未練が、悠理をこの地に踏みとどまらせていた。
親切な男は何も聞かない。
ただ美味しいものを与え、着物を貸し、今までの冒険談を語るだけだ。
悠理が「人外」だとは疑っても居ないのだろう。
夜中に布団の中で変化を解くときがあるのだが、彼はいつもぐっすり夢の中。
勘の良さげな男なのに、気を許しているのか、まったく察してはいなかった。
それが余計に悠理を引き留める理由。
「清四郎・・・・何してるんだろうな。少しはあたいのこと思い出したりしてるかな。」
寂しげな呟きは激しい雨音に掻き消されてしまう。
あるべき場所に戻った彼には、恐らく身分相応な相手がいるのだろう。
別れ際で見せた苦悶の表情から、それは容易に想像できた。
どこぞの姫君が、あの男には似合う。
長く豊かな黒髪を持つ、十二単がぴったりの高貴な女。
決して狐の化身などではない麗しの姫君こそが・・・・・清四郎にはお似合いなのだ。
別れによる痛みに、こんなにも引き摺られるとは思ってもみなかった。
村に帰り、仲間の一人と番い、子を産み、そうしている内にあの夢のような記憶は薄れていくのかもしれないが、何故かそれが出来ない。
清四郎に会いたい。
一目だけでも・・・・あの凜々しい顔を目に焼き付けたい。
声だけでもいい。
しっかりと耳の奥深くに残したい。
当然のことだが、彼の生まれ育った場所は、とてもじゃないが簡単に忍び込める場所ではなかった。
一歩間違えれば捕らえられ、あらぬ疑惑を植え付けてしまう。
妖狐と人間の確執は古くから続いていて、特に朝廷からは目の敵にされているのだ。
そんな場所に、妖狐の長を父に持つ悠理が近付けるはずもなく、打つ手無しの状態でこの家にいる。
切なさだけが募る。
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朝を迎えても雨は止まない。
恐らくは今日もまた、魅録の家に居座ることとなるだろう。
彼は今頃、採れたばかりの野菜を安く手に入れているはずだ。
悠理は身を起こすと、囲炉裏に炭をくべ、朝ご飯の支度を始めた。
といっても湯を沸かし、味噌部屋から材料を取り出すだけ。
狩猟は上手くとも、それらを調理する腕前は持ち合わせていなかった。
そうこうしている内に魅録が戻り、質素ながらも美味しい朝ご飯が用意される。
どうやら彼の仕事は毎日あるわけではないらしい。
まるでフーテンのように一日中ぶらつくという暇な日もあった。
「おい、あんた。顔色悪くねえか?」
「え?そう?」
妖孤は子を孕むと恐ろしく体力を使う・・・・と聞いたのは、確か村に居た年頃の娘からだ。
彼女は初産の時、何度も倒れ、命を脅かされる事態に直面したという。
夫が必死になって薬草や滋養に良い物を掻き集めてきてくれたおかげで、無事子を産むことが出来たのだが、妖孤は人間のお産よりもずっと大変だと、母からも耳にしていた。
「具合悪いなら診てもらえよ。俺の知り合いに腕利きのじいさんがいるんだ。」
この時代、町に医者などいようはずもない。
貴族ですら祈祷師に頼むしかない時代だ。
魅録が言う’じいさん’とやらも、きっとその類いで、もしくは適当な事をいって金を巻き上げる悪徳なジジイに違いなかった。
「だいじょぶ・・・・食ったら治る、と思う。」
「いや、もうすでに三人前は腹ん中におさまってると思うけどな。」
魅録の作った野菜粥は残り僅か。
金もない、得体の知れない女にここまでしてくれる男は珍しい。
悠理は自分が甘えきっていることを知っていたが、今は魅録の側に居て、清四郎を想いたかった。
もう一度会いたい。
もう一度だけ。
そうすればきっと、思い残すことなく村に帰れる。
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「ねぇ・・・」
「どうされました?姫様。」
「兄様の様子、どこかおかしくなかった?」
「私めは気付きませんでしたが・・・何か気がかりでも?」
碁盤の前で物思いに耽る幼き姫を、乳母は心配そうに見つめる。
いつもは無垢な笑顔を見せる彼女が、夕べから気落ちしているようでならない。
今日は新しい几帳が届き、部屋もすっかり様変わりしたというのに、野梨子はどこ吹く風。
ぼんやりと碁石を弄びながら、時を過ごしていた。
「ううん。私の気のせいかもしれないわ。きっと、旅の疲れが出てらっしゃったのね。」
「そうですとも。また近いうちに、姫様のお顔を覗きに来られますよ。」
「ええ!今度こそ囲碁で勝ってみせるわ!最近、とっても強くなってきたのよ?」
「存じておりますとも。」
ニコニコと肯定する乳母の本音は、もちろん違う。
清四郎の囲碁の腕前は朝廷一。
夜通し闘ったところで、誰一人として勝てた試しはない。
帝ですら彼の技量を潔く認め、清四郎に勝てた者への褒美とやらも、密かに用意しているとの噂だった。
「兄様は・・・・強い女がお嫌いかしら?」
「まさか。清四郎殿に限って・・・・そんなことはありませんよ。」
「私、生意気に思われたら悲しいもの。」
「あれほど姫様を愛していらっしゃるのに、そんな心配、無用でございましょう?」
乳母の慰めに気をよくした野梨子は、「そうね!」と一転、花のような笑顔を見せた。
「さぁ、そろそろ和歌のお勉強が始まりますよ。ご準備なさいませ。」
「ええ!」
何も疑わなくて良い。
そのままの愛らしい姫で居れば、あの素晴らしい殿方はきっと最上級の幸せを与えてくれる。
泥水のような宮中で、たった一輪、美しく気高くあれば、清四郎殿の気持ちは変わったりしない。
乳母は野梨子の幸福だけを祈っていた。
その為に存在すると云っても過言ではなかった。
我が姫の憂いを晴らす為なら、どんなことにでも手を染めよう。
殿の寵愛を独り占めにしたいというなら、それはそれ。
邪魔者は、祈祷師にでも頼んで始末してしまえばよいだけのこと。
どこぞの姫君はそれがもとで大病を患ったという。
帝の寵愛を得ようとしていた矢先の出来事に、宮廷内がにわかに騒がしくなったのはつい最近のことだった。
腕の良い祈祷師・・・・その高名な男の名は既に手に入れている。
乳母は野梨子の着物の裾を整えると、満足そうに微笑んで見せた。
この世で、我が姫こそが一等幸せになるべき存在。
僅かな障害も見逃してはならぬ。
その時、愛情溢れる乳母はひっそりと決意したのだ。
清四郎の側に密偵を送り込むことを。
それはもちろん、彼の女関係について、全てを知るための布石だった。
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悠理と別れて5日目の夜。
清四郎は一人の男を呼び寄せ、「妖孤の村」について話を聞いた。
彼は日本全国津々浦々、その身一つで歩き回っているという、所謂旅の者。
あまり知られていない秘密の村の風習や食べ物、その土地に伝わる様々な逸話をその男は知り尽くしていた。
「妖孤・・・・ですか。それこそ朝廷におわす方達の方が、よくご存知じゃ?」
男はニヤッと笑う。
それは十年ほど前、前帝が掃討作戦に打って出たことを意味していた。
「いや、そういうことじゃなく・・・・・・妖孤の長が住む山を知りたいんです。都からは割と距離があるはずなんだが。」
「ああ、そりゃあ難しい相談だ。あっしも会ったことはないんですがね。旅仲間が一度、宴に誘われたらしく、そこでは狸のような親父と麗しい女房が出迎えてくれたらしいんですよ。場所もしっかり記憶したはずなのに、次の朝には何故かすっかり忘れちまってて、何度試しても、その村に辿り着くことは出来なかったそうで。」
「辿り着けない?」
「まあ、妖(あやかし)の類ってのは、皆そんなもんでしょうよ。仲間や村を守る為には相当な妖術を使うらしいですから。」
清四郎の瞼に悠理の狐姿が思い出される。
あの美しい金色の毛並み。
彼女はお世辞にも利口そうには見えなかったが、村に住む者達はそのほとんどが妖術を使うと聞いた。
人間との境界線をしっかりと張り巡らした上で、人に化けた狐が慎重に罠を仕掛けてくるのだ。
一筋縄ではいかない相手だからこそ、朝廷も躍起になって始末しようとする。
そう。
自分にとってあの女は、本来なら解り合えない存在なのだ。
それなのに意図も簡単に落ちてしまった。
恋という名の大いなる罠に。
そして清四郎はちっともその事を後悔していない。
───悠理
───悠理
早くおまえをこの腕に取り戻さねば。
焦りだけが募り、清四郎の胸を焼き尽くす。
今頃は村に戻り、あの簪を母君に渡しているだろうか?
年頃の娘だ。
近い内、程良い男と見合いさせられるかもしれない。
我との誓いを忘れ、仲間と睦まじい家庭を築こうと考えているかもしれない。
堂々巡りな不安に、思わず呻きたくなる。
誰にも渡したくはない。
あの美しい妖孤は、自分だけのものだ。
激しい雨の中、天が授けてくれた宝なのだ。
「……………その旅仲間は今、都に居るんですか?」
「ああ、居ますよ。」
「是非とも紹介してくれ。そして案内して欲しい。近くまででもいいのだ。妖孤の長が住む村へ私を────」
「本気で仰ってんですか?」
「謝礼はいくらでも。」
しばらく考えた男は「仕方ねぇなあ」と腰を上げ、御簾越しの男をひょいと覗き込んだ。
「じゃ、善は急げだ。今からその男のとこまで案内しますから、ついてきてくださいよ。」
「今から?」
「ええ。わりとフラフラしている男なんでね。早めに捕まえないと会えなくなっちまう。」
清四郎は即座に立ち上がると、簡単に身支度を整え、彼の後を追い掛けた。
愛しい女への道が繋がっていると信じて、期待に胸を膨らませる。
必ずや、この手に・・・・・!悠理!
夜道を急ぐ清四郎の身体は、清々しい覚悟でいっぱいだった。