帝に書簡を届けた後、朝廷への挨拶を済ませた清四郎は、長旅に疲れた身体を白木の床に横たえ月を眺めていた。
すすきの穂が細い風に揺れ、もの悲しさすら感じられる閑庭。
青く、まあるい月が空を照らしている。
そんな冴え冴えとした───晩秋の夜。
ひときわ孤独を感じる。
この疲労、けしてただの旅疲れなどではない。
言わずもがな、最愛の想い人と離れ、共寝が出来ない所為だ。
肌寂しい感覚に胸が震え、つい温もりを求めてしまう手。
秋の夜風より冷たいそれに、清四郎は重苦しい溜め息を吐いた。
あの別れから、たった一日しか経っていない。
潤んだ瞳を擦りながら、彼女は去った。
その後ろ姿を追い掛けることが出来ず、自分もまた背を向けた。
まさかこんなにも寂しさが募るとは思ってもいなかった。
こんなにも恋しさが膨れ上がるとは考えてもいなかった。
覚悟を決め、手放したはずなのに───
焦げるような切なさに苛まれ、清四郎の胸は痛み続けている。
どうして連れて来なかったのか───
後悔だけが荒波のように襲う。
喉が灼けつき、目頭が熱くなる。
指先が、彼女の髪や肌に触れたくて、微かに震えてしまう。
己の心を律することも出来ず、あの柔らかな身体の奥深くへ一刻も早く戻りたいと願う。
「悠理…………必ず……………」
空への呟きなど、誰の耳にも届かないだろう。
屋敷の護り人ですら、夜は眠りについていることが多い。
今の清四郎を、月だけが静かに見守っているのだ。
男はふと、寂しさに押しつぶされそうな自分を認識し、その現実に戸惑った。
こんな事態は初めてのこと。
しかしこれこそが恋の副産物なのだと理解出来る。
和歌で詠われるような、切なさ、痛み、苦しさをその身に全て感じ取り、初めて人の想いに共感する。
今まではどこか別世界の夢物語だと思っていた。
確かに、美しい女への興味は少なからずあったが、本心からその全てを欲しいと感じたことはなかった。
もちろん心も。
許嫁に対しても、義務を果たすような感覚であったし、一夜限りの女には温もりと欲を吐き出す肉体だけを求めていた。
恋に狂う人間を、どこか冷めた目で見つめていたのは、彼らの感情に同調できなかったから。
だが今はよく解る。
会いたくて、その瞳に自分を焼き付けたくて、必死になる男の気持ちがよく解る。
それほどまでに、’悠理’という女は自分を変えてしまったのだ。
妖しの狐。
人間ではない異形の者。
なのに、心はひどく燃え盛っている。
彼女が欲しくて、身が焦げそうなほどに。
あの温かな存在に触れ、どれほど癒されていたかを知った男は、もう一度冷静さを取り戻そうと座禅を組んだ。
自分達は到底許してもらえる関係ではない。
半分とはいえ、帝の尊き血を引く男と、狐の一族の娘。
皆が口を揃えて反対するだろう。
朝廷は混乱を来すに違いない。
たとえ秘密裏に匿おうとも、必ずどこからか洩れてしまう。
自らの立場を鑑みて、清四郎はうんざりと首を振った。
だが欲しくて仕方ないのだ。
こんなにも何かを欲したことは過去一度もないように思う。
生まれ落ちたその瞬間から、何不自由ない暮らしを約束されてきた男。
「…………帝に万が一、何かあれば………」
帝位はもちろん自分に回ってくる。
義兄と同じ、いやそれ以上の教育を受けてきた清四郎は、自分の立ち位置をよく理解し、常に落ち着きを持った行動を心がけてきた。
責務から逃げ出そうと思ったことは一度もない。
そしてそれは、強い欲求を抱いたことがない証でもあった。
あの狐の娘に何が宿っているのだろう。
心惹かれる理由は、ただ彼女が異形の輩というだけではない。
魂の輝きともいえる“何か”が、清四郎の心を捉えて離さないのだ。
────我はやはり、諦めることなど出来ない。
雲一つ無い空。
青き月に誓った男は冷えた空気を断ち切るよう、漆黒の目を見開いた。
・
・
その頃の悠理はというと………
とあるきっかけで知り合った男と、陽気に酒盛りをしていた。
男の名は’魅録’。
清四郎同様、上背のある逞しい身体と鋭い眼光。
凛とした潔さを感じる若人だった。
「おめぇ、女のくせに“うわばみ”だな。」
「そう?あたいの父ちゃんと母ちゃんも相当飲めるから、きっと血筋なんだと思う。」
見た目は極上の美女。
まるで宮廷の女御たちのように線が細く麗しい女だが、その口調は田舎者そのもので、魅録はあまりのギャップに戸惑ってしまう。
「この“どぶろく”旨い!」
「だろ?これは俺ん家のじいちゃんが作ってるんだ。なかなかの腕前でよ。京でも評判なんだぜ?」
魅録は陽気な女の褒め言葉を、素直に受け止めた。
二人はまだ知り合ったばかりだというのに、気が合うのか、すっかり打ち解けていた。
昼間、町中で偶然出会い、とある事情で関わっただけの関係である。
都一、品揃え豊富な大店で、 美しい髪を一つに束ね、傘で顔を隠すこともせず、堂々と暖簾をくぐってきた女。
手には一目で判る、高価な簪を無造作に握っていた。
ホクホク顔で見送る店主に笑顔で挨拶するも、どこか寂しげな雰囲気を漂わせる。
そのぎこちない笑顔にこそ、魅録は目を留め、立ち止まってしまったのだ。
美しさだけなら一瞥だけで素通りしただろう。
寂しい目。
傷ついた獣のような孤独を感じる。
彼の琴線に響いたのは、その目だった。
そんな彼女を追う三つの人影。
いち早く気付いた魅録は気配を殺し、そっと後をつけ始めた。
人相の悪い、いかにもな男達はニヤニヤと下卑た笑いを浮かべている。
相手は誰もが二度見してしまうほどの美貌だ。
悪漢どもに目を付けられるのは当然かもしれない。
だが女はあろうことか人気のない道を堂々と歩き始めた。
舌なめずりする勢いの男たちはおそらく、自分たちのアジトにでも連れ込み、悪の限りを尽くす予定なのだろう。
その期待を膨らませる“にやけ顔”が、魅録の癪に障った。
足音を忍ばせ、彼らの後ろをつけていく。
京の安寧を脅かす者は見過ごせない。
ただでさえ最近、治安は悪化の一途を辿っていて、夕時ともなれば女の一人歩きなど以ての外である。
自分の身は自分で守るしかない時代。
正義感溢れる若者は、旅人らしき女の無事を見届けるまで、自らの時間を割くことを決めた。
そして・・・・
町外れの寂れた寺に差し掛かった時、男達はとうとう醜い牙を剥いた。
一人が悠理の背後に掴みかかり、もう一人が進む先を遮る。
だが、狐の娘は勘が良い。
その嗅覚は人間の数倍とも数十倍とも噂される。
悠理は覆い被さろうとした男をさらりとかわし、買ったばかりの鋭い簪を握りしめた。
「………ったく。か弱い女に何しやがる!」
ぞんざいな口調に、悪漢どもも目を瞠る。
黙っていれば、どこぞの姫君と言われても信じるほどの美しさだ。
白い肌と薄紅色の唇。
華奢な首筋からは、恐ろしいまでの色香を感じる。
それもそのはず。
つい朝方まで、清四郎に愛されていた身体だ。
そこはかとない気怠さも、濡れたような瞳も、本能に生きる男達の五感をビンビンに刺激してしまう。
「一人歩きは危ない……って、親に教えられなかったかい?」
「ふん。やらしい顔しやがって。おまえら、あたいに勝てるとでも思ってんの?」
「なかなか言うじゃねぇか。しかしその細腕で、どう立ち向かおうってんだ?」
自信に満ちた言葉だが、もちろん正論だ。
どう見比べても、女と男、倍ほどの体重差がある。
魅録はいよいよ危険と感じ、木の陰から身を乗り出そうとした。
が、次の瞬間。
華奢な女は勢いよく身を翻すと、まずは背後の男に当て身を食らわす。
鈍い音が辺りに響き、哀れなほど簡単に崩れ落ちるその姿。
しかし眉一つ動かさない女は次に、進路を邪魔していた少々がたいの良い男に目を向けた。
大きな足の甲を思い切り踏みつけ、怯んだところを蹴り飛ばし、あっという間に地面へと伏せさせる。
更に着物の裾を気にすることなく馬乗りになると、その首筋に簪を突き立て、呆然と立ち尽くすもう一人の男を強く睨み上げた。
「わかったか?こうやって………立ち向かうんだよ。おまえらみたいな小童、あたいに敵うわけないだろ?」
ニヤッと笑う、その表情すら美しい。
妖艶とも鮮烈とも言える、佳麗な微笑。
言葉を失ったままの男はどうにか冷や汗を拭うと、当て身を食らい気絶寸前の仲間を無理矢理立ち上がらせた。
「おい、待て。」
「ひっ!」
「こいつ、どーすんだよ。」
悠理は雅な簪を自らの頭に差す。
そして目を白黒させる男からゆっくりと身を離した。
力量の差は歴然。
泡を吹く勢いで逃げ去ってゆく三人は、しかし驚くほど足が速かった。
情けない男達の姿に、魅録も呆れるほかない。
だがそれ以上に見事な立ち回りをした悠理を、呆然と見つめていた。
(なんてお転婆だ。だが・・・・・こいつは、面白え。)
奴らの影が見えなくなってようやく、悠理は長く息を吐き出し、乱れた着物前を整える。
髪から抜いた簪を手ぬぐいに包み直すと、今度は衿元にさし、着物の上からポンと優しく叩く。
大切な簪。
傷を付けるわけにはいかない。
パンパンパン
「すげぇな。おめぇさん。」
突如として木の陰から現れた男に驚く様子もなく、悠理は不敵な笑みを見せた。
「いやはや、よけいな心配をしちまったぜ。女でそれだけ強けりゃ、怖いもん無しだな。」
「ふん。あんたは?」
「俺は魅録。この街で“なんでも屋”を営んでる。ようするに、“助っ人”みたいなもんかな。」
「へぇ~・・・あたいは悠理。見ての通り、旅してるだけ。目的はもう、終わったけどね。」
男の目を真っ直ぐに見つめるその無垢な瞳に、魅録は思わずドキッとしたが、次の発言は、これまた違う意味で鼓動を跳ねさせた。
「なぁ、あたい、腹減ったんだけど………なんか食わせてくんない?」
「え?」
「今日、朝から何も食ってないんだ………もう………ペコペコ………」
よくよく見れば、確かに顔色が悪い。
夕餉の時刻まであと僅かだが、恐らくはそれまで保たないのだろう。
「わかったよ。いいもん見せてもらった御礼に奢ってやるよ。俺の行きつけの店でいいか?」
「あんがと!たっけぇ簪買っちゃって、あんまり金無かったんだ。助かる!」
どういう事情かは後から聞くとして────
魅録はこんな具合で知り合った、“悠理”という名の旅人を世話することに決めた。
その人間離れした美しい姿もそうだが、五感全てで彼女に惹かれてしまったからである。
────気になるよな。
けして見た目通りでない女の隠された秘密に、彼の鋭い嗅覚が反応したから、という理由もあった。
面白そうな事には目がない若者は、この出会いが人生の岐路になるとは思ってもいない。
二人は夕暮れ時の町へ戻り、こぢんまりとした料理屋でたらふく飯を食った。(主に悠理が)
彼らはまるで知己の友が如き様子で、盛り上がる。
「そりゃあ、えらく遠いとこからやって来たんだな。」
「まあな。」
「親は心配しねぇのか?」
「心配?さっきの見てたくせに、わかんねぇの?」
「あ、ああ。そうだったな。」
二人は大いに酒を酌み交わしたが、夜も更けて来たところで店の大将に追い出され、場を変えることとなった。
「俺ん家来いよ。酒ならあるぜ。」
「やった!飲む飲む!」
「なんなら、そのまま泊まってけ。どーせ今夜の宿、とっちゃいねぇんだろ?」
「魅録───あんたって………いいヤツだなぁ。」
すっかり気に入ったのか、まるで親に懐くかのように腕を組んでくる女。
そんな姿に魅録は毒気を抜かれてしまう。
本当なら“少しくらい”───というスケベ心もあったはずなのだが…………今更、難しい。
こうして出会ったばかりの男の家に上がり込んだ悠理は、清四郎と別れた寂しさをぶつけるかのように酒をあおっていった。
どぶろくの美味さを言い訳にして────
・
・
「兄さま!」
「姫。ご無沙汰していましたね。」
「やっと会いに来てくださった!寂しゅうございましたのよ?」
翌日────
清四郎は手土産の菓子を持って、許嫁の屋敷を訪れた。
其処はいつの日も春であるかのように華やかで、品の良い薫りが漂っている。
そして花を思わせる一人の少女。
重々しい着物に負けず、満面の笑顔で清四郎を迎え入れた。
乳母の制止も聞かず、兄と慕う男の腕にしがみつく。
蓄積された寂しさをぶつけるかのように。
「済まない。少々長旅になってしまいました。ほら、詫びにこれを。皆の分もある故、後で分けなさい。」
「まあ!こんなにもたくさん?ありがとう、兄様!」
喜びを隠そうともしない子供のままの許嫁を、清四郎は優しく見つめる。
────まだ十三………いや、もうそろそろ十四になられるのか。
美しき姫の長き黒髪は豊かで、手入れの行き届いた光沢が眩い。
見た目だけでなく教養も深い彼女が、あと少しで自分の正式な妻となり、子を作る為、その幼き身体を差し出すのだ。
宮廷の更なる繁栄を目指さなくてはならない二人。
清四郎は自分の置かれている立場を考えると、どうしても気が重くなった。
────悠理のような自由は望めないのか。
妖狐として生まれた彼女は、窮屈とは無縁に感じる。
美しく、そしてどこか気高さすら感じるその生き方。
伸び伸びとしなやかで、夢見るような瞳は活き活きと輝いて見える。
一転、男の腕の中ではしっとりと喘ぎ、泣き濡れた声で翻弄する。
立ち昇る色香に思考は絡め取られ、求めずには居れなくなる。
何時間でも、
何日でも。
たとえ狐の姿に戻ったとしても、清四郎はその温もりから離れられない気がした。
まるで妖術をかけられたような溺れっぷり。
彼をよく知る人は、きっと信じようとはしないだろう。
一人の女、それも化け狐に惚れ込むだなんて、まさしく愚の骨頂。
その恵まれた地位は、どのような女でも選び放題なのだから。
「兄様。旅は如何でしたの?」
期待を大きな目に浮かべ、野梨子はすり寄るようにもたれかかった。
二人は昔からこの距離で接している。
本物の兄妹のように。
「面白い………いや、素晴らしい出会いがありましたよ。」
「まさか、お友達が出来たの?どんな方?」
「………。」
言って聞かせる相手ではない。
そう解ってはいるが、清四郎は悠理の存在を誰かに教えたくて仕方なかった。
「美しい人です。そして……とても強い。」
「美しくて、強い?そんな殿方、兄様以外にいらっしゃるの?わたくし、信じられない。」
誤解したまま首を傾げる姫の、その幼さは愛おしい。
どうかこのまま、純粋な心根で居てほしいと願う心。
魑魅魍魎渦巻く宮中の悪意になど染まって欲しくはない。
女たちの哀しき末路を知るが故の願いだった。
「そのお友達はどうされたの?」
「都で……………別れました。」
「もう、お会いにはならないの?」
「……………それは…………」
出来ることなら今すぐにでも会いたい。
彼女を追いかけ、連れ帰り、誰が何と言おうと屋敷に住まわせ、朝な夕な睦み合い、互いの顔しか見えない生活を送りたい。
まだ伝えたりない愛の言葉で雁字搦めに縛りつけ、二度と離れないと誓わせたい。
「会うつもりです。もちろん───」
「兄様がそれほどおっしゃる方なら、わたくしも是非お会いしたいわ!」
無邪気な提案に苦笑いで応える清四郎。
こんな姫はとても愛しいけれど、野梨子に女は感じない。
それは昔からずっと。
幼いという理由だけでなく、彼の心が求めようとしないのだ。
「いつか………そんな日が来ると良いのだけれど…………」
「あら、お約束はしなかったのね。兄様ったら………」
(…………しましたよ。固く、強く、それは誓いにも似た言葉で。)
時間が経つに連れ熟成されていく想いが、清四郎を駆り立てる。
早く、一刻も早く、彼女に会いたい。
いや、会わなくてはならない。
あの娘は決して手放してはいけない者だった。
まるで心の臓をもぎ取られたような痛みがその証。
「兄様?どうなさったの?」
「いえ、何も。」
この幼き姫を傷つけることに躊躇いはあれど、今は自分の想いを貫きたい。
清四郎は生まれて初めて抱く渇望に、抵抗する事を完全に諦めた。
たとえどれほどの人から蔑まれようとも、あの狐の娘を必ずやこの手に…………。