それから三日が経ち───
二人はとうとう京の都へ足を踏み入れた。
旅の終わりに近付けば近付くほど歩みは遅くなり、宿に寄れば、食べる間を惜しんで互いを求め合う。
────どうせ今だけの関係。雲の上の御仁に想いを寄せても無駄なこととわかっている。京で別離が待ちかまえているのなら、今を存分に楽しみたい。
それは彼女らしくない考えだったかもしれない。
獣の勘とやらで身ごもったと分かっても、悠理は全身全霊で清四郎を受け入れた。
男はただがむしゃらに求め、何の約束もしていない。
彼がただの町人であったなら。
村人であったなら……。
恐らく無理を言ってでも狐の集落へ連れ帰ったことだろう。
家族を作り、末永くいつまでも過ごせたことだろう。
しかし彼は貴族。
それも“やんごとなき位の男”だ。
彼を拐かしたとなれば、帝の軍が村を襲う。
噂に尾ひれや背びれを付けるのは昔からお得意技だ。
仲間達の穏やかな生活を奪われかねない。
だからこそ、悠理は諦めた。
父や母は激怒するだろうが、子供だけは必ず産み落とす。
一人で、否、それこそ適当に見繕われた男と結婚し、育てるのも悪くない。
互いに情がない分、むしろやりやすいかもしれない。
腹の子だけは………絶対に失いたくなかった。
清四郎の───この男の“子”だから。
「とうとう………明日ですね。」
「…………そだな。」
隠す必要もない、知り尽くした裸体のまま、二人は布団の上で寄り添っていた。
先ほどまで激しく繋がっていた為、火照りがなかなか引かない。
男の吐き出した精が悠理の中にしっかりと根付き、まるで炎を飲んだかのように温かかった。
「…………良い簪が見つかると良いのだが。」
「………ん。母ちゃん派手好きだから、うんとでっかい店(たな)に行って、探してみるよ。」
こんな話がしたいわけではない。
最後の夜───もっと大切な………心をさらけ出す為の時間が必要なのに。
目に宿る互いへの想い。
清四郎は覚悟の上で口を開いた。
「悠理…………私は貴女が愛しい。愛しくて仕方ありません。」
「清四郎………」
「出来ることなら僕の屋敷に住まわせて、閨から一歩も出したくない。日が昇ってもずっと………」
そんなことは不可能だ───と分かっていても、清四郎は溢れ出す想いを留められなかった。
自分には由緒正しき家柄の許嫁がいる。
彼女は幼き頃から清四郎と結婚することだけを夢見、生きてきた。
狐の女を連れ帰れば、宮廷内は不穏に包まれ、恐らくはあちらの両親から大きな不興を買う。
もちろん───彼女自身からも。
「…………んなの、無理だよ。あたいは簪を母ちゃんに持って帰んなきゃなんないし。それに………清四郎は…………」
────貴族だ。
妖しの血を、皇族、貴族たちは良しとしないだろう。
目に浮かぶ不幸が腹の子に降りかかっては堪らない。
だからこそ悠理は、喉から手が出るほど欲しい男を諦めなくてはならなかった。目の前にある幸せを手放さなくてはならなかったのだ。
「楽しかったよ────この旅が、あんたと出会ったことが………あたいの一生の宝だ。」
「悠理!」
清四郎は激しく抱きしめた。
息の根を止めてしまうのではないかと思われるほど強く。
「離れたくない。これが終わりだなんて………考えたくないんです!」
それは悠理とて同じ思いだ。
出来ることなら、彼との豊かな未来を描きたかった。
「好き………好きだよ………清四郎。あたいだって…………」
恋とは、これほど胸が絞られるものなのか。
身を切られるような切なさに苦しむものなのか。
抱き合う二人は同時に同じ感想を抱いていた。
触れ合う肌の間を、空気にすら邪魔されたくはない。
「…………来世は一緒に居たいね。」
「来世?」
「あたい、来世は……人間になるんだ。そしたら………清四郎とも…………」
胸の内全ては吐露できない。
こぼれ落ちる涙と嗚咽に邪魔されたから。
柔らかな頬を流れる一筋の涙。
その清らかな涙はあまりに尊く───清四郎のあやふやだった心を強く押し上げた。
「来世なんて………待てるわけないでしょう!」
そんな不確かな物に頼るくらいなら、いっそこの場で命を絶った方がマシだ。
それほどまでに激しい恋情を、どうして押し殺すことが出来よう。
待てるわけがない。
今世で想いを遂げなければ、この先の人生はまさしく闇夜の如く。
後悔と絶望に満ちたものとなるだろう。
「私は確かに帝の弟で、捨てられないものはたくさんある。だが…………それ以上に大切な存在となった貴女を、このまま捨て置くことなど出来ない!だから…………」
清四郎は悠理の潤んだ瞳へ口付けを落とした。
そして長い睫毛を愛しそうに舐める。
「待っていて下さい。私は必ず、貴女の元に戻ります。」
「清四郎……………」
目に宿る、真摯な光と信念に近い決意。
勢いに押された悠理は、思わずコクリと頷いてしまった。
信じたい。
期待したい。
彼の想いが実を結ぶまで────
「待ってる…………待ってるから……」
悠理は清四郎の胸に頬を寄せた。
躍る心はどちらのものか分からなかったが、少なくとも悠理の全身に悦びが駆け抜ける。
本当にそんな日が来るのだろうか?
そしてそれは許されるものなのだろうか?
今は朧気に浮かぶ答えから目を背けたかった。この男の言葉を信じたかった。
清四郎の情熱が再び降り注ぐ中、悠理はこの上ない幸せに心を震わせ、未来へと続く光の糸を必死に手繰り寄せようとした。
・
・
・
「お兄様はまだお戻りでないの?」
年老いた………といってもまだ30そこそこの乳母(めのと)は、困ったように微笑んだ。
美貌と教養を兼ね備えた彼女は、宮中でも評判の美熟女だ。
そして彼女が愛して止まない姫君もまた、今年十三を迎え、その美しさに拍車がかかっていた。
数多くの公達が求婚出来ず悔しがっているのは、彼女が帝の弟と約束しているからである。
大納言の娘に生まれ落ちて直ぐ、親同士が清四郎の許嫁と定めた。
幼き頃からの約束事。
十四になれば正式に彼の妻として扱われる。
野梨子姫はその日を心待ちにしていた。
誰もが憧れる帝の弟。
庭を飛び交う鳥ですら彼の凛々しさを湛える。幼い姫の心を掴んで離さないのも当然のこと。
「もうすぐお戻りになられますよ。そうすればきっと、土産を手にお顔を見せにいらっしゃいます。」
「そうね………あまりはしゃいでいたら恥ずかしいわね。」
「ええ。姫様ももう十三才。大人の女性を目指すためには、落ち着きも必要ですよ?」
尤もな乳母の言葉を素直に聞き入れ、野梨子は空に浮かぶ青白い月を眺めた。
流れるような黒髪は豊かで、大きな瞳はまだ見ぬ明日を夢見ている。小さな口は紅が無くとも紅く、白い頬はふっくらと温かそうに膨らんでいた。
───お兄様、早くお会いしたいわ。旅のお話をたくさん聞きたいもの。
籠の中の鳥が如き生活に飽き飽きしている姫君は、清四郎から聞く様々な話を心待ちにしている。
今回はどんな道中だったのだろう?
どのような出会いがあったのだろう?
好奇心を隠しきれない野梨子の胸は、空に浮かぶ満月のように膨らみ続けていた。
未だ幼さから卒業できない彼女は、それでも何不自由のない幸せな生活に包まれている。
生まれながらの姫君。恐らくは一生の幸福を約束された存在だ。
この先、そんな期待を裏切られるとも知らず、野梨子は月を隠そうとする雲を忌々しく睨む。
「お兄様も今頃、この月を眺めてらっしゃるかしら?」
彼女の予想に反し、清四郎の目には狐の娘しか映っていなかった。
快感に溺れる甘い声と、切なげな表情。
光り輝く肌を見つめる男に、空の月など何の魅力にもなりやしない。
雲が月を隠しても、
星がこの世から消え去っても、
彼にとっての光は、もはや悠理だけとなったのである。